* * *

 演奏し終わった。
「……」
 昼休みも半ばの音楽準備室に、俺とムツと音楽教師(女)が紡ぎ出す静寂が流れる。手には汗で湿っぽく感じられるアルトリコーダー、正面には譜面台に課題の楽譜・音楽の教科書某ページ。俺達は椅子に座った先生が帳簿に評価をつけるボールペンの音を聞きながら、身じろぎもせずに呼吸を整えていた。
 大きなミスはなかったと思う。途中一回だけ、リピートを忘れて次の小節へ進もうとしてしまったところがあったが、先生が気づくほどではないはずだ。あとは、ムツのリコーダーがちゃんと吹けている割には豆腐屋のらっぱのような気の抜けた音を奏でていたのが問題だが、それはこいつに限っていつものことなので大きく減点はされまい。
「うん、いいでしょう。合格です」
 しばらくして先生にやっとそう言われた時には、安堵のあまり俺もムツもへなへなとその場に座り込んだ。それからさっきまであんなに口喧嘩をしていたことも忘れて、互いの肩を叩いて健闘を称え合う。よくやった。今くらいはお前のことも俺自身も拍手で褒めたい気分だよ、俺は。
「あー、良かったー! いい加減駄目かと思ったし」
「右に同じだ」
 安心して気が抜けたのか乾いた笑いが込み上げてきて、俺は音楽準備室の床にプラスチック管を転がして後ろに手をつく。天井を仰いで惜しげもなくその笑いをこぼせば、共鳴するように隣から同じような笑い声が響いてきた。見ればムツが安心を通り越して豪快に大爆笑している。
「っひぃー……あー、もう最高だ! 終わってよかった!」
「お前なぁ……馬鹿みたいに笑ってんじゃねーよ」
 と言いつつ俺も笑ってるけどな。ほっとしたんだよ、ほっと。
 先生はそんな俺達に良かったねと微笑を送ると、じゃあ出る時は音楽室から帰ってと断わって準備室を出て行った。ドアが施錠される音が響いた後は俺とムツだけが残される。
「……あー、笑いすぎて腹痛ぇわ」
 ムツは言って立ち上がると、丁度先生が出て行ったドアの正面にある半開きだった窓を全開にした。演奏中わずかしか入り込んでこなかった風が一気に吹き込んで、譜面台の上の教科書をはらはらとめくっていく。ムツはそこから中庭に向かって身を乗り出すと、
「をーっ、風が気持ちいいーっ!」
 なんて、エベレストに初登頂した登山家を気取ったように豪快に叫んだ。相変わらずやること成すこと派手な奴だ。いつもならやめろと言って頭をはたくところだが、今は俺も気分がいいので敢えて突っ込まない。
「まだ夏だなー!」
「いい加減終わるぜ」
 立ち上がってムツの隣に赴き、同じように窓から身を乗り出す。特別教室棟の最上階・四階にある音楽室から見る景色はかなりの絶景だ。正面に三階建ての高等部教室棟が見える向こうにはわずかにグランド、その更に遠くに広がる住宅地が望める。まだ夏休みが明けて間もない今、その景色は核融合万歳の太陽の下で煌めいて見えた。
「落ちろっ、落ちろーっ!」
「やめろ馬ー鹿」
「ずだだだだっ! どばーんっ!」
「防御」
「撃墜っ!」
「……気は済んだか」
 お世辞にも広くはない窓のところで、いつものようにムツのじゃれ合いに付き合ってやっていた時だった。

 ピアノの音が聞こえた。

 それがただのピアノの音だったら、俺の耳はそこまで積極的に脳に向けて信号を届けはしなかっただろう。それが俺が注意を向けたのは、その音が音楽の体を成していたからだった。いや、聞こえてきているのは、音楽とさらりと言ってしまうにはためらいすら感じる旋律だ。
 激しく動く低音の上で、荘厳に歌うユニゾン。
 確か、ショパン作曲のエチュード・「革命」――
「……とんでもないのを弾いてる奴がいるな」
 同じことを思ったらしい、ムツが俺の正面で手をピストルの形にしたままひゅう、と口笛を吹いた。リコーダーがあんな調子のムツがクラシックに特別詳しいとは思えないが、それでもどこかで聞いたことがあるんだろう「革命」なら。そしてあれの難易度がかなり高いことも、何となくではあれど知っているらしい。
 窓を開けたことで聞こえてきたのか……となれば、
「音楽室だな」
 音楽室と繋がっている真後ろのドアを指差して、ムツが言った。俺はうなずく。そもそもそっちから出て行けと命じられているんだ、通るついでにとんでもない曲を弾いている奴の面を眺めてから帰ろうじゃないか。
「流石、ユキ嬢。そうこなくっちゃ♪ お前のそういうところが好きだぜ」
 ムツはご丁寧にも俺に一度抱きついてから、窓を閉め――それによってピアノの音は一度途切れた――床に落ちていたリコーダーを拾い譜面台から教科書をひったくってドアノブに手をかける。俺もリコーダーと教科書を手に、それに続いた。
 ドアを開けると、丁度聞こえていなかった分だけ先に進んだ旋律をグランドピアノが高らかに歌っているのが響いてきた。ピアノをそんな風に歌わせている張本人を見て、俺もムツも、流石に驚く。
 何を隠そう、そいつが俺達の知り合いだったからだ。
 知り合いどころか、部活の同輩――である。
「……シズじゃん」
 曲が折り返し地点に到達し、彼の両手指が高音域から一気に滑り落ちるところで躓いて止まった、そこでムツがやっとのこと声をかけた。指が止まって苦い顔をしたシズ、ことバレー部の練習Dチームに所属している大橋静流は、そこで初めて俺達の存在に気がついたらしく、振り返って少し驚いたような顔を見せる。
「……何だ。誰かと思ったら君達か」
 生がつく真面目っ子として名高いシズからすると、よく部活をサボる俺達はあまりよく映らないらしい。驚いた顔をした後で第一声、シズは不機嫌そうな口調でそう放った。自分は真剣にやっているんだ、だから邪魔しないでくれないか、と言いたげなのがよくわかる。シズのそういうところが苦手らしいムツは、口を若干への字に曲げると「よっ」とそれでも軽く手を挙げた。基本的にこいつはフレンドリーだ。
「凄い曲弾いてるのな?」
「ショパンの作品十番第十二曲、革命のエチュードだよ」
 言ってシズは、その野暮ったいまでに二重の目を譜面台に戻し、置かれているピースの楽譜に冷たい視線を送った。別にそういうことが聞きたかったんじゃないと思うんだけどな。でもシズはそういう奴である。
「発表会が近くてね。練習しているんだ」
「発表会? お前、ピアノ習ってるんだ?」
「もう十年近くになるかな……四歳くらいから始めてね。未だにやめてないだけさ」
 わずかに開かれていた窓――ここからピアノの音が外へ漏れていたようだ――から入ってきた風に、シズの黒い髪がさらりと揺れる。
「もう一ヵ月後だっていうのにね。全然できるようにならなくて。困ったもんだよ」
「別に、ちゃんと弾けてたじゃん」
「ミスだらけさ。左手のポジションチェンジがまだ甘いし、右手のユニゾンが歌えていないし。それに、もう一曲がね……」
 シズは皮肉めいた口調で呟くと、「革命」をめくって下に置いてあったもう一枚の楽譜を広げた。その表紙に書かれている曲名を見て、再度俺は驚くことになる。同じショパン作曲、彼の四つある即興曲の内の一つ・「幻想即興曲」だ。流れるような右手の主旋律と左手のなめらかな伴奏が、独特のリズムで綴られるショパンの遺稿。
 そしてシズは鍵盤の上にやたらと白いその指を並べ、一気に演奏を開始した。
 安定した最初の一音に始まり、左手が緩やかな伴奏を流し出した上に、階段を駆け上るように右手が徐々に高音域へ至ってはまた戻る、一定のリズムによる旋律を奏で始める。それを聴いて俺は更に驚くことになった。上手い。シズの指は目で追うのがやっとのくらいになめらかに鍵盤上を滑っていく。何の変哲もないグランドピアノは、合唱団員を何十人も集めたかのような極上の歌声を奏でていた。
 責め立てるようなアレグロ・アジタートが終わり曲想が変わる直前で、シズは演奏を止める。何事かと思うと、楽譜に視線を落としたまま短く嘆息した。
「……まだここまでしか充分に弾けるようになっていないんだ」
「はぁん」
 何を納得したんだかわからないが、ムツがやけにもっともらしくうなずく。
「間に合いそうもないのか?」
「死ぬ気でやらないとね」
 シズは言って忌々しげな目でムツを一瞥すると、「幻想」の楽譜を閉じてしまった。
「とりあえず、弾けるようになりさえすれば『革命』はどうにかなる。でも問題は『幻想』の方だね……うちの教室では、発表会における即興曲は全暗譜での演奏が基本だ」
 全暗譜とな。
 またその先生も無茶なことを言いやがる。いくら複合三部形式の楽曲であるとはいえ、暗譜はかなり難しいだろう。どのくらい難しいかと言えば、俺の認識で広辞苑を三日間ぶっ通しで読破するのと同じくらいの難易度と思われる。
 というか、即興曲を楽譜なしで演奏させるなんて、実はその先生「即興」の意味を正しく理解していないんじゃないか? 「即興」はアドリブの即興じゃないぞ。
「まぁ、できなかったらそれでもいいんだけどね。その時は、普通に楽譜を出してもらえる」
「にしたって、んな曲二つも弾くのかよ? すげーな」
「別に」
 ムツが思ったところを率直に言葉にしたと思われる台詞を言っても、シズは皮肉な笑みをその顔に浮かべるだけだった。
「もう十年もやってるのに、E級も満足に弾けない落ちこぼれだよ。僕と同じくらいの年で始めた連中は、同じ曲をとっくに一年前の発表会で弾いてる。完璧にね」
「……」
「ま、僕は受験もあったし……そんな奴等に比べて暇じゃなかったっていうのも、多少はあるけど」
「……」
「でもそれは、今回曲を仕上げられない言い訳には、ならない」
 シズは言うと、そのまま再び鍵盤の上に指を置いて、俺達によって中断されていた「革命」の練習を再開した。地面にがっくりと膝をついて愕然としたくなるようなショッキング的出だしから演奏を開始したシズは、もうそのまま止めることなく演奏を進めていく。俺達などまるで最初からいなかったかのような、見事なスルーだった。
 で、結局俺達はピアノの傍でただ呆然と突っ立つより他になくなってしまった。シズがあまりにも真剣な視線を指先と譜面に注いでいるため軽い気持ちで声をかける訳にもいかず、かといって「じゃ」なんて帰るのも気が引ける。よって、歌ってはふと気がついたように止まり、その一小節を何度か繰り返してから数小節前に戻って続くのを、俺とムツは延々と聴き続ける羽目になった。
 いや、上手いからいいんだけど。
 上手いのはいいんだが、流石にここまで激しい音楽をずっと聴かされると夜中過ぎまで読書にふけってしまった翌朝のような重みが頭を襲うね。「革命」に「幻想」という二曲をチョイスするとは、もしかしたらそのピアノ教室の先生はセンスが欠如しているのかも知れないな。
 ムツも同じことを思っているのか、準備室と繋がったドアに背をもたれ、鍵盤の上で踊っているシズの指先に畏怖に似た視線を送りつつ、軽くその形のいい眉を寄せていた。
 それがやっと終焉を迎えたのは、昼休み終了の予鈴が学校を駆け抜けていった時だ。シズはその音に気がつくと惜しむことなく演奏を止め、楽譜を閉じて立ち上がった。たたまれていた鍵盤用の保護布を広げ、
「……何だ、まだいたのか?」
 どうやら俺達がずっと聴いていたことに、今更気がついたらしいな。シズは軽く眉根を寄せつつ驚いた声を上げた。よほど練習に集中していたと見える。
「ずっと聴いてたぜ? つーかお前、気がついてなかったのかよ」
「……集中している時は周りなんて見えないんだ」
 ムツの笑いながら(その笑みにはどことなくほっとしたような表情がのぞいている。どうやら重苦しい曲を延々と聴かされる状況から解放されて安堵したらしい)の台詞に、シズは不機嫌そうに言いながらも若干申し訳なさそうな顔をした。
 それから鍵盤の蓋を下ろしながら、
「二人とも先に帰ってていいよ。僕はまだしばらく片付けもあって遅くなるからね。一緒にいると五時間目に遅れる」
「……うーい、了解。じゃ、先に戻ってるわ」
「ああ、そうしてくれ」
 はっきり冷たいシズの態度は熱いムツのポリシーにはやはり反するのか、珍しくあっさりとそう言ってムツは出入り口へと迷いなく歩いていった。俺もおとなしくそれに続こうとしたのたが、一歩を踏み出そうとしたところでふと思い留まる。
 このままあのモデルもどきを追って音楽室から退却するのは容易い。どれくらい簡単かといえば、ネット際にセッターが打ち上げたボールをエースアタッカーである俺がまるで無視して相手側の一点にするくらい簡単である。しかしこの時の俺はそれを良しとしなかった。すぐ横で連絡棒を外し、慎重に天板を降ろしているシズが気になったからだ。
 もしかしたら俺が得意の気のせいかも知れない。
 が、さっきこいつは、ムツに先に戻れと言った時に――少し、寂しそうな顔をしなかったか?
 もっと言えば、俺達が何だかんだで最後まで自分の練習を聴いていたのだということに気がついた時、不機嫌そうな表情の裏で、微かに嬉しそうにしてはいなかっただろうか。
「……おい、シズ」
「何だい」
「お前、音楽室にはよくくるのか」
 俺はピアノピースをファイルにしまっているシズに、半ば確認するつもりで声をかけた。そんな響きを従えた俺の台詞にシズは顔を上げ、わずかにその頑なな表情を緩めると、ピアノの方に視線を泳がせつつ答える。
「……昼休みは、大抵毎日来ている。朝は来ないこともあるけど、それなりに。放課後も、最近は」
「放課後? お前、部活は?」
「元々監督には、そういう事情を話した上で部にいさせてもらっているんだ」
 教室の窓を閉めながら、シズは言う。
「発表会の前、一ヶ月から二ヶ月くらいはほとんど練習に出られない。土日も、レッスンで休むことが多い。代わりに、レギュラーにはなれなくていい。そういう条件でね」
「……へぇ」
 だからシズは、レシーバーとしてそれなりの実力があるにも関わらず、Dチームなんてほとんどレギュラーには選ばれないチームの所属なのか。
 ……ん?
 なら何故、そんなろくに練習にも出られないような身であるのに、シズはバレー部に入部届を出しているんだ?
「で、それがどうかしたのか」
 不機嫌そうにそう問われ、我に返る。そうだった。とりあえず俺がこいつに言うべきは、そんな疑問じゃない。もちろんそれも気になるには気になるが、尋ねるのはまた別に機会があることだろう。
 俺がこう、こいつに言えばな。
「また、たまに来たりしてもいいか?」
 尋ねると、シズはほんのわずかにその目を見開いた。頬にわずか赤みが差して、それを悟られないようにかすぐに視線を俺から逸らす。窓を閉める際、椅子の上に置いていたファイルを取り上げて、シズはやっと聞き取れるかどうかという大きさの声でこう返してきた。
「……別に、来たい時に来たらいい」
 ああ、そうさせてもらおう。
 俺は小さくうなずいてから、「じゃあ」と言って、珍しく軽やかな気分で音楽室を後にした。いつの時代も、人に喜ばれることをした時は気分がいいもんさ。


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