* * *

 時間を気にしているらしい彼女がコスモワールドを出てほんの少し早足で向かったのは、みなとみらいの最寄JR駅・桜木町だった。形に特徴のある駅舎につくまでにムツと交わした会話はごくごくわずかなもので、しかもその間、彼女はしきりに手の中の携帯電話を気にしていた。
「今日は、本当にありがとう」
 横浜方面行きのホームに着いて、彼女はムツと俺にそう言って軽く頭を下げた。
「ごめんね、クリスマス・イブに……無理言っちゃって。それに、コスモワールドにも連れてってもらって、おごってもらっちゃって。本当、ごめんなさい」
「謝らないでくださいよ。あの……俺、楽しかったですから」
「ふふ。私もです」
 ムツが言うと、彼女は嬉しそうに薄く微笑んで肩をすくめた。続いて俺を見て「貴方も。来てくれてありがとうね」と言う。いや、俺はいただけで何もしなかったですけどね。
「……あの。もしよければ――」
「――あ」
 ムツが何かを言いかけた時、聞き慣れた案内メロディーがホームに響いた。彼女が声を上げて電光掲示板を見上げたのと同時に、アナウンスが大宮行きの根岸線の到着を告げる。
 ほどなく――銀色に水色のラインの車両が、ホームに滑り込んできた。
「それじゃあ……私は、これで」
 電車の音にかき消されないように少しだけ、これまで控えめだった声を張り上げて、彼女はそう、ムツに別れを告げる。
 電車が止まり、ドアが開く。
「あ……」
 彼女が嬉しそうに微笑んで振り返った先では、開いたドアのすぐ近くに、どこかの制服に身を包んだ男子生徒が一人、立っていた。俺やムツよりも三、四歳年上、つまり彼女より一、二歳年上に見える彼は、小さく声を上げた彼女に軽く右手を上げる。
 大して格好いい訳ではないけれど、大人びていて、何より優しそうな、その微笑。
 先輩、と彼のことを呼び、小走りで電車へと向かう彼女を見て、彼が彼女の恋人なのだと真っ先に気がついたのは――多分、俺ではなく、俺の隣で呆然と彼女を見ていた、ムツだったはずだ。
 彼女が、ムツにおごられることを良しとしなかった理由。
 彼女が、ムツと遊園地に行くことをなかなか了承しなかった理由。
 彼女が、俺がムツの同伴者と知ってほっとした表情を見せた理由。
 彼女が、俺も一緒にいることを強く望んだ理由。
「これが、お礼です」。
 ムツと二人で出かけることではなく。
 渡すように言われたお菓子の詰め合わせが、お礼。

 それじゃあ――
 発車直前だった電車に乗り込み、振り返って「また」のない別れの挨拶を告げ顔の横で手を振った彼女に、ムツも手を振り返す。
 電車の中と、外。
 彼女と彼、ムツと俺。
 混ざっていた空気が、一枚の扉を隔てて――
 完全に、遮断された。

 電車が、走り出す。

 ホームから去っていく電車を見送ってから、しばらくの間、ムツは何も言わずにただ漠然と、電車の走り去った方を眺めていた。俺も何も言えない。だから、黙ってムツのやたら寂しそうに見える背中を見ていた。
「……大丈夫か」
 少しして、そう言って肩を叩いてやると、ムツは振り返らないままで小さくああ、と答えた。それからまたしばらく線路の先を見つめる作業を続けた後、ため息混じりに答える。
「……大丈夫だ」
 が、そう言って形だけ笑ってみせるムツの、表情でなくその奥の瞳は、笑うどころか全然大丈夫ではなくて。
「なぁんて言うかさぁ。馬鹿だよなぁ」
 そんな自分の本音を見せないようにするかの如く、いつもの裏のない馬鹿丸出しの笑顔をなぞって、乾いた声でムツは笑ってみせる。
「人のこと助けて、一人で悩んで、勝手に盛り上がって、勝手に玉砕して。クリスマス・イブってだけで……勝手に勘違いして、勘違いってわかって、訳もわからず落ち込んで。こんな程度でさ。……クリスマス・イブなのに、人のこと巻き込みまでして。最初何も期待してなくて、最後まで何も期待してなかったはずなのに、こうやって。本当――本当、」
 雪が降っちまえばいいのになぁ。
 部活で最初に聞いたのと、コスモワールドでさっき聞いたのと。
 同じ台詞でも――多分、それに込められた思いは、正反対なまでに違う。
 クリスマス・イブの今日、自ら勇気を振り絞って助けた彼女と、会うことを望まなかったあの日のムツ。
 それと正反対という思いなら。
 別れ際、ムツが彼女に向かって言いかけた一言を思い出す。
 もし、よければ。
 もし――よければ?
 その先、ムツは何を言おうとしていたのだろうか。
 雪が降っちまえばいいのになぁ。
 豪雪で、電車止まらないかな、みたいな。
 最初は会わないために。最後は多分、帰したくない故に。
 込められた、あの日と正反対の思い。
 想い。

「本当、馬鹿だよなぁ」

「……帰ろうぜ、ムツ」
 最後に、負け惜しみか自嘲かのように笑いながら言って以後、何も言わなくなったムツの肩を叩いて、俺はそうとだけ言った。丁度、横浜方面への次の電車が来ることをアナウンスが告げている。
 いつもならそうして叩いてもしっかり受け止めてきやがる肩が。
 壊れそうなくらい頼りなく、揺れた。
「……ああ」
 電車が、ホームに滑り込んでくる。

 結局。
 恐らく、ムツは本気だったんだろう。乗り換えのため横浜駅で一度電車を降り、横浜線のホームから曇った灰色の空を見上げているムツの横顔を見て、俺はそう思った。彼女に対して自分が本気なのか思い悩むまでに、きっと真剣に、そのやたら軟派に見える外見からは考えつきもしないようなくらいに、本気で――ムツはきっと、本気だった。
 だって、例えば。
 彼女のことなんて何とも思っていないのに、自分について本気にさせたらどうしよう、なんて思い悩むだろうか。
 本当に何とも思っていないなら、多分、そんなことすら思い悩んだりしないはずだ。
 雪が降ればいい。
 それは、ムツ自身が知らず知らずの内に、本心をオブラートで包んだ言葉。
 表向きは彼女に会いたくないから。
 でも本心は、彼女に、会いたいから。
 雪といえば、クリスマスには欠かせない小道具――冬のロマンス。
 本当は、彼女とそんなロマンチックな世界を演出したくて。
 それが最後には、電車を止めて、帰したくないと思うまでに。

 ムツは本当は、本当に、彼女のことが好きだった。

 そこまで考えたところで、丁度電車が来た。俺はそれにも気がつかずぼうっとしているムツを引っ張って電車に乗り込むと、車内を少し歩いて何とか空席を二人分見つけ、ムツを座らせ、その隣に自分も腰掛けた。ルール違反の優先席だが、今回に限っては許して欲しいところだ。俺はともかくとして、相方が多分死にかけだと思うんでね。
「……失恋のショックはでかいか」
「ばーか。んな訳ねぇだろって」
 茶化すように軽く言ってやると、ムツはそう言い返してくる。
「別に、あのくらいの美人なんてそこら辺にいくらでも転がってるし。実際知ってるし。またいつか別にもっといいのが拾えるだろーしな。この程度でショック受けたりするかってんだ」
「負け惜しみ」
「それに、俺には可愛いミキと――ユキがいるからなぁ?」
 メグは背が高すぎるから論外。
 笑いながら言ってくるが、本当、そこまで言うとそれこそ負け惜しみにしか聞こえないぞ。
「だったら負け惜しみでもいいさ。あながち間違っちゃいねーし」
 言ってムツはそれでも強気な振りでしばらく笑うと、それからふと黙りこくって車内とも窓の外とも取れないところに視線を向ける。そうして見えない何かを見ているその褐色の双眸は――無表情。
 元気、ないんだ。
「肩、貸すか? ……よく眠れると思うんだけど」
 クリスマスと同じく年に一度の気まぐれに、俺はそんなことをムツに言ってやる。いつもなら落ち込んでいようが思い悩んでいようが放っておくが、今日は特別だ。俺がお前に肩を貸すなんて滅多にないぞ。
「ばーか、格好つけんな。様にもならないくせに」
 鼻で笑って、ムツは言う。格好つけて様になる失恋したばかりのイケメン面は、それからしばらく黙った後で、でも、と力なく微笑んだ。
「少しくらいなら――いいや」
 本当、元気ないんだな。
 悔しいことに胴が短く脚が長いモデル体型のこの同級生は、比べて俺より背が高いくせに座高は低い。よって、ムツが頭をわずかこちらに傾けただけで、その重みは俺の肩にたくされた。ムツは俺の腕を取って小脇に抱えると、そのまま目を閉じる。
 人を助けて、一人で悩んで、勝手に盛り上がって、勝手に玉砕して。
 挙句俺のことまで巻き込んで。
「……お前の言う通り。本当、馬鹿だよなぁ」
 そんな迷惑極まりない奴だが、まぁ、悪い奴じゃないのさ、こいつは。
 むしろ――人を助けて、呼び出されて、その気にさせられて、それでも文句を言わないお人好し。
「――あ」
 ふと振り返って窓の外を見ると、そこに広がる灰色の世界にやけに真っ白い一片が映った。雪だ。道を歩いている時ならそれを手に受けて「あ」とか言うシーンなんだろうが、生憎今は電車内。が、俺は降り出したロマンスのシンボルを見て、とりあえず声を零してみる。
 クリスマスってば、そういう日なんだろう? なぁ、ムツよ。

「……メリークリスマス」

 すっかり眠ってしまったムツに小さな声でそう言ってやると――
 その人の好いイケメン面が、幸せそうに、微笑んだ気がした。


[クリスマススノーロマンス 了]
[読了感謝]


参考URL:電車男

(敬称略)



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