昔話をしよう。
 人生十七、八年も生きていれば少なくとも一つくらいは、……多ければ俺のように両手指で数えねばならないくらいは、人には二度と思い出したくないような忌々しい歴史っつーもんがあるもので、俺の決して優秀ではない脳内メモリーの中にあるそんな小っ恥ずかしい思い出話の一つにこんなものもあったという話をさせていただく。高々高校二年生だか三年生だかの青臭いガキんちょが何を偉そうに言ってやがる、と思ったそこの貴方、多分そうして舌打ちするんで正解だ。まだ四半世紀も生きていないような子供が何を語るか、成人してもいないクセにエラソーに「人生における二度と思い出したくない忌々しい過去」だとかほざいてんじゃねぇ、と、これからその昔話をせんとする俺自身ですら思うのだから。
「ならば何故エラソーに語ろうとするのか」という疑問を、この小説を今まさに読んでいる貴方は抱かれることだろうが……その至極当然のクエスチョンには、「事の成り行き」とだけ答えることにしておこう。俺にも色々事情ってやつがあるのさ。そう、ちょっとしたお上の人からの命令とかね。
 ……何の話をしていたんだっけ?
 そう、昔話。二度と思い出したくない忌々しい過去の話。
 その永久的に忘れ去りたい封印必須の昔話の背景を話すと、それは今から実に四年半前、俺が中学一年生と今よりもっとガキだった年の、十月も終わりのとある日のことだ。具体的に言うとその日は当時通っていた中高一貫私立男子校における年に一度の(二度あっても困るが)学園祭の日で、更に言えば二日ある日程の内の二日目である。
 その時の俺は、前日の学園祭一日目に起こった不幸な事故に精神を滅多打ちにされ、自分の心をおだてたり宥めたり騙したりすかしたりした後、どうにかこうにか気を取り直して学校へ登校し――昨日のことは絶対に忘れよう、とりあえず今日は何が何でも学園祭を楽しんでやるぞと半ばやけくそ気味に気分を高揚させていた。元々俺は学校行事特有のあの異常なまでに盛り上がった雰囲気が好きじゃなく、自分がそれに混ざるのなんて言語道断なのだが、その時ばかりはそうして無理にでも盛り上がっておかないと精神状態が危ない方へ傾き続け、気がついたら屋上のフェンスを越えて青い空の彼方へ向かってわぁ、命綱ナシのバンジージャンプ! を繰り広げそうだったのだ。
 ……詳しいことは省くが、日頃の自分のキャラを放棄してまでそうしてはっちゃけておく必要があったんである。その詳細については別に語っているから、是非そっちを参考にしていただくこととして、ここではこの物語の先を急ぐとしよう。
 そう――そして、俺がそんな風に無理矢理にでも盛り上がれる要因だって、学園祭の二日目にはあったのだ。
 少なくとも、一日目のような不幸な事故とは全く方向性が違うハッピーイベントが、俺を待ち受けている……はずだったんである。
 はずだったんだ。
 なのに――

 二度と思い出したくない忌々しい過去の話。
 それは、学園祭一日目で癒えることのない心の傷を負った俺に更に追い討ちをかけた――今のところ、人生で二番目か三番目、下手をしたら一番に、思い出したくない昔話である。





キッドナップアリス


 チンケな中高一貫私立男子校の学園祭も、ようやくのこと二日目を迎えていた。
 前日の学園祭一日目に、完全に癒えることは絶対ないだろうってくらいの深すぎる精神的切り傷を負った俺は、そんなずきずきと鋭い痛みを放つ胸を押さえつけつつ、二日目を迎えまだまだ盛り上がろうとする学園祭の会場――すなわち校舎の中を、重たい足取りで歩いていた。手にはついさっき、コンビニまでひとっ走りして購入してきた物資が入ったビニール袋がぶら下がっており、これの依頼主が誰かというのを考えると気分的には今すぐにでも放り出してしまいたいくらいなのだが、それはぐっと堪えて俺は人の波をすり抜けていく。
 只今時刻は十時半過ぎ。毎年かなりの数の来場者を誇る我が校の学園祭は、一日目同じく今日も人で溢れ返っている。こんなくっだらない男子校の学園祭のために休日を一日潰してしまうなんて、一体この世界にはどれだけ暇人が溢れているんだろうね。そんなに暇だというなら、是非ともその暇を俺にわけて欲しいもんだ。
 そんな暇人軍団の中に紛れ込んでいた、近所の女子校の制服に身を包んだ女子生徒が一人、制服のズボンにクラスTシャツという出で立ちで背中を丸めて歩いている俺を見て「あ、昨日のオーロラ姫の子」と傍にいた友人に囁くのが耳に届いた。……あー、聞こえない聞こえない。昨日のオーロラ姫? な、何のことかなぁ。
「ったく……」
 とか言いつつも、こうしてすれ違いざまにひそひそ話をされるというのは実は俺にとって(悲しいことにも)慣れてしまったことである。昨日の一連の事件でちょっとした有名人になっちまった俺は、一度校内を徘徊すればすれ違ったところを後ろ指差され放題で、そうして好奇に満ちた視線を向けられる度に、俺はますます背中を丸めるのだった。
「……これも全部、あいつのせいだ」
 俺はぼそりと呟くと、校舎の角を曲がってとある教室の前で立ち止まる。そこは校内関係者以外の立ち入りが禁止されている一角で、主に荷物置き場や控室として機能している教室群だ。
 俺は今手にしているビニール袋を「あいつ」に思い切りぶつけてやろうと意を決すると、ドアに手をかけてがらりとスライドさせた。

「おっ、ユキ。おっ帰りー♪ 買って来てくれた?」
 その忌々しい同級生である「あいつ」は、俺が教室に入るなりそう軽い口調で声をかけてきた。嗚呼、俺がこうして心を痛めているというのに、どうしてお前はそうもすがすがしく笑うのかな。しかも俺が心を痛めている原因は他でもないお前だというのに。
「……おら、買って来てやったぞ。馬鹿」
 面食い女子が刹那もおかずに飛びつきそうな極上のイケメン面を愉快そうに歪めて笑う奴・野瀬睦――通称・ムツのその顔面めがけて、俺は手にしていたコンビニのビニール袋を下手投げで投げつける。が、それが無駄に整った顔面にヒットすることはなく、ムツは持ち前の反射神経で見事にキャッチすると、「ありがとさんきゅー♪」と鼻歌混じりに袋の中身を物色し始めるのだった。
 ……こんにゃろう。
「何だよユキ、まるで蕎麦屋でざる蕎麦を注文したのにカツ丼が出てきた時みたいな顔してんな? そんなムッツリしてると可愛さが半減だぜ? 笑え笑え」
「……昨日の今日でお前相手に笑えるか」
「あ、何? もしかしてまだ昨日のこと根に持ってんのか。駄目だなー、ストレス過剰で死んじゃうぜ? 長生きできないぞ。いい加減忘れろよ、俺も謝ったんだしさ」
 そう言って、クラスメイト兼部活・バレー部のチームメイトである鬱陶しいハンサムフェイスは頭の横に両手を上げ降参のポーズを取る。飄々としたその態度が返って俺の苛立ちの原因になっていることに、果たしてこの男は気がついているのだろうか。
「まーさー、お前が怒るのもわかるけどさー。明日は明日の風が吹くように、今日は今日の風が吹くんだぜ? 昨日とはかちっと気分を切り替えろよ、ユキ」
 そのスイッチだって、只今絶賛用意中なんだしさ――
 そう言ってムツが片目を瞑った時だった。
「……ムツーっ」
 教室の後ろ側に設けられている暗幕のかかった謎のスペースから、そう控えめにムツを呼ぶ声がして、俺は弾かれたようにそっちを見た。暗幕からは白い小さな手がわずかに覗いていて、誘うようにひらひらと揺れている。
「おう、どした? ミキ」
「い、一応着替え終わったぞっ!」
「マジか! じゃ、ちょっくら出てきてみ?」
 笑いながらムツに促されて、しかし暗幕の向こうの相手はしばらく出て行くか否か迷っている様子だった。胸の辺りがくすぐったくなるようなもどかしい動きでゆらゆらと暗幕が揺れ、理性崩壊寸前の俺が痺れを切らして幕の向こうへ突入しそうになった頃、ようやくのこと、可憐な声の主が姿を現した。



「……!!」


「こ……こんな感じ……かなぁっ……?」
 よくそのまま理性をぶっ飛ばしてしまわなかったと、あの時の俺を褒めてやりたい今の俺である。
 ああ、それはもう、俺の前に姿を現したバレー部のチームメイトは、理性を青い空の彼方へポイ捨てしてうっかり抱き締めてしまってもおかしくないくらいに可愛らしい出で立ちをしていたのさ。ふわふわと肩の下で揺れる淡い栗色の髪に、宝石のような輝きを持つ大きすぎる瞳、はにかむというか照れるというか、あどけなく、愛らしいにもほどがある表情。衝動に任せて組み敷かなかった自分に賞状とトロフィーを贈呈したいね、全く。
 男子校に通う立派な男子校生であるにも関わらず、町の男の十人に八人は振り返るだろうってくらいの少女めいた美貌とキュートさを持つこの美少年は、その名を服部実紀という。下の名前はつい「みき」と読みそうになるが、正しき読み方は意外にも硬く「さねのり」と、謎のギャップ萌えすら持ち合わせた我が練習Cチーム自慢の美人マネージャーが彼だ。通称はずばりミキ。本名の「さねのり」よりもよっぽどそっちの方がしっくりきてしまう、そんな彼は男子校であるにも関わらず先輩達から愛の告白が絶えない大人気アイドルでもある。
 そんな、校内で一番か二番に可愛らしい外見をした奴が――
 更には、「不思議の国のアリス」の主人公・アリスの衣装を着ているなんて状況に出くわしたら、一体君は何を思う?
「おおっ、可愛い可愛い! よっく似合ってるぞ、ミキ!」
「そ、そうかなっ? 俺的には、ちょっとこの、スカートが短すぎる気が……」
 親指を突き出したムツに褒められて、ミキは恥ずかしそうに頬を赤らめる。手はスカートの裾を抑えっぱなしだ。その動きが何とももどかしく、ついついそっちに視線が行ってしまうのは、俺だって健康な思春期のオトコノコだ、平にご容赦いただきたいところである。
 水色のワンピース。傍目から見ても確かに短いスカートはふわりと膨らませてある。その上からフリルのあしらわれた真っ白なエプロンを被っており、同じ男のものとは思えないほど細くてしなやかな脚は同じく白いタイツに包まれていた。黒くつや光りする磨き上げられた靴。頭の上に、黒い大きなリボンのついたカチューシャがちょっと曲がって乗っかっているのもまた愛らしい。
 誰かの妄想が具現化したかのような姿で恥らっているミキを見て、俺はぽかーんとだらしなく口を開け、ただひたすら唖然とするしかなかった。
「いーや、そのくらいが丁度いい長ささぁ。ジャストフィットって感じだよ。うん、うちの衣装部も捨てたもんじゃないね、やっぱり」
 そう言いながら続いて暗幕の向こうより登場したのは、演劇部に所属しているムツの友人・成瀬理音だった。我が校が学園祭ムード一色になってからしばらく色々と世話になりっぱなしの協力者は、後ろで一つにくくった肩下までの長い髪を愉快そうに揺らしながら、猫のような笑みを顔に浮かべている。
 今回このアリス的衣装をムツの命令により用意させたのは、他でもないこいつだ。役者を始め大道具小道具、音響・照明、衣装・メイク、そして演出を総括する学年代表を演劇部で務めている理音は、衣装担当の部員に頼んで大至急これを作らせたんだそうだ。別の視点から見れば、そんな理音を友人に持つムツは自分のコネを最大限利用した訳であり、そういう自分の目的のためになら友をすら利用するやたらと厚かましい態度、俺は嫌いでなくもない(二重否定、つまり嫌い)。
「うん、まさに完璧なるアリスここに光臨☆ って感じだねぇ。何ならミキてぃ、来年演劇部の劇で主役やるか? 演目は『不思議の国のアリス』にしてあげるよ♪」
「遠慮しますっ! 謹んで遠慮しますっ!」
 ムツと仲良くやっていけるだけある流石の変人は、ミキの頭を撫でまわしながら尚笑ってそんなことを言う。
 けれど実際、理音の言う通りで――ミキのアリス姿は、まさに完璧なるものなのだった。
「どうする? メイクは一応薄くやってあるけど、必要ならヘアメイクもうちのメイク担当にやらせよっか、あっくん?」
「いんや、ヘアメイクはこの俺様が腕によりをかけて頑張るからいいぜ」
 あっくん、といつもの呼び名で呼ばれて、ムツはやる気満々クラスTシャツの袖を捲って笑顔で答えた。俺がさっきコンビニで買ってきた袋の中身はそのヘアメイクに必要な品色々で、ヘアピンとヘアゴム、ヘアスプレーなんかが入っていたのだ。ズボンのポケットから櫛を取り出しながら、ムツはまるで初めて着せ替え人形を与えられた幼稚園児くらいの女の子のように嬉しそうだった。
 ……先に言っておくが、ムツ、ミキはお前のオモチャじゃないぞ。
「オモチャじゃねぇよ、当たり前じゃんか。ミキは――俺の、可愛い彼女♪」
「なった覚えないんだけどぉぉぉぉッ!」
 ミキのアクティブな突っ込みを視界の片隅に捉えながら、俺はいつものように呟いてため息をついたのだった。
 やれやれ。
 学園祭二日目の今日、何故俺達がこんなことをしているのか――それはさかのぼると、大体二週間ほど前の日の話になる。


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