* * *

 それから程なくテストがやってきて、俺達は「Flower Storm」通いをしばし中断した。菜津子さんにもテスト前だというのは言ってあったし、それなのに毎日通っていたのには菜津子さんからそれでいいのと言われたりもしたが、何、俺達はいざとなったら一夜漬けの民だ。テスト週間なんて菜津子さんのところに寄らずとも、形だけ勉強しておいて結局うだうだしてしまう。だったら菜津子さんと花でも見ている方が、この時の俺達にとっては有意義に感じられたのだ。
 だからこそ、テスト中は一夜漬けのためにさっさと帰る必要性が生じてしまう訳だが……
「あーあ、俺、きっとまた数学赤点だよ。今回赤なら三回連続だし……もう俺、いい加減成績やばいって」
 そんなテスト週間が終わって翌日・土曜日に、俺達は高等部三年生の卒業式を控えていた。地獄のようなテスト週間を切り抜けた放課後、式場準備のために俺達は体育館に赴く。
「あれ。何やってるんだろ?」
 その途中、渡り廊下の外でバレー部の先輩達が何やら集まっているのが見えた。声を上げたメグに続いて俺とムツ、ミキも立ち止まると、先輩達の内の一人が俺達を振り返る。
「あ、誰かと思ったら。睦くん達か」
 声をかけてきたのは、中等部二年・部で学年代表を務めている秋月美祥先輩だった。俺達はどうも、とそろって頭を下げた後で、美祥先輩の方へと渡り廊下を抜ける。
「何やってんすか、美祥先輩?」
「これ? 明日卒業する先輩達に贈る花束の数を確認してるんだよ。少なかったら大変だからさ」
 美祥先輩に示された先を見る。ダンボールがいくつか並べられていて、そこに黄色を基調とした花束がごっそりと入っていた。
「今日届けてもらったんですか、花束?」
 卒業式がある朝は、毎年たくさんの花を貴方達の学校に届けるって母が言っていたわ、と菜津子さんが言っていたのを思い出してかミキが尋ねると、ああ、と美祥先輩はうなずいた。
「本当は明日届けてもらった方がいいんだけどね……しおれちゃうかもしれないし。でも、明日だと他の部と混ざるかもしれないから。あと、今年は去年と花屋を変えててね、」
「え……違うんですか?」
「うん。ほら、一番近い花屋、店員さんが変わったでしょ? 監督がそれじゃあ折角の卒業式なのに何か不安だって、変えることにしたんだよ。そうしたら、その変えた店がちょっと遠くてさ? 明日の朝の配達にすると間に合わなくなるかもしれないから」
「監督が変えようって言ったんですか……?」
 メグが聞くと、色々尋ねてくる俺達を不審に思ってか眉を軽く寄せながら、それでも美祥先輩は答えてくれる。
「そう。俺達は別にいいだろうって言ったんだけど……監督って、妙にこだわるところがあるじゃん? それに、亡くなったっていう花屋のそのおばちゃんと監督、仲も良かったらしいし。入れ代わりの新しい人じゃ駄目なんだって」
「……去年までのって、『Flower Storm』っすよね?」
「うーん、名前までは俺もよく覚えてないんだけど。確かね」
 ムツへの美祥先輩の答えに、俺達はそろって顔を見合わせる。続けてメグがこんなことを尋ねた。
「その花屋さんに入った新しい店員さん……前のおばさんの娘さんだって、監督は知ってるんでしょうか?」
「え、そうなの?」
 と、美祥先輩がまず驚いた顔をした。
「新しい人って、すっごく綺麗なあの人でしょ。そっか、あのおばちゃん、娘さんいたんだ……ていうか全然似てないね。いや、監督は知らないんじゃないかな。俺も知らなかったし。へぇ……」
 美祥先輩の答えに、俺達はまたも顔を見合わせた。

 * * *

 卒業式が終わって以来、俺達が訪ねると「Flower Storm」は毎日のように閉まったままになっていた。
 当然菜津子さんの姿も見えない。毎週火曜日は定休だが、その火曜日だけでなくいつ行ってもシャッターは堅く閉ざされている。休みを告げる張り紙はどこにもなかったし、もしかしたら別の時間なら開いているんじゃないかと部活を抜け出して見に行っても、前のように色とりどりの花を見ることはできなかった。
「風邪でも引いたんかな、菜津子さん?」
「それにしたってもう一週間だよ? もちろん、来てない日もある訳だけどさ……それにしたって一週間は長くないかな」
「じゃあ何だってんだよ!」
 一週間経って休日が明けたすぐの月曜日、閉まったままの店の前でムツがメグに突っかかる。部活をサボってきた俺達は、今日もまたシャッターの前で立ち尽くすだけだった。
「ムツ〜、メグに当たったってしょうがないってばさ」
 ムツとメグの間に入りミキが言う。そんなミキも不満げだ。
「菜津子さんにもきっと何か事情があるんだよっ。いつかまた開くってっ」
「……いつかっていつだよ」
 ムツはぼそりと呟くと、「Flower Storm」の看板がかかった店先を仰いでため息をついた。
「ちぇっ、折角合唱祭での俺達の活躍を聞いてもらおうと思ったのになー……ま、開いてないんじゃしょうがないもんな」
 そうそう、人生諦めも肝心だ。
 そう俺もムツをなだめたけれど――きっとその場にいた四人が考えていたことは同じだったんじゃないかと思う。

 菜津子さん……。

 翌日、三月二十一日の火曜日は祝日で学校は休みだった。ただし、代わりにバレー部の練習があるので、俺達はいつものように学校に行くことになる。その部活中に、美祥先輩からとある用事を頼まれて出かけることになった俺は、ムツ達に先に行くと言って学校を出、ある場所を目指した。
 行くべき場所なんて、今は一つしかない――「Flower Storm」だ。
「……」
 店の前に出向くと、午後を少し回って薄く橙色に近づいた日差しの下、今まで閉まったままだったシャッターがほんのわずか開いている。店内は電気もつかないで、薄暗さが支配していた。
「……             」
 俺は呟いて、シャッターの下部に手をかける。力を込めるとシャッターはさほど苦労しない内に開いた。中に入るか、少しだけ迷う。躊躇は一瞬。俺はすぐに、少し開けたシャッターをくぐって店内に足を踏み入れた。
「……何やってるんですか――」
 椅子に座って、カウンターに突っ伏している女性が一人。カウンター――菜津子さんが花束やアレンジメントフラワーを作っていた――の上には、彼女以外の何も乗ってはいない。俺は明るさのすっかり失せた店内を見回してから、彼女に声をかけた。
「――菜津子さん」
 そこでやっと、カウンターに伏していた菜津子さんは顔を上げた。少し痩せたように見える。健康的にではなくて、思いっきり病的だった。大きな目は泣きはらした後なのか、すっかり赤くなっている。
「……ユキちゃん、」
 菜津子さんは俺を見ると、小さな声でいつものようにそう呼んだ。だけどその声は、前とは違って今にも消えそうだ。俺は肩をすくめてみせる。
「今日だったら、いるんじゃないかと思いましたよ。元は定休日ですし、店を少し開けていても誰も入ってきたりはしないでしょうからね……でも、」
 口調が少し厳しくなってしまうのは、今日に限っては容赦して欲しいところだ。
「それが、俺達にまで通用するとでも思ってたんですか?」
「……」
「……。今のは失言です。忘れてください」
 俺は言って目を閉じた。そうだ、今日は菜津子さんを責めるためにここに来た訳じゃない。俺がここに来た理由は――
「菜津子さん。どうしてずっと、店、閉めたままだったんですか」
「……ごめんなさい」
「謝って欲しいんじゃありません。理由を聞いているんです」
 もちろん、そんなのは大体わかっているんだが。
 でも、尋ねずにはいられなくて。
「……ごめんなさい。私は駄目ね、こんな……こんなことで、凹んで」
 椅子に座ったまま、菜津子さんはその目を伏せる。
「馬鹿みたい……ずっとここで店をやってきた母と代わって、すぐに皆さんに馴染んでもらえる訳ないのに。そんなのは、当たり前のことなのに」
「……」
「今までずっと、都心で働いていたから。毎日お客さんが来ることに、慣れてしまっていたのね。だから……こんな住宅地が多い場所で、そんなに花の需要があること自体、ありえないんだわ。それで……更には母の代わりなんて。私に務まることじゃなかったのよ」
「……」
「だけど、やっぱりそれは寂しくて……私はこんなところで何をしているんだろうって、気がついたら考えちゃって。私がここにいるのは何のため? 私は誰のために、ここで花を売っているんだろう――って」
「……ふうん」
 俺はゆっくりと、菜津子さんに言われたことを頭の中で咀嚼する。言葉を選んで、口を開いた。
「言いたいことはそれだけですか?」
「……」
「菜津子さん。前、貴方は……俺の『花は何で綺麗なのか』っていう質問に、『子孫を残すためのエネルギーが溢れているから』って、言ってましたよね。俺は、違うと思います」
 沈黙している菜津子さんに、俺は言う。

「そんなことに、理由はないって。そう思います」

「……」
「確かに、子孫を残すために一生懸命になって咲くからって……理屈はわかります。でも、花がそれを自覚して咲いていると思いますか? 未来のためにとかいちいち考えてると思います? 何かのためとか目的とか結果とか、そんなことは何もなしに、奴等、堂々と咲いてますよ」
「……」
「花が綺麗なのは、誰かのためでも何かのためでもない。強いて言うなら、彼等の存在のためですよ。……というか、それにいちいち理由がある方がたまったもんじゃない。そんなことに、意味や目的や理由はないんです。どうして花が綺麗かなんて――考えなくたって、花は綺麗だ」
 菜津子さんは、驚いたように目を見開いていた。あまり強い主張をしたことがない俺だ、あるいは当然か。
「俺は、菜津子さんは花みたいな人だって、最初に思いました。今でもそうです」
 俺は言う。
「菜津子さんがここで毎日笑顔で一生懸命に働いていて。そこに、誰のためとか何のためとか、目的はいらない。意味も理由も、価値すらも、必要ない。そんなことは――どうして花が綺麗なのか考えるのと同じように、考えるだけ、無駄ですよ」
「……ユキちゃん……」
「周りの評価とか、関係ないですよ。菜津子さんは自分が信じる通りに、今までと同じに、ここで花を売り続けたらいいじゃないですか」
 それに。
「それに、何のためとか、目的や理由や結果や意味が必要だって言うなら……それこそ何のために、俺達がいるんです?」
 その時、俺の背後で、そして菜津子さんの前で、半開きだったシャッターが音を立てて開く。店内に久方ぶりだろう光が、深く差し込んだ。その光を背に立っているのは、俺にとっても菜津子さんにとっても、もうすっかり見慣れた三人の姿。
「ちわっす、菜津子さん! 相変わらず綺麗っすねー」
「ムツ、口説いてどうするのさ」
「そんなことしに来たんじゃないだろっ! ほらっ」
 ムツとメグとそれからミキ。
 遅ぇよ、と俺は大げさにため息をついてみせる。
「……俺達の部活で、今中等部三年の先輩達の、高等部への進学記念パーティーがあるんです」
 俺は菜津子さんを振り返った。
「……ユキちゃん……」
 菜津子さんの目から、最後の一滴がきらりと光って落ちる。
「そのための花束、まだ注文してなくて。……頼んでいいですか? 来週なんですけど」
 俺達は――
 久しぶりに、菜津子さんの花のような笑顔を、見た。

 * * *

「花が綺麗な理由、かぁ」
 菜津子さんに先輩達から頼まれた花束の注文をしてその帰り道、少し遠回りな帰り道として川沿いを歩きながら、ムツが橙色になった空を仰いで言った。
「さっすが、ユキ嬢! 菜津子さん大復活じゃん。花束も注文できたし、これで一件落着だな」
 そうなるのだろうか。俺はムツの隣を歩きながら、肩をすくめる。
「別に。前に菜津子さんが言ってたことをそのまま伝えただけだし。きっと俺が言ったあんなことは、本当は菜津子さんはわかってたさ」
 そう、子孫のためとか、それは大義名分。
 花を咲かせるために、エネルギーを注ぎ込んで。
 そのエネルギーに理由や目的を添えているのは俺達人間だ。
 意味なんかない。必要ない。
 ――きっと菜津子さんは、本当はわかっていた。
「だから、俺はそれを助けるだけで良かったんだ。答えは既に、菜津子さん自身がちゃんと持ってた」
「……へいへい、ユキはいつまでもそうやってシニカルぶってればいいよーって。人が折角褒めてやってんのにさ」
 それこそ、褒めてくれって言ったかよ。
 小突いてきたムツを睨む。目が合って、自然と顔は笑った。
 そこに大した理由はなく。
「ねぇっ、もう桜の蕾、膨らんでるよっ」
 俺とムツの後ろでずっと空を見上げていたミキが、言って川沿いの桜の木を指差した。なるほど、確かに枝先を見れば先がほんの少し膨らんでいるような気がする。
「桜ってね。花が咲く前の季節だけ、幹の中の樹液まで全部桃色になるんだって」
 ミキの隣を歩いていたメグが、特に自慢げそうにでもなく知識披露をする。
「だからその木片を煮詰めると、桃色の染色液が取れるんだってさ。……桜は花だけじゃなくて木から全部、桃色になろうとするんだね。凄いエネルギーだって思わない? 綺麗に咲くだけあるよね」
 でも――そんなのは、後付けの解釈。

 人間や花に限らず、世の中の全てのことには意味や理由、目的や結論・結果なんかほとんどないんじゃないかと、桜の枝先を見上げて思い至る。それは確かに、寂しいことかもしれないし、自分自身の存在を疑うことかもしれない。誰だって「お前の存在に意味はない」なんて言われたら、菜津子さん同じく凹むだろう。
 でも、それは考え方を変えれば、素敵なことなんじゃないかと思う訳だ。
 意味や理由、目的や結論や結果がなくとも――
 そんなものを持てずとも。

 自分はこの世に存在していいのだと、肯定できる訳だから。

「桜が咲いたらさ、菜津子さんも呼んでみんなで花見、しよーぜ♪」
「ムツ、気が早いってばさ。咲くのはどう考えてもまだ十日くらい先だよっ」
「そういえば、気象庁の開花予想ってもう出てたっけ?」
「つうか、その前に俺達部活だろって」

 もうすぐ、桜の。
 花嵐の、季節。


[フラワーストーム 了]
[読了感謝]


初出:O高校文芸部特別誌



←Back



home

inserted by FC2 system