昔話をしよう。
と、今から昔話をすることに意味があるのかと問われると、俺はどうにも返事に困る。その昔話は聞き手にとって聞いてよかったと思える話ではとてもないし、反面教師の一面すら持ち合わせているか怪しいからだ。ならば必然、意義は聞き手ではなく語り部である俺の方にあることになるが、実はそうでもないのが現実である。俺がこの昔話をするにあたって得るものといったら、自分と自分を取り巻く友人にまつわる暴露話をした後の、得も言われぬ羞恥心だけさ。
そんな感じで、人間のすることには大抵意味なんかないんじゃないかというのが俺の持論だ。意味と同じく、目的や結論があることも少ないように思う。俺の好きな小説家某氏の言葉に「『ふうん。それであなたは一体何でそれをしたいわけ?』とか、目的の目的を訊かれたりすると、人間はえてして沈黙しがちです。」というのがあったが、何だよ意味わかんねぇと深読みした後で単純になってもう一度読んでみた時、無条件に心に響くものがある。
手段や行動、言動には、必ず、意味や目的、ないし結論が纏いつく。
が、その意味や目的そして結論に、意味や目的加えて結論があるかといえば、実際そんなことはなかったりする訳だ。
……哲学っぽい話になっちゃったな。
申し訳ない。話をやたら難しい方へ持っていこうとするのは俺の悪い癖だ。今のは他愛ない戯言みたいなものである。狐につままれたと思って、忘れて欲しい。
だから、これから俺がする目的と結論と意味と理由の物語に、目的と結論と意味と理由はない。
価値などあろうはずもなく。
でも、咲く意味やその目的を考えずとも、咲き誇る花は無条件に綺麗だと思うだろう?
花屋に行って花でも眺める気分で、特に構えたりせず、この話を聞いて欲しいと思う。
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