バースデイプレゼント






 七月に入り、毎日蒸し暑い日が続いているというのに、ムツは相変わらず昼休みになると椅子に座っている俺の背中に張り付くのだった。
 遠いところでセミが鳴き始めている。それは教室の窓が面している中庭から聞こえてくるのかも知れないし、反対側の正門前に立ち並ぶ木々のところから聞こえてきているのかも知れなかった。いずれにせよ、夏真っ盛りという感じで、何が言いたいのかといえば、……非常に暑い。
「……おい、」
 図書館で借りてきた五冊の内の一冊である文庫本を斜め読みしながら、俺は額からじわりと湧き出てくる汗を手の甲で拭った。教室中に夏も間近の熱気が満ちているというのに、何故この忌々しいイケメン面は懲りずに俺にくっついてくるのだろう。
「暑いぞ、ムツ。離れろ」
「やだよ。……そんないーじゃん、いつものことだしさ? 恥ずかしがんなって」
 別に恥ずかしがっている訳じゃない、その次元は当に通り越してしまった。何せこの面食い女子が刹那もおかずに飛びつきそうな極上ルックスを持つ同級生・野瀬睦が、昼休みに弁当を食べ終わった後で俺の背中に抱きついてきて惰眠を貪るのは、四月に部活・バレー部のチームメイトにもなってから既に日常の一コマとなっている。こんなのが日常になるなんて俺からすれば甚だ遺憾なのだが、そう文句を言ってもこいつが素直に従い離れてくれたことなんてない。一度もない。
 クラス中の少々痛い視線を浴びつつも、次から次へと思い浮かぶ罵倒の言葉の一つ一つをぐっと喉の奥に押し込めてこれまでずっと我慢してきたのだが、いい加減限界だ。
 もう七月。
 夏も間近いのである。
 暑くて我慢ならない。
 ……背中にムツが密着していると、その間からじわじわと汗が染み出てきて、ワイシャツが肌に張り付いて非常に不快なのだ。
「って訳だから、頼むから離れてくれよ」
「やだやだ〜」
「駄々捏ねんな。本の角で脳天殴ってもいいのか?」
「うわっ! ユキ、何をそんなおっそろしーことをさらりと言ってんだよ!」
 読みかけの本に指を挟んで閉じ振りかざすと、流石にムツは離れてくれた。とは言っても、所詮今まで身体を拘束していた両腕が解かれただけなので、暑さはまだ収まらない。
 椅子の背もたれと俺の背中の間に身体をねじ込むようにしていつものように入り込んでくるムツには、一体全体普通の人間の温度感覚というのが存在しないのだろうか。
 奴の額にも一筋の汗が浮かんでいる。
「……お前だって暑いんじゃねぇか」
「暑いけど、お前にくっついて寝ることの方が優先だ。俺ぁ昼休みにユキをぎゅうしてお昼寝しないと身体がおかしくなっちまうんだよ」
 どういう体質をしているんだ。
「うるせーよ。俺の抱き枕のクセにぃぃ」
 友人を物扱いするとはいい度胸である。
 ……俺はお前の抱き枕じゃないぞ。
「だってー、温かいし、柔らかくて気持ちいいし、抱き心地いいし、それに……いい匂い、するし」
 言ってムツは、再度俺の背中にくっついてきた。
 胸の辺りを緩い拘束が遅い、ちょっとだけ涼しくなっていた背中にさっきまでの熱が戻る。
「いい匂いって何だよ。気持ち悪い」
「いい匂いはいい匂いなんだから仕方ねぇじゃん。……あー、すっごい落ち着くー」
 俺は落ち着かない。何ヶ月もの間毎日毎日抱き枕にされても、どうしても、この不自然に密着した状態に慣れることはできないのだ。
 そんな俺の心中を知ってか知らずか、ムツは俺の首筋に顔をうずめてくる。鼻先で俺の伸ばし気味な髪を探って、深く息を吸い込んだ。
「……ん。ユキ、シャンプー変えた?」
 それからすぐに顔を離して尋ねてくる。わかるものらしい。
「まぁ、うん。……よくわかるな」
 母親がいつものやつではなく売り出しになっていて安かったものを買ってきたので、昨日からこれまで使ったことのない新しいものを使っている。メントールか何かが入っているのか、妙に洗い上がりがすかすかするシャンプーなのだが、夏場の鬱陶しい気候に、爽やかな感じのその洗い上がりはさほど嫌いではない。
「わかるよ。今までとは違う、すかって感じのミント系の匂いがすんぜ」
「へぇ」
「今までは割と、石鹸っぽい感じの淡くて甘い香りがしてたんだけどな」
「……ムツってもしかしなくても匂いフェチ?」
「うん」
「……素直にうなずかれると引くぞ……」
 そう言って俺はムツの額を手のひらで押して引き剥がそうとしたのだが、ムツは草むらを歩いていると引っ付いてくる草の実くっつき虫のようにくっついて、なかなか離れなかった。俺はやがて暑苦しいハンサムフェイスの男を引っぺがすことは諦め、代わりに小さなため息を一つだけつくと、読書の続きに戻る。
「ユキの匂いだー、って、すっごく安心するんだよな……ふぃ、」
 俺が抵抗しなくなったのをいいことに、ムツは改めて俺の腹に回した手に微かに力を込めると、首筋に顔をうずめて香りの変わった俺の髪の感触を確かめているようだった。
「……。そういやさー、」
 しばらく静かに本を読み進めていたところへ、ムツがそう口を開いたのは、随分と時間が経ってからのことだった。
「何だ」
「ユキって、香水とかはつけたりしない人?」
 俺は活字から目を離し、少し首を捻って考える。別につけたことはない、と、思うね。記憶力に自信がないから今一つ断言できないけれども。
「少なくとも、日常的にはしないな」
「つけてみようとか、ねぇの?」
「あんまり興味ないね。日頃学校行くぐらいでしか出かけないのに、よその誰が嗅ぐもんでもないんだから、つけたって意味ないと思うし。それにだな、」
「うん?」
「……そんなもんに金かけるのがもったいない。香水一つ買えるだけの金があるなら、俺はそれで本買った方が有意義だ」
「はははっ、ユキらしー」
 ムツはからからと、この時期にぴったりな、まるでアメリカ西海岸のからっと晴れ渡った空の下を吹き渡る風のように快く乾いた声で笑った。
「そっかそっか、ユキは金をかけるのが嫌なのか……そりゃそうだなぁ、ユキなら香水よりもよっぽど本買う方がそれらしい」
 自他共に認める読書好きの俺である。
「うーん、それじゃあさ、ユキ。もし俺がプレゼントかなんかであげたら、使ってくれる?」
「プレゼント?」
 振り向いて俺は聞き返した。
 ムツは俺の胴に腕を回したまま、こくんとうなずく。
「……香水を?」
「そう。どうだ?」
 どうだと言われても、何とも答えようがない。
 第一プレゼントって、お前は俺に何の理由で贈り物をするっていうんだ。俺はお前と日常的に貢ぎ合う嫌な関係になった記憶はないぞ。
「貢ぐって……。そうじゃなくてさ、ユキ、今月誕生日だろ? 二十一日だっけ。それで、誕生日プレゼントにどうかなーと思ってさ」
 ああ、誕生日にか。
 すっかり忘れていたが、今月二十一日は俺の十三歳の誕生日なのだった。十三年前、夏も盛りのこの頃に、俺は生を受けたのである。
「……道理で最近急に暑くなったと思った。そっか、誕生日が近いんだな」
「お前、自分の誕生日忘れてたのかよ!」
「いちいち覚えていられるかって。一年に一度しかないのに」
 言うとムツは、「一年に二度や三度あっても逆に怖いけどな」と至極真っ当な意見を述べ、再び明るい声で笑った。
「そっか。で、どうだよ? そんなんでもいい?」
「嫌とは言わないな」
「何だよ、その微妙な反応。俺が誕生日にプレゼント贈るって言ってんだから、もうちょっと喜べよな」
 少々、押し黙る。
 普通、自分の生まれた日の祝いに贈り物をしてくれると言われたら、そりゃあムツの言う通り素直に喜ぶのが当然の反応なんだろうが、だからこそ、俺はそうして諸手を上げて喜ぶことができなかった。
 何というか――
 この歳にもなって、誕生日にプレゼントを貰って素直に喜ぶのも、恥ずかしい。
「何、嬉しくないの? 嫌?」
「……別に嫌な訳じゃないけど。ただ、お前が俺にプレゼントなんて、一体どういう風の吹き回しかと思って」
 思ったことを悟られたくなくて、軽く視線を逸らしつつ言ってみる。
 するとムツは眉間にしわを寄せ、珍しく難しそうな表情を作った。一度俺から離れて腕を組み、しばらくの間考えるようにその状態を維持する。
「……いや、さ。日頃、世話になってるし」
「……」
「迷惑も色々かけてるし」
「……」
「それに、……一応、ここ来て最初に友達になった奴だし」
「……」
「何か恩返しっつーか、お礼みたいなもんしてもバチは当たんないんじゃないかなー、みたいな。……んなこと言うと、『プレゼントとかはいいから日頃の行いを改めてくれ』ってお前は言いそうだけどさ」
 ムツはぽりぽりと頭を掻いた。
「ここずっと、そればっか考えてたんだよ。何贈ろうかなって。……最初は、お前本好きだし、何か二、三冊買ってやろうかと思ってたんだけど。でも、適当に俺が選んだ別に読みたい訳でもない本を贈られてもユキはつまんねーだろうし、だからってユキがどんな本読むのかとか、実はあんまり知らないし」
 ……はぁん。
 最近、俺が本屋に行くのにやたらマジな顔をしてついてくると思ってたら、そういう理由があったのか。
 俺は勝手に一人で小さくうなずいた。
「結構悩んでて、それでさ……」
「香水とか、言い出したのか」
「うん」
「……わかったよ」
 降参と言わんばかりに頭の横に小さく両手を上げて、俺はため息をつきながらそう言った。
「わかったって?」
「だから、香水。別に、好きにすればいい。何贈られようがひとまずある程度のリアクションは返してやるよ。……ただし、あんまり高価なもんはやめてくれよな。来年、お前の誕生日に返すのに困るから」
「……マジで?」
 整った顔立ちの一部である形のよい大きめの目を皿のように丸くして、ムツは聞き返してきた。
「香水でもいいの?」
「何でもいい。核兵器の発射ボタンとかじゃなきゃ、何だっていいから」
「本当にっ!?」
 次の瞬間には、嬉しそうに顔を輝かせている。
 本当、こいつはわかりやすい。
「本当っ? 俺が香水贈ったら、お前、日頃からつけてくれるかっ?」
「何でそうなる。……日常的には無理だぞ、決まってるだろ」
「えー……!」
 そしてすぐに、眉が下がって泣きそうな顔になった。
 情けねぇな。
「……。日常的には無理だけど、まぁ、キツい匂いじゃなくて、週一くらいなら……」
「本当っ!? 本当だな! 嘘じゃないなっ!」
「わかったわかった、嘘じゃない。約束する」
「やったっ!」
 何がそんなに嬉しいのかわからないが、そうしてまたすぐに元の嬉しそうな顔に戻って、ムツははしゃいだ声で言った。
「おーし、そうと決まればユキのためにとびきりいっちゃってるフレグランスを用意してくれるぜ」
 ……頼むから、日常的に使ってもおかしくない普通の香りのにしてくれよ。
 言葉にはせず、胸の中で思うだけに留めて、代わりに俺はやっぱりため息をついたのだった。

 それが七月一日に交わされた会話であり、それから三週間が経過して、俺の誕生日がやってきた。
 テストも終わり、テスト返却も終わり、水泳大会も終わって、いよいよ学校もやることがなくなって午前授業の日々が続いた、夏休みも目前の終業式の一日手前。
「ユキーっ!」
 たまには部活の朝練習に参加するのもいいだろうと早めに登校し、いつも通りジャージに着替えて部室から出、部室棟から体育館へ入ろうとしたところを、聞きなれた常夏の声が脳天に直撃してきた。
「お誕生日おめでとーっ!」
 振り返るとそこにいたのは予想通りの声の主で、ムツが、制服姿且つ肩からエナメル鞄を下げたままの状態で猛ダッシュしてくるのが見えたので、俺はまさか飛びついてくるつもりじゃあるまいなと若干身構えつつも、軽く手を翻して答えてやった。
「おはよーユキーっ! 今日は一段と輝いてるぞー!」
 俺の予感は的中し、ムツは二メートル手前から踏み切って思いきり飛びついてきた。俺は少し勢いを殺しつつそれを受け止めてやり、ぎゅうぎゅうと暑苦しく抱き締めてくるのを甘んじて受けてやる。一年に一回の今日くらい、許してやってもいいだろう。
「という訳でぇ、プレゼントを持ってきた」
「もう渡しちまうのかよ。せめて昼休みくらいまで引っ張ったらどうだ」
「や、んなことしても意味ねぇし。折角選んできたプレゼントだから、すぐ渡して見てもらいたいの。……あ、それとも何? ユキは焦らされたいのか? 焦らしプレイを希望?」
「焦らしプレイって何だよ」
「はい、どーぞ。ユキ嬢」
 ムツは鞄をごそごそとあさり、中から丁寧に包装紙で包まれた小さめの箱を取り出して差し出してきた。ムツの台詞にわずかに顔をしかめつつも、俺はその箱を受け取る。
「開けていいのか?」
「てか開けろ。今すぐ開けろ」
「強制かよ……まぁいいけど」
 綺麗に箱を包んでいる包装紙をビリビリに破きながら――俺はプレゼントを丁寧に開けるのはまどろっこしく思っているのでいつもこうなってしまう――箱を取り出し、箱の蓋を開ける。
 中に詰まっていたのは、シンプルな形をした小さな瓶。
 透明な液体がその中で揺れている。
「……結局香水にしたのか」
「オーデコロン、だな。持続時間はせいぜい二時間で、さほど強い香りじゃないから、日常的につけても鬱陶しくないはずだぜ」
 小瓶を取り出し、夏の太陽光で満ちた体育館の外へ向かって揺らしてみる。
 それから包装紙と箱をムツに預けて、瓶の蓋を開けた。
 ふわりと微かに広がる、爽やかな甘い香り。
「何のフレグランスだ?」
「シプレ・シトラスっていったら、ユキくらいでもわかるんじゃないか。……具体的には、レモンとベルガモットで柑橘系の香りだよ」
 しばらくの間、俺は静かなまま柔らかく漂うシトラスの香りを味わっていた。レモンと、ベルガモット。どちらも柑橘系特有の爽やかなフレグランスで、こいつを選ぶとは、ムツのセンスはなかなかにいいのかも知れなかった。
 軽く指先に落とし、耳の後ろにつけてみる。
「どう?」
「悪くないね」
 素直に感想を述べてやりつつ、俺は体育館の外にある真夏の光と、微かに風に揺れる柑橘系の香りとのコントラストを眺める。
「うん。予想通り、ユキに似合う匂いだなっ」
 光と香り。二つを背景に、ムツはやっぱり楽しそうに笑った。
「ユキにはこういう、爽やかでちょっと鋭いんだけど、でも甘い感じの香りがよく似合う」
「本当お前、匂いフェチなんだな」
「まーね。……ま、せいぜい活用してくれよ。俺的には、『夜にはレモンとベルガモットの香りを着て寝ています』なんて洒落をぶっちゃけるまでになってくれたら嬉しいな」
「俺はマリリン・モンローか」
 苦笑しながら、答えてみた。
 もう一度、体育館の外を見る。
 風が吹いて、俺と、ムツの髪を微かに揺らした。
「……ハッピーバースデイ・トゥ、ユウ」
 そんな夏色の風の中、ムツは俺の背後に回り、そっと胴に腕を回して、顔をオーデコロンをつけたばかりの首筋にうずめる。
 ムツはそのまま黙っていて、どうやら、俺の首筋に染みた柑橘系の香りを堪能しているようだった。
 たまにはこういうのもいいだろうと、敢えて俺は抵抗しないでいてやる。
 耳元に囁かれる、お決まりの文句。

 風に揺れる、レモンとベルガモットの香り。


[バースデイプレゼント 了]
[読了感謝]


……何だろう、このやたら小っ恥ずかしい小説は。(爆)
ユキの誕生日記念ということで書きました。
ユキのちょびっとだけデレターンですね(笑)
中学生の時、クラスの男の子がよく香水の香りを纏っていたなー、
というのを思い出しつつ。
(中学校にはそういうチャラめの子が結構いたんですよ)
夏なのでレモンとベルガモットという爽やかな柑橘系の香りですが、
ユキが冬生まれだったとしたら、ムツは絶対にシナモンとかの
甘いフレグランスを贈っていたと思います。
そして……食っていただろうな。←
うん、いっそユキはムツに食べられちゃえばいいよ!(問題発言)
誕生日おめでとう、ユキ。




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