* * *

 待ち合わせの場所が横浜駅なのに、彼女が迷いのない足取りで向かったのは桜木町方面だった。なるほど横浜の某有名お嬢様学校の中学三年生、この辺りは庭のようなものらしい。それは俺やムツにとっての東京みたいなものなんだろうと思うが、にしたって彼女は横浜に詳しいようだ、俺達だけなら確実に迷って一時間以上もかからないと辿り着けないだろう、みなとみらい入り口とも言えるランドマークタワーに三十分もせずに着いた。ただし代償のように常に早足だったが、それは今回おまけでしかない俺が文句を言えることではないだろう。少なくとも道中、俺の一歩先を彼女と楽しそうに話しながら歩くムツが満足そうだったのでいいんじゃないかと思う訳だ。超絶イケメンと超絶美人が目の前を仲睦まじげに歩いているという状況は何をどう頑張っても目の毒でしかなかったが……これで手でも繋がれた暁には、俺は殺人鬼になっていたかもわからない。
 そうして彼女に案内されたのは、ランドマークタワー内にあるとあるアメリカンな雰囲気が漂うカフェだった。働いているウェイトレスさんが全員共半メイドみたいな非常に萌える格好をしているそこでの彼女のお勧めは、某ファストフード店とは比べ物にならないくらいに本格的なハンバーガーで、彼女自身友人とよく来るそうだ。
「こんなのでよかったかな……?」
 わずか上目遣い、こちらを窺うような申し訳なさそうな言い方で放たれた彼女の台詞に、とんでもないですとムツはぶんぶんと首を横に振ったが、正直見ていられるものじゃなかったね。何だそのオーバーアクションは。
「これは、……この前のお礼。父も、よく礼を言うようにって」
 注文を終えて物が運ばれてくるのを待つ間に、彼女が言っておずおずと差し出してきたそのお礼は、何をどう考えても俺達一般人が気安く買えるようなものじゃないだろう、高級そうなお菓子の詰め合わせだった。箱の中身を一通り眺めたムツはばつの悪そうな顔をする。
「……いただいてしまっていいんですか?」
「もちろんです」
「でも……別に、そんな。こんないいもんいただけるまでのこと、してませんしっ……」
 言ってムツは箱に蓋をする。テーブルの上に置いて、そのまま彼女に返してしまいそうな勢いだ。おいおい、そこは素直に受け取っておくもんだ馬鹿。ここで返すのはかって失礼ってもんだぞ。というか、返しちまうくらいなら俺が欲しい。
「それに、お礼っていうなら今日、こうやって――」
「駄目、です」
 実際、テーブルの上を滑らせるようにして箱を押し返そうとしたムツを、彼女が少しだけ強い口調で言って指先で押し留め、制止した。何か切迫したような、強い意志に支配されているような目で、彼女はその指先ただ一点を見つめている。
「受け取ってください。これが……これが、お礼です」
 そんな彼女を、ムツはまじまじと見た。
「はぁ……えっと、じゃあせめてこの昼食代、おご――」
「いけません」
 そうしてムツが言い終わる前に、彼女はまたもムツを遮った。今度は、その褐色の双眸はムツを見ている。
 そしてその目は、何か彼女にとって絶対に譲れないものの、あるいは責任感の、罪悪感の色をしていた。
「ここは……ここは、私に、おごらせて」
「え、でも――」
「お願いします……」
 懇願するかのようにそう言われ、ムツもうなずかざるを得なかった。
 何かがおかしい。

 折角会ったのに何もしないのでは心苦しいから、そうじゃなければ豪華なお菓子をもらい昼食までおごってもらって何かお礼がしたいから、とムツが言い出したのは、どうしても上りたいからとムツがランドマークタワーの展望フロアに上り、そこで彼女とひとしきり横浜の町を眺めてからだった。それにしたってランドマークタワーは凄いな、横浜の町が一望できるとは。ただし、金を払うまでの価値があるかと言えばそこまででもないような気がするが。なぁ、ムツよ?
「遊園地とか好きですか?」
 というのが、ムツの言い分だった。彼女は最初の内、申し訳ないからとしきりに遠慮していたのだが、どうしても行きたいから、さっきの貴女と一緒でこれだけは譲れません、お金は二人分出しますんでどうぞ何卒、お願いですと、このままだと他の客の見ている前で土下座しかねない勢いのムツについに負け、おずおずとうなずいた。
「でも、そちらの方は……?」
「外で待ってますよ」
 申し訳なさそうに俺を示した彼女に、俺は肩をすくめることで答える。まさかムツに彼女と俺と二人分おごるだけの財力なんてないだろうし。俺も正直財布の中身が心もとない(というのは嘘で、実は単純に無駄遣いしたくない)ので自腹を切る訳にもいかないし。
「じ、じゃあっ。私、私が出します!」
 俺の方に若干身を乗り出して、彼女はそう言った。いやいや、ちょっと待ってくださいよ。
「申し訳ないですよ、そんな」
「申し訳ないのはこっちの方です! お金のことなら大丈夫だから!」
「いや、そういう問題じゃなくてですね……そんな、俺のことなんて放っておいてくれていいですから」
「だって……折角ついてきてくれたのに……」
「ついてきた、ですか。それをいうなら、今回俺はただのおまけですよ? 下手したらおまけ以下の存在です」
 俺の人生にとって今日のこのイベントはそのものずばりおまけな訳だが。
「そんな俺のことなんか気にしないで、二人だけで楽しんでき――」
「駄目っ、駄目です」
 ついには、彼女は俺の肩を押さえて留めようとする。慌ててその手を離してから、若干潤んだその瞳を向けてきた。
「二人だけなんて……あ、貴方を残してなんて駄目です。みんな一緒……じゃないと……」
 そうして一瞬だけ悲しそうな、つらそうな顔をすると、けれどその瞬間には彼女は花の咲いたような笑みで微笑んだ。
「三人の方が楽しいから。ね?」
 ……そこまで言われたら、おごってもらうかどうかは別として行かざるを得まい。
 結局俺は、払うから払うからと言う彼女を何とか言いくるめて自腹を切ることになってしまった。不覚。何という無駄遣い……そうして入ったコスモワールドで、彼女が本当にありがとう、と優しげな笑顔で言ってくれたのが唯一のなぐさめだ。ムツも「悪いな、ユキ」と言ってくれたが、お前は悪いと思っているなら俺の分もおごれ。
 そんな紆余曲折を経て久々に入った遊園地だったが、子供か家族連れかカップルのためのアトラクションにはほとんど興味がない俺は、狂ったようにあのアトラクションこのアトラクションと遊びまわるムツと彼女の後をついていくだけの時間を過ごすことになった。途中何度か彼女が「貴方も乗ればいいのに」と言ってくれたが、なに、仲睦まじい貴方達の邪魔をできるほど俺は無神経じゃないですよ。
「……そんな。そんなのじゃないですよ、私達は」
 茶化すような口調で言うと、彼女は寂しそうに微笑んでその目を伏せた。

 そんなのじゃないです、か……。

「悪いな、本当。こんなのに付き合わせて」
 最後、彼女がトイレに寄っている最中にムツがそう声をかけてきた。おうよ、お前等二人そろって楽しそうでムカついたぜ。それで悪いと思ってるなら、さっきも言ったけど俺の分もおごれってんだ。
「……つけといてくれ」
 言ってムツは疲れたように笑った。彼女との別れの時間が近づいているからかどうも気が抜けてしまったようだ、その台詞にはいつものようなはっちゃけはない。
「冗談だよ。二人そろって本当、楽しそうだったじゃないか。見てて微笑ましかったぜ。……本音を言うなら少し、」
「目障り?」
「いや、羨ましかった」
「……そっか」
 ムツは小さくうなづくと、いつの間に買ったのかホットの缶コーヒーを差し出してきた。おごってやるよ。言われたので俺はありがたくそれを受け取り、タブを開けて口をつける。
「……彼女、もう帰るんだって?」
 携帯電話を取り出して時刻を確認しながら聞いてみる。丁度、そろそろ四時になりそうな頃合だ。
「デートを切り上げるには、少し早いんじゃないか?」
 いくらお互い中学生とはいえ、遠くから私学に通っている身分だ、そこまで門限が早くもないだろう。それとも彼女は本当に筋金入りの超お嬢様で、どこぞの社長なお父さんが厳しかったりするのか? そう思って尋ねると、ムツは緩やかに首を左右に振った。
「かもな。でも彼女、これから用事があるんだって」
「ふぅん……にしたって、あと一つくらいは乗れそうだけどな。アトラクション」
 ふと視線を上げ、そういえばデジタルの時計がついていて携帯電話の示すのと同じ時刻を示している、ゆっくりと回転するそれを見て俺は言う。
「……観覧車、とかさ」
「……うん」
 すると、俺と同じように観覧車を見上げ、しばらくの間目に鮮やかな都会の輪を眺めてから、ムツは俺を振り返って笑った。
 それは、少しだけ、寂しそうな笑顔。
「でも、彼女、高所恐怖症なんだってさ」
「……嘘臭いな」
「ああ」
 あるいは。
 あるいはこの時ムツは、もう既に気がついていたのかも知れない。そしてそれ故の、あの疲れたような、寂れた笑顔だったのかも知れない――と、今は思う。
 けれど当時の俺は、それに似た思いこそ抱けど、その寂しい笑顔を黙って見ることしかできなかった。
「……いっそ、雪が降っちまえばいいのになぁ」
 回る観覧車とその上に広がる曇り空を仰いで、ムツは軽くため息をついた。


←Back Next→



home

inserted by FC2 system