* * *

 ……信じられない。
 受け取った無駄に立派な賞状を手に、俺はぼんやりとそう考えた。放課後の教室にはホームルーム後で誰も残っておらず、冬特有の薄い橙色が机や椅子の影を作っている。今日は部活は休み、よって俺は、教室中ほどにある自分の机の上に座って賞状をぼうっと眺める作業を、もう十五分近くも続けていた。
「優勝」と印字された賞状には、確かに筆文字で俺の名前が書かれている。
 本当に信じられない。大会のプリントが配られた時にはくだらない、と冷めた感情しか抱いていなかった俺が、何故こうして優勝してしまったのか未だにわからなかった。もちろん今日の日に向けて色々と努力をしてきたのは事実だ。メグ、妹、従兄弟の兄ちゃん、そして望さん。色んな人に協力もしてもらってきた。だからって、自分が優勝するなんて俺は現実どころか夢にも思い描いてなかったんである。
 というか、意外……だった。
 俺はこの一ヶ月、一体何をしてきた?
 自分があそこまで努力して熱中して、優勝を目指すなんて。
 優勝したということもそうだが、俺にとってはそっちの方がよっぽど信じ難かった。
 そんなのは――いつもの俺じゃない。
「よっ、お疲れ様チャンピオン。いい感じにたそがれちゃってますねぇ」
 その時、後ろからそう声をかけられた。振り返ると、そこでは忌々しいハンサム顔の準優勝者が教室のドアにもたれかかって、容姿が整っている故にやけに様になるポーズを取っている。肩にはエナメルの鞄がかかっていて、俺の記憶通りこいつが一度は教室を出て行ったことを示していた。
「……ムツ」
「優勝おめでとうっ! てな訳で、お前のためにわざわざ敗北してやったこの俺様に感謝の気持ちをこめて頭を下げやがれよユキ嬢ちゃん」
「死ね」
 完全に気が抜けてしまった状態でも、意味もなくムカつくこの男に対する突っ込みだけは忘れない。普段をなぞって暴言を吐くと、ムツは「相変わらず口悪いよな、お前は」と笑って教室に入ってきた。俺の隣にある自分の席に鞄を下ろし、窓向きに机に腰掛ける俺と向かい合うようにして机に座る。
「……何か用かよ」
「だから、お前に感謝の気持ちをこめて俺様に頭を下げさせるためだって。……嘘嘘、そんなやばい顔すんなよ、怖いなぁ? モザイクかけられちゃうぜ? 元の顔がどんなだかわかんなくなるくらいきっついヤツ」
 ムツはいつものように軽口を叩いてくる。整った顔を馬鹿に歪めて笑うのもいつも通りだ。そこには俺に敗北したという悔しさの類は一切なくて、不快に感じた俺はムツとは違ったように顔を歪めた。
「で、どうよ。優勝して学年一位になった気分はさ」
「……何が言いたい」
「いや? 素直に負けを認めようと思ってな」
 だから今の気分を聞かせやがれ。と、ムツは偉そうな口調で俺に命令する。勝負や賭けに負けることを極端に嫌うムツには珍しい態度で、俺は不審に思いつつしぶしぶといった感じで答えた。
「……正直、信じられない」
 嘘を吐く余裕がないので、今まで考えていたことを素直に述べる。
「まさか……無気力が唯一の取り柄みたいな俺が、優勝できる、いや、しようとするなんて思ってなかった。あれだけくだらないとか言ってたくらいだしな」
「ふーん」
「自分が自分じゃないみたいだ。こんな、賞状とか取れるキャラじゃないんだよ、俺は。なのに……」
「……ふぅん、そっか。よかったな、ユキ。おめでとう」
 負けず嫌いが具現化して歩いているような性格のムツが大層清々しそうな口調でそう祝福してくるから、俺は何事かとムツを見た。ムツの顔には、これまた日頃からは想像もできないような優しげな微笑が浮かべられている。夕日に染まる教室に浮かび上がるその表情は、思わずはっと息を呑むほど綺麗だ。
「賭けは俺の負けだ。全く、見事な判断だったな、最後のあれは」
 更にムツは、くそ生意気な日頃とはかけ離れた台詞を吐いてくる。
「お前を見くびってたよ。いや、侮ってたのかな? 俺こそ、まさかお前がこんなマジになって頑張って、優勝までするとは思ってなかった」
「……」
「本当、おめでとうな」
 ここまではよかった。
 が、ここで突然、ムツはそれまで浮かべていた優しい微笑を奇妙に歪める。いつもの、俺がよく知るにたぁっ――という嫌な笑みに表情をスイッチして、爆弾投下一分前的な危機感を俺に抱かせた。
 ……その危機感を感じた時点で、俺は監獄から逃走する捕虜兵の如くに逃げておくべきだったのだ。けれどこの時の俺は何かがおかしかった。本来聞くべきでないムツの次の台詞まで、そのにやにや笑いを見つめたままで耳にしてしまう。
「で、負けちゃった俺は――是非とも素敵なチャンプを称えないと、なぁ?」
 ムツは机を降り、ゆっくりと俺の方へ歩み寄ってくる。これは。このパターンはやばすぎる。俺がよく知っているやばさだ。口を悲鳴を上げる形に歪めると、俺は机の上を軽く後ずさりした。そしてこの教室の前を誰でもいいから通りかかって、この状況を見て「何をしているんだ!」とヒーロー的台詞を吐きつつ飛び込んできてくれることを願った。この時ほど、先生早く教室に来てくれと思ったことはない。
 ぺろりと、ムツが自分の唇を舐める。予感は的中。こいつ……やる気だ。俺は自分の顔がさっと青ざめるのを感じた。
 何が賭けに負けただ。
 ……負ける気さらさらねぇじゃねぇかっ!
「ユキ……俺からの精一杯の祝福だぜ。喜んで受け取ってくれ」
 ムツの手のひらが頬に触れて、いい加減やばいと思った。脳内で赤色の警報灯がくるくると回り、サイレンがけたたましく鳴り響く。なのに、俺の身体はまるで金縛りにでもあったかのように動かない。
 にやり、と薄くムツが微笑む。その笑みはびっくりするほど綺麗で、思わずぞくりとしたものが背中を伝った。顔が整っていると何もかも得だ。けれどその綺麗さは、今の俺にとっては全くもって危機感を煽るものでしかなかった。  ムツの顔がゆっくりと近づいてくる。
 それから、ムツは何の前置きも溜めもためらいもなく、俺の唇に自分の唇を重ねた。



「負ける気ねぇじゃん!」



「……!」
 こんな段階にまで及んでやっと、俺の身体は原因不明の金縛りから解放された。何とかしてムツから離れようと身じろぎするが、ムツの手はがっちりと俺の頬を捕らえていて、とてもじゃないけれど逃げられない。とにかく俺の頭を固定するその力が、優しい手つきとは裏腹にかなり強いのだ。突如として触れた生温かい唇の感触とぬめった唾液の感覚に、一瞬意識が銀河系を離れるレベルで飛びかけた。
 更にムツは、何の迷いもなく舌で俺の唇を割ろうとしてきた。何をしやがる! と考えるまでもなく、俺はこのイケメン面が口付けをまさかのディープキスに仕立て上げようとしていることに気がつく。慌てて唇をぎゅっと閉じて防御しようとしたが、既に時遅し、だった。ぬめった舌は何か別の生物のようにうねって、俺の第一関門を難なく突破してしまう。
 それでも俺は更なる抵抗を試みる。が、そこに大した意味はなかった。ムツの舌の強さははっきり言って反則的なまでに規格外で、歯を食いしばって防ごうとしてもあっさりと突破してきた。うねるばかりで本当に意味がない。口腔のかなり深くまで侵入を許してしまった俺は、最後の砦とばかりに舌で押し返そうとしたのだが、完全に失策で、それはかえってこちらから舌を絡める結果にしかならなかった。最悪だ……
「っんっ……ふっ……」
 それを利用してムツは俺の舌を見事なまでに絡めとると、ぐるりと大きく唾液を回してもっと深くまで入り込んでくる。突如として訪れた息苦しさに鼻から息が零れたが、そのあまりにもな声色に自分自身に嫌気が差した。どんな声を出してやがる、俺。そんな俺が楽しいのか、ふっとムツが笑った気がした。
 現実と認めたくなくて、目を閉じる。そのせいで、口腔内の感触をよりリアルに感じた。加えて、舌の動きに合わせて回る唾液の音がさっきよりもはっきりと耳に届いている気がする。視覚を放棄したことによって聴覚と触覚が冴えてしまっているんだろう、多分。嫌らしく響く水音に、今度は一瞬どころの話ではなく意識が遠のいた。
 ここまでくると、もはや俺には抵抗する力はノミの爪先ほども残っちゃいなかった。全く反抗しない俺に気をよくしたらしいムツは、ここぞとばかりに俺の口腔内のあらゆるところを舌先で刺激してくる。歯列に沿って舌を這わせたり、舌の根元の深いところに触れたり、舌全体を舐めまわしたり、エトセトラ。何しやがるこの野郎と怒りで沸騰する頭とは反対に、身体は完璧に骨抜きになってしまった。
 ……つまりそこは全部、俺が弱いところだったということだ。残念なことに俺は人間である。気持ちのいいところを舐められれば、抵抗する力は霧のように四散してしまった。
「っふ……んぅっ……」
 それからたっぷり二分くらい、俺はがっつりとムツに喰われた。喰いつくされたと言ってもいい。そのくらい、全く容赦のないキスだった。上手いか下手かと聞かれれば正直かなり上手いんだけれど(ムツ以外の相手とろくにキスしたことがない俺が言えることか?)、それがかえってムカつく。くそ、格好いい男はキスも上手いのか。……怒りと絶望に燃え上がる頭の、残った冷静な片隅で、俺はそんなことを思った。
「っぷはっ」
 その二分くらいが俺には五分近くに感じられていた。いい加減酸欠で頭がぼーっとしてきた頃、わざとらしく息を吐いてやっとムツは俺の唇を解放する。満足げな表情の中央で綺麗に歪むムツの唇は唾液にまみれてきらきらと光っていて、俺に今までの行為を嫌というほど思い知らせた。遅ればせながら俺は廊下の方を振り返って、誰も見ていなかったことを確認する。これを見られていたなら、今俺マジで死ねる。
「ごちそうさま」
 けけけ、と悪そうに笑ってそう言うと、ムツは駄目押しに俺の頭を撫でてきた。それから更にもう一押し、
「すっげぇ可愛かったぜ、ユキちゃん?」
 うっそりと甘ったるい笑みを浮かべつつ、こちらが吐き気を催すような台詞を縷々と吐いてから、ムツはそのまま鞄を抱えて、やけに清々しそうな歩みでやはり颯爽と教室を去っていったのだった。

 ……やられた。
 最悪だ。
 一番おいしいところだけ持っていきやがった。

 俺は自分が幽体離脱に似た状況に陥っていることを感じながら、ムツが嵐の如くやってきて去っていった方をしばらくの間、ずっと眺めていた。

 * * *

 ずっと想い続けていた相手(センパイ☆)に甘ったるいキスをされて呆然としてしまった映画ヒロインのようなものを演じ続ける訳にはいかなかったので、俺は三分くらい経ったところで賞状を鞄に突っ込むと学校を後にした。
 冷え切った冬の空気の中でマフラーに首を沈めつつ、駅までの二十分の道のりを歩く。が、途中で気が変わった俺は大通りを反れて、駅とは別方向に行った先を流れている川沿いへと脚を進めた。今度こそ一人で冷静になりたいと思ったのだ。……さっきのキスのせいではないと全力で信じたいが、とにかく頭がぼうっとしていて、このまま電車に乗ろうものなら日本海に面した知らない土地へ行ってしまいそうだった。
 静かに流れる冬の川に沿った道では、春になれば桃色の花を鬱陶しいくらいにつける桜の木が、けれど葉を落として寒々とした風景の一部になっている。俺はなだらかに斜面を描く川岸に座って流れをしばし眺めると、それからブレザーのポケットにずっと入りっぱなしになっていた紙切れを取り出した。
 それは、ムツから渡されたあのルーズリーフ。
 俺は少し眺めた後で、たたまれたそれをそっと開いた。書いてあるのは、多分何でもないはずの和歌一首。

 ――君がため惜しからざりし命さへ長くもがなと思ひけるかな――

「……あの馬鹿」
 ムツが何のつもりで、この歌を決勝戦よりもはるか前のあの時に渡してきたのかは知らない。それと同時にどうして更に挑発するかのような態度を取ったのかもわからない。
 けれど――それが、それでなくとも熱くなってしまっていた俺を、もっと決定的に激情させたのは確かだ。
「……」
 全て。
 全て奴の策略だったんじゃないか、と俺は考える。一緒になって盛り上がるということをほとんどしない俺。共感・一体感という言葉から最も遠い俺。そんな俺を、心底熱くさせようという――今回の全ては、奴の策略だったんじゃないだろうか?
 一敗でもしたら、俺とキスだから。
 そんな台詞でもって俺を挑発し。
 保険的再度の挑発も忘れない。
「君がため」。
 決して熱くなることのない俺のため。
 ムツの今回の行動言動の全ては、そうだったんじゃないだろうか。
「……それにしたってできすぎだ」
 もう一度、ルーズリーフに記された歌に視線を落として、呟く。
 多分ムツは、この歌を本当に何の気なしに選んだのだろう。「君がため」、ただその部分にのみ意味を込めて選んだに違いない。いや、意味を込めたかすらわからない。とりあえず、まさかこれが決勝戦、更には運命戦で読まれるなど――ムツは微塵も思っていなかったはずだ。そうであって欲しいと俺は思う。
 だって。
 もしも、そこまでがムツの策略だったのだとしたら――
 それも含めて全てがムツの手中だったのだとしたら。
 そんなのは、まるで――

 まるで、最強じゃないか。

「あー……気分悪ぃ」
 色々な意味で、俺がムツに逆らうのは不可能そうだ。今回の一件で俺はそれを改めて思い知った。改めてというか、これまでの俺の認識はとろとろに甘かったとしか言いようがない。誰が何と言おうと、ムツに逆らうなど俺のような凡人には最初から無理だったんである。
 さっきまでムツに食まれていた唇にそっと触れてみる。唇が冷気でなく温かい指に触れれば、すぐにあの感触がよみがえってきた。
 最強なら最強でも構わないさ。不可能を可能にする男・野瀬睦。それに逆らうのが無理というなら、逆らわなければならないような状況に陥らないようにするだけである。可能を不能にする男・俺、あいつが俺の障害だというのなら、俺もあいつの障害になってやろうじゃないか。
 蛆虫芋虫お邪魔虫。
 上等だ。これからはお前が俺にしてきたように、俺がお前を騙して、嵌めて、陥れてやる。ああ、冷静、冷めている、淡白、理屈人間、傍観者、そんな俺を熱くさせる唯一の人間はお前だと認めてやろう。ならば俺も、馬鹿、間抜け、ポジティブハイテンション、感情人間、トラブルメーカー、そんなお前を冷めさせる唯一の人間になるだけだ。

 どうやらこの縁――ダイヤモンドカッターでも持ってこないと切れそうにないようだから。

 ……顔立ちだけは整った悪魔とこれからも戦い続ける決意を新年早々新たにし、俺は流れゆく川の先へと視線を上げる。意味深な一首の書かれたルーズリーフをもう一度だけ握り締めると、迷いなくそれを真っ二つに引き裂いた。それをまた二つに。更にもう二つに。
 それから俺はもらったばかりの賞状を鞄から取り出すと、それもばり、と二つにする。健闘を称える上質な紙は、百人一首の札を払う一瞬にも満たないような内にただの紙くずへと姿を変えた。俺はルーズリーフと賞状を重ねて、親の敵のように何度も破く。
 瞬く間に、それらの紙は俺の手の中に桜の花びら大の紙吹雪の山を形成した。
「……ほら、どっかいけよ」
 風上へ向けて手を差し出す。日も沈みかける時間帯、冷たい風は俺の手中の紙吹雪をはらりはらりとさらっていき、元は果たし状と賞状だった不法に投棄された紙は、あっという間に俺の視界から消えていった。

 新春、迎春、初春と、年賀状には遠い春を思う言葉が並ぶ。俺が舞わせた季節はずれの桜の花びらは、俺の未熟故の過ちと新年の決意を乗せて、冬の夕空を、どこまでも、どこまでも、飛んでいく。

 俺はそれを川沿いから、温もりの残った唇に触れながら、いつまでも、いつまでも、眺めていた。


[キミガタメ 了]
[読了感謝]

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