グラヴィティ






 重たい鉄の扉を開いた瞬間、そこから目の奥を刺す光が溢れ出してきた。
 一瞬その眩しさに眩暈を感じてから、俺は屋上へと続くその扉をゆっくりと前へ押す。軋んだ音を立てて開いた別世界へのゲートの向こうは、扉を開けた瞬間とは比べ物にならないくらいの光で満ち溢れていた。
 中学一年生も今日で終わり――三月某日、本日快晴、である。
「うわっ、眩しっ……」
 思わずそう声を上げ、右腕を上げて太陽光を遮って目を細めた。元々目つきの悪い俺だから、今俺の顔を見る人間がいるならば、俺が目を開いているのか瞑っているのか実に判断に迷うことだろう。
 そんな判断を下すことのできるこの場における唯一の人間は、屋上の向こうの柵に寄りかかっていたところを俺の声を聞くと振り返らないまま、よっ、と軽く右手を上げて声をかけてきた。
「ユキ、来てくれたんだ。てっきり来ないもんだとばっかり」
「お前が呼び出したんだろうが」
 こっちを振り返り、屈託なく笑ったその顔が驚くほど様になっているイケメン面――面食い女子が刹那も置かずに飛びつきそうな極上のルックスを所有する友人・野瀬睦、通称・ムツは、俺の突っ込みにそれもそうだな、と悪びれもせずにうなずいた。
「でも、お前、俺の言うことなんか滅多に聞いてくれないじゃん」
「そんな滅多にない機会が今だろ。感謝しろ」
 言って俺は、ムツが叩いて示した柵の辺りへと歩み寄る。鉄で出来た銀色の柵を触ると、太陽光で温められたそれはもの凄い熱を孕んでいて、一瞬掴むのを躊躇った。
 それから改めて、隣で何でもないように柵を掴んでいるムツを見た。こんな眩しい中よく平気な顔して屋上にいられるな、と思っていたが、それもそのはず、その整った顔立ちには似合いもしない眼鏡らしきものが引っかかっている。両視力二.〇という健康優良児のこいつが視力矯正用の眼鏡なんかかけている訳がない。常識的に言ってこれは伊達眼鏡――二枚のレンズはセピア色をしていて、それがサングラスなのだということを顕著に示していた。
「……お前、ずるいだろ。一人だけサングラス持参かよ」
 顔をしかめた俺が言うと、ムツはしれっとしてこう答える。
「だって眩しいじゃん。んなこと言うならユキだって持ってくりゃあいいのにさ」
「今日の朝学校に着いてから急に『放課後屋上に来いよ』って言われて、用意できる訳がないだろ」
 俺はため息をついた。ムツにとってはそうでもないらしいが、俺にとってこの世界はあんまりにも眩しすぎて、このままずっと留まっていようものなら目から煙が上がって見える世界が真っ白になりそうだ。
 それを、こいつは。
「外せ。目障りだ、外して俺によこせ」
「日頃はクールなのに時々とんでもないことを言い出すよなぁ、ユキは。……嫌だね、俺だって眩しいんだよ」
 ムツは眉を顰めて肩をすくめる。
「つーか、俺とユキと比べてもサングラスなしじゃ俺の方がよっぽど眩しいと思うぜ? ほら、俺って瞳の色素薄いじゃん。だから、同じ明るさでも基本的には他の人間よりも眩しく感じるんだよ。……まー、人様の目になんかなったことないから、本当に俺の方が眩しく感じてるのかはわかんねぇけどさ」
「そんなことあっても困るけどな。……なのに何でこんなクソ眩しいところに来るんだよ。お前って馬鹿だろ」
 言って俺はムツの顔に向かって手を伸ばし、無理矢理サングラスを奪い取った。あぁっ、と微かに悲鳴を上げるムツをさておきそれをかければ、世界はほんの少し落ち着いて見える。これで大分眩しくなくなった。
「返せっ、返せよ、ユキっ」
「嫌だ。俺を一方的に呼びつけた罰だ、我慢しろ」
 日頃、基本的にムツにはやられっぱなしだから、たまにこんなことで仕返しできると気分がいい。ムツはしばらく俺の周囲をぴょんぴょんと飛び跳ねて奪い返そうとしていて、俺はそれを意地悪く眺めていたが、やがて諦めたらしい、「はーぁ、まぁいいや、ユキだし」と言ってため息をつくと、そのままさっきまでの定位置だった俺の隣に戻ってきて、太陽の姿を一筋の帯へ変えている柵に寄りかかった。
「……いい天気だなぁ」
 そこから軽く身を乗り出して、ムツは眩しそうに目を細めながら言う。サングラスが外れて露わになった瞳の色は、本人の言う通り色素が薄く、ほぼ真上にある太陽の近くを見つめているのは本当に眩しそうだ。
 その視線の先に広がっているのは、雲一つない――春も目前の青空。冬の空に比べると大分その青さも増していて、同じように強くなった太陽光には春の到来が感じられる。屋上のコンクリートはそんな太陽に温められて、俺達を包む風の冬の名残の冷たさを和らげていた。
「……そうだなぁ」
 ムツから奪い取ったサングラス越しに同じように空を見上げながら、俺もそう返事をする。するとムツは俺が素直に同調したことに気分をよくしたらしい、うきうきとした口調で続けた。
「手を伸ばしたら届きそう。あの青い中に手ぇ浸したら、どのくらい気持ちいいのかな」
 言って実際に空へと手を伸ばすムツを見て、俺は苦笑した。相変わらず子供みたいなことをする奴だ。
「お前はしょうもないことを考えるな」
「しょうもねぇことかな?」
「凄い勢いでしょうもないと思うぜ」
 ふぅん、とムツは言う。
 それから俺達は、しばらく黙って、学校の屋上の遥か上空に広がる春色の青を見上げていた。
「こんないい天気の日はさ、」
 隣でムツが柵を飛び越え、向こうのコンクリートに着地する音が聞こえた。俺が音のした方を見ると、ムツは柵の二メートル程先にある落下防止のフェンスへ向かってゆっくりとした足取りで歩んでいる。
「俺、誰かに呼ばれてるような気がするんだよな」
 言って、やはりこれも二メートルほどありそうなフェンスを軽々と攀じ登り、ムツはその天辺に気安そうに腰掛けた。その向こうには何もない。青い空と、それに包まれた街の景色があるだけだ。
 風が吹いた。
「手を伸ばしたら届きそうな青い向こうからさ、『おーい』って」
 再びムツは、空に向かって手を伸ばす。広げられた右手は風の中に浸って不安定そうに、わずか揺れる。身体も同じようにゆらりと揺らいだ。
 体重を、前に移動させたのだろう。
 けれど、残った左手は、しっかりとフェンスを掴んでいた。
「『お前もこっちに来いよ、いい世界だぞ』ってさ。……そんな声が聞こえるんだ。その時は、重力も空気抵抗も、何もかもなくなって――両手広げて飛び出したらそのまま、声がするあの空の向こうまで、ずっと飛んでいける気がするんだよ」
 俺に背中を向けている故、ムツの表情は窺えない。
 けれどその口調は、このどこまでも晴れ渡る空の如くに清々しそうで。
 ムツはフェンスの上に座ったまま、足をそっと投げ出す。
 そのまま落ちるのかと思ったが――左手は離さなかった。
 また風が吹いた。
「……行くなよ」
 と。
 俺はムツに向かって言う。
 青い空を背景に、金網フェンス、それに腰掛けたモデル候補生並みの容姿を持つムツ――というその構図は、サングラスのレンズ越しに見ても、眩しかった。
「本当に誰かが呼んでるかなんてわかんねぇだろ。……それに、『気がする』と現実は違う。こっちの世界じゃ重力も空気抵抗もなくなったりなんかしない。お前、空も飛べる気がする、なんて言いながらそこから両手広げて飛び出してったら――きっと、空の向こうに辿り着く前に校庭のあの辺りに自由落下して、潰れたヒキガエルになれるぜ」
 言って、俺も柵を飛び越えた。
 フェンスの上のムツまで、距離にして約二メートル。
「向こうの世界もそりゃあ結構かも知れないけど、さ。こっちの世界も、なかなか悪くないだろ」
 俺は背を向けたままのムツに向かって、苦笑交じりで右手を差し出した。

「戻って来いよ」

「……ユキがそー言うんなら、やめよかっかな」
 ムツは言ってこっちを振り返った。
 太陽光を背景にしたそのハンサムフェイスには、いたずらげな微笑が浮かんでいる。
 その微笑は、俺に微かなる危機感を与えた。
 そしてその嫌な危機感は。
 上手い具合に、清々しくも、的中する。
「確かにそれもそうだ。向こうの世界への興味は捨てきれないけど――こっちの世界も大変結構だ」
 言ってムツは――
 右手を差し出した俺に向かって、飛び込んできた。
 フェンスの上から、屋上の俺に向かって。
 両手を広げ。
 自由落下、してきた。
 一瞬のことだったから流石に避けることも出来ず、俺はムツの突撃を真正面から喰らう。
 セピア色のレンズのサングラスがそよ風の中に吹っ飛んだ。
「……へへっ。ユキの言う通りだ」
 俺が熱せられたコンクリートに背中を強かに打ちつけた直後、ムツはそっと、俺の後頭部に腕を回し。
 緩んだ笑みを浮かべて、楽しそうにこう言った。

「重力、あった」


[グラヴィティ 了]
[読了感謝]


 ポルノグラフィティさんの楽曲に、同名の「グラヴィティ」という曲があります。
 元ネタはその辺り。
 とりあえず、軽くいちゃいちゃしているムツとユキが書きたかった←




home

inserted by FC2 system