昔話をしよう。
 率直に言わせてもらって、俺は人間という生物が基本的に嫌いである。その理由を並べると時間が許す限り百くらいは軽く連ねられると思うのだが、ここではそんな無限の時間が与えられている訳ではなく――小説という体裁を取っている今、それは「字数」と言うべきなのかも知れないが――よって選りすぐりのいくつかについて言うと、例えばすぐ裏切るとか、嘘をつくとか、都合のいい時だけ媚びるとか、自分の利益しか考えないとか、弱者を虐待するとか、異端を疎外するとか、例えどんなに間違った思想でも大多数が支持するものならばとりあえずそちらにつくとか、まぁ、そんな感じだ。
 けれどここで勘違いしないでいただきたい、俺は決して人間を軽蔑している訳ではないのだ。そう人間を非難している俺だって宇宙人製の有機アンドロイドではないし、神様でもなければ聖人君子でもない。実のところ俺が嫌いだと挙げた人間の特性は、まさにこの俺に備わっているものだ。人を裏切る才能に関しては天下一品だと思うし、嘘をつく技術なら世界一とまではいかなくても日本一になるくらいの自信はある。弱肉強食の世界において弱者の虐待は自然の摂理、異端の疎外は種として生存していくための必須条件だ。多数決に従わなければ死あるのみだろう、今の世界なんてさ。……人間のこんなひねくれたところも、俺は大嫌いな訳である。
 ……何の話をしていたんだっけ?
 そう、だから人間の話。薄汚れたこの世界の話。
 そんな人間で、要するに俺は異端だった。異端故に疎外されたし、誰かから慣れ合うことを望まれもしなかった。きっと俺は俺を取り巻いていた彼等からすれば異端も異端、人間らしく汚れた「危険因子」だったに違いない。小さい頃の記憶を手繰り寄せてみてもそこに親友と呼ぶべき友人の姿はなく、脳裏に浮かぶのは幼稚園の教室の隅で一人絵本を広げどっぷり空想に浸かっていた「痛い子」な自分だけだ。まぁ、ごく例外で俺を慕ってきた奴も一人いたが、そんな奴も俺からすれば異端だった訳であり。
 要するに。
 俺は、盛大に、すれ違ったのだろう。
 彼等と出会ったその瞬間に、大きくすれ違ったのだ。
 すれ違い、その差を埋める機会もなかった。
 ……。
 だからこそ思う。
 人間と人間の、すれ違いは悲劇だと。
 悲劇だからこそ、その悲劇を超えた本物の物語と友情がある、と。

 これはそんな、音が響くような、花が咲いたような、悲劇と友情の話。






 そんな俺も中学一年生にもなればよくつるむ友人の一人や二人が当然いた訳であり、通っていた私立中高一貫男子校のクラスメイト兼部活・バレー部の同輩である野瀬睦、通称・ムツと浜野恵、通称・メグもそんな友人の一人だった。
「だ・か・ら! そこはクレシェンドだって言ってるだろうがウスラ呆け!」
「はぁ!? ウスラ呆けって何じゃアルプスのヤギ!」
「……何で俺がアルプスのヤギなんだ!」
「だってお前ユキだろ? ヤギのユキちゃん! ……まさかあの名作アニメ『アルプスの少女ハイジ』を知らないとは言わせねぇぞ! 大体そんなこと言ったら何で俺がウスラ呆けなんだよ!」
「お前なんかウスラ呆けで充分だ。クレシェンドもろくに理解できないような呆けなんだ、きっと将来脳天からハゲてくるぜ」
「おーっ、言ったなてめぇっ! 覚えてろよ、還暦迎えたら後頭部の写真、写メ交換させるからな! 絶対お前の方が先にハゲるし!」
「どうだか。確かに俺の方からハゲてくるかも知れんけど、呆けはどうだろうなぁ……今から呆けてるようじゃ、お前爺さんになったら頭爆発して夜中に徘徊してるんじゃないか?」
「呆けても頭爆発はしねーわ! 生物で何を習ってんじゃボォォォォォケ!」
「生物の授業寝てばっかのお前に言われたくないわバァァァァァカ」
「きぃぃぃーっ!」
 授業間の休み時間に早弁し終わり、窓から差し込む午後の光が眩しい、夏休みが明けて数日の教室。
 席が隣同士の俺とムツは椅子に横向きに腰掛け、机の上に音楽の教科書を広げている。手にはプラスチック管のアルトリコーダー。実は夏休みの課題になっていたリコーダー二重奏の試験が数日前にあったのだが、音楽に課題があったなんて衝撃の事実をまさに試験当日に知った俺とムツのペアは、てんで滅茶苦茶な音楽と呼べもしない演奏を先生の前で披露し、見事に追試通告を受けたのだった。その追試がこれから昼休みにあり、それに向けて練習をしていた訳だが……
「大体クレシェンドって何だよ! 謎過ぎるんだあのVの横長! あんなの理解できる奴の気が知れねぇよ、俺は!」
「だから、徐々に大きくするって意味だってさっきから何回も言ってるだろうが! 一回で理解しろよ、お前」
「やーだねっ、第一それが人にものを教える態度かってーの! ユキの馬ー鹿!」
「ざっけんな。それが人にものを教えてもらう態度か! ……その台詞、そっくりそのままお前に返す」
「うっぜー!」
 さっきからずっとこんな調子だ。最初の八小節くらいまでは普通に練習できるのだが、リズムが違うわ強弱記号は無視するわ、上のパートを担当しているムツのリコーダーはなかなかに酷いもので、追試などといい加減いらいらしている俺はそれに多少乱暴な口調で注意している訳だが、その度にこの天邪鬼なハンサムフェイスは反抗してくるんである。不毛な言い争いをそれこそ不毛だと思ったらしいムツは、挙句の果てにはリコーダーで俺のことを殴ろうとしてきやがった。黙ってプラスチックの枝の餌食になるのはご免なので、俺もすかさず自分のリコーダーで応戦する。かちぃん、と楽器同士を(間違った使用法で)奏でた音が教室に響いた。



かちぃん、と楽器同士を(間違った使用法で)奏でた音が教室に響いた。


「もう、二人ともやめなよ。大人げないなぁ」
 そんな俺達二人を端から見守っていたメグが、呆れたようにそのエセ優等生面を歪めた。こいつがこんな顔をするのも珍しい、どうやら本気で飽きられているようだ。まぁ、ガキの喧嘩とも言うべき口論を昼休みが始まってから五分近く聞かされているんだから、そりゃあ嫌にもなるだろうけどな。
 でも、
「文句ならムツに言えよ。俺はただ強弱記号無視してるって言っただけだ」
「はぁ? だーかーらっ! アレが人にものを教える態度かって!」
 世話が焼けるなぁ、とでも言うように眼鏡を直しため息をついたメグにそう抗議すると、ムツがその面食い女子が刹那も置かずに飛びつきそうな極上のイケメン面を怒らせて再び噛みついてきた。俺はメグから視線を外し、やたらむかつくムツの端整な顔を睨む。目つきが悪いと言われて久しい俺だ、睨めばかなりの恐怖を相手に与えるということを俺は経験上よく知っている。
「……ひっでぇ顔。犯罪者みたい」
「犯罪者は言いすぎだろ。名誉毀損で訴えんぞ」
「だから、二人ともやめなってば!」
 いい加減嫌になったのか、メグが声を荒げた。かなり憤っているのか、頭に作られたポニーテールの尻尾がゆらりと揺れる。眼鏡のレンズの向こうの目があまりにも険しかったので、俺もムツも流石に黙った。日頃温厚なこいつを怒らせたらやばいだろうと、何となく勘でわかる。
「大体がリコーダーの追試如きで喧嘩なんて、子供じゃないんだしさ。そんな風に言い合ってたって合格できる訳じゃないだろ? 何でそれがわからないのかなぁ……二人の言い合いは、丸っきり不毛だよ。ていうか、何、その低レベルな口喧嘩!」
 酷い言われようだ。どうやらメグは相当ご立腹らしい。
「だってユキが――」「だけどムツが――」
「とにかくっ!」
 俺達がお互いを指差しそろって言い訳をしようとしたところで、メグがそう声を張り上げた。
「追試合格のためにも、お互いに気を遣う! ……ムツは教えてもらったところは素直に実践、ユキはもっと丁寧に優しく教える! わかった!?」
「……はい」
 椅子に座っているところを、その長身で立ち上がられてそう言われると流石に圧倒される。不愉快そうに眉を吊り上げられて、俺もムツも苦い顔でうなずくことしかできなかった。何だかんだでメグの言っていることは正しいしな。
「……で、クレシェンドって何? ユキ」
「……徐々に大きくする。この、記号が伸びている範囲で少しずつ音を大きくするんだ」
「へえ。そのクレ……なんちゃらが小さくなったようなこの記号も、同じ意味でいいのか?」
「それはアクセント。似たような感じと思ってもらっていい。これがついている音符は目立たせて演奏する」
「ん、了解。……そういえば、ここのリズムの取り方わかんねぇや。一回吹いてくんない?」
「いいよ」
 やっとのことで落ち着いた練習を俺達が始めると、メグはムツの後ろに構えた席に座って「最初からそうやってすればいいのに」とため息をついた。ああ、その通り。俺達はまだまだガキだよ、お前と比べればさ。
 ムツに言われたフレーズを吹き終わり、待ち受ける追試に合格するべく、俺は机の上の楽譜とムツが吹く上のパートの音に集中することにしたのだった。


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