* * *

「……何で、」
 目の前で俺同様に正座して涼しい顔をしているムツに、俺は意味もなく問う。
「何で、ムツが……」
「おい? おいおい、お前がそういうことを言うのかよ? 笑っちゃうなー」
 そんな俺の目の前で、ムツは顔を愉快そうに歪めた。
「ユキは優勝して、俺との賭けに勝ちたい訳だろ? なら、それを妨害しようと思うのは当然のことだよな? 蛆虫芋虫お邪魔虫……なんちゃって。俺がまさか、お前が優勝するのを黙って見てるとでも思った?」
「てめぇ……」
「俺としては、何としてでもユキに優勝を逃がしていただかなきゃいけない訳っすよ。でも、マジになったユキの対抗馬なんてこの学年にはそういないだろうし? だったらこの俺が、最後の砦になってやろうと思ってな」
「……」
「ユキが優勝を逃がして俺にいやらしぃくキスされちゃうとか、お兄さんちょっと萌えてきちゃうな〜」
 ……。
 失念していた。今回の敵は他でもない野瀬睦、ウザいくらいのお馬鹿・ポジティブハイテンションなトラブルメーカー。ムツが大会に向けて練習していると望さんから聞いたあの時点から、俺はこの状況を想定して然るべきだったのだ。
 己の唇を守るために優勝を目指す俺と、俺の敗北に賭けるムツの、決勝戦における白熱の一大勝負――なんて、こんなに面白そうなことを、ムツが企まない訳がない。
「つー訳で、改めましてお手柔らかによろしく、ユキちゃん?」
 ムツがにやりと笑ったのを俺が嫌な顔をして無視したところで、進行係の先生が試合開始を告げた。俺達は畳の上で「よろしくお願いします」と互いに頭を下げ合う。
 ……もう、ここまで来たら腹をくくろう。
 中央に置かれた札を混ぜ合わせ、適当なところで止めて二十五枚ずつ札を取った。それを、畳の目に合わせて上・中・下の三段にわけて、俺もムツもほぼ迷いなく並べていく。百人一首の競技者は大抵「この札はここに置く」という定位置を持っているのだが、恐らくムツもそうなのだろう。並べ終わった二十五枚の横幅を合わせながら、俺は同じように札を揃えるムツを見て顔をしかめた。
 こいつ、何だかんだ言いつつも相当やりこんでいやがる。
 つい舌打ちが口をついた。
 俺達二人が札を並べ終わったのを確認して、進行係の先生が暗記時間の開始を告げた。ここから、試合前の自分自身との戦いが始まる。この十五分間で、ムツ側の敵陣と俺側の自陣、合わせて五十枚の札の位置を一つ一つ暗記していくのだ。俺は札に書かれた下の句を見ながら必至に初句を思い出し、場所を覚えていった。
「……     、……」
 ふとムツを見ると、ぶつぶつと声を立てずに札を読みながら俺と同じように場所の暗記をしている。……これは油断できないな。本当なら水の一口でも飲みたいところなのだが、今回は相手が相手だけにそれはできなさそうだ。「失礼します」と言って席を立つことはできるのだが、十五分で五十枚を暗記するのはやっとという俺にとって、それは自殺行為に等しい。
 そのまま視線を札に戻し、何とか俺が最後の札の暗記をしたところで、進行係の先生が試合開始二分前を告げた。ムツは羽織っていたブレザーを脱いでワイシャツ姿になると「素振り」を始める。開始二分前には、札を取るイメージをつけるために札に触れる素振りが許されているからだ。俺もブレザーを脱ぎ、ワイシャツの袖をまくって素振りを行なった。
 そして、試合開始の時が来た。
 ビデオカメラは、相手と読み手の先生に礼をする俺達をじっと映している。「よろしくお願いします」という俺達の声に被るようにして、読み手の先生は朗々とした声で序歌を読み始めた。これは百人一首にはない歌で、試合が始まる前には必ず読まれるものだ。
 序歌の下の句、二回目の余韻が消えて――
 一瞬の間。
 張り詰めた空気。
 読み手の先生がすっと息を吸う音まで、はっきりと聞こえるほどの静寂。
 それが破られる。

 大江山いく野の道の遠ければ――

 決まり字の「おほえ」に反応して、俺は覚えたばかりの「大江山」の札、俺の自陣・上段右端へと手を伸ばす。しかし、指先が「大江山」にヒットするよりも早く、俺の視界を何かがさっと掠めた。何だ? 思った瞬間には札が一枚、武道場の中途半端に暖まった空気中に舞い上がっていて、それが定められている競技線の外へはたりと落ちる。
「……!」
「まだふみも見ず天の橋立」と下の句が続けられて、そこでようやくのこと状況を理解した。ムツが立ち上がって、沈黙した「大江山」の札を悠々と取りにいく。基本的に札を払った人がその札を取りにいくことになっているからだ。
 すなわち――「払われた」。
 読まれた札がある陣をいくら触れてもお手つきにはならない競技かるたでは、より多くの札を触る「払い」が許されている。払った場合には、「競技線」という札を置くことのできる区域から完全に出た時に取りだ。
 全く……見事な払いだった。
 俺が札を触る隙もない。
 ムツにとっては敵陣にあたる俺の陣の札を取ったムツは、自分の陣から一枚の札を手にしてこちらに差し出し、俺を小馬鹿にしているとしか思えないにやにやとした笑みを向けてきた。俺はそうして「送られた」札をひったくるように乱暴な手つきで奪うと、今さっきまで「大江山」のあったところにその札を置く。「君がため春の野にいでて若菜つむわが衣手に雪はふりつつ」――置いた光孝天皇の有名な歌を再度確認して、俺は舌打ちをした。
 そんな風に苛立ちを露わにする一方で、俺は同時に焦りをも感じていた。
 これは……ミキの言っていた通り、相当にやばい。
 いくら何でも強すぎだ。
 俺に対するメグじゃないが、俺こそムツを侮っていた。
 恐らくこの最初の一首が、俺にとって大きなダメージになってしまったんだろう。ここまで来て俺は急に調子を崩し始めた。空札――場にある五十枚の札に対し読まれるのは全百首なので、読まれる歌の半分はこの場にないことになる――が読まれた時に、それの友札に手を出したのだが、暗記が曖昧だったらしく少し離れたところに手を出してしまう。それはまだ序の口で、一番最悪なパターンとして、読まれた札と全く関係のないところを触る「お手つき」までしてしまう有様だった。お手つきを何と二回連続でしてしまった俺はまたもムツの自陣から札を送られ、空札を除いて十五首が読まれる頃には、俺は六枚もの差をつけられてしまっていた。何てこった。
 それに対してムツは、読まれた札や空札に対して正確に対処をしている。空札の友札に手を出しかけてもその場所は常に正確だし、読まれた札は真っ先に腕を伸ばして払いにかかっていた。
 暗記が正確、動きも正確。追いつめられてきた俺は呼吸を整えて、何度も何度も札の暗記をし直す。
 どうしても負けられない。
 その思いだけで、俺は必死に札に喰らいつく。

 きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに――

 俺の陣の上段左側にあった「きりぎりす」を、俺達はほぼ同時に払った。俺とムツがすぐに立ち上がり、そこで一瞬の躊躇が生まれる。結局はムツが取りに行ったのだが、それを見て俺はすかさず抗議の声を上げた。
「今のは俺の取りだと思うんだけど」
 一枚一枚が勝負の百人一首で競技者の主張がぶつかることはよくあることだが、試合の進行を妨げるためあまり歓迎はされない。されないが、「俺の方が早かったと思うんだけど」と言って顔をしかめるムツを見て、俺は読み手の先生に左手を上げ「待ってください」と合図すると、札のあった場所を指差した。
「『きりぎりす』は外側にあって、そっちは内側から払ってたよな? 俺は直接触ってる」
「……競技線から出る前に?」
 俺がうなずくと、ムツは苦い顔をしてしぶしぶといった様子で札を差し出してきた。さっきも言ったが、払いの場合は競技線から完全に出ないと取りにはならない。その前に相手が直接札に触れていれば、それは当然その方の取りになる訳だ。今のは絶対俺の取りだった。自分の主張が通ったことに、ほっと息をつく。
 とにかく、これで五枚差。
 俺は事の成り行きをじっと見守っていた審判係と読み手の先生に「失礼しました」と一礼して、次の札が読まれるのを待った。

 それから俺は、やっとのことで調子を取り戻し始める。場の残りが十三枚になる頃には一枚差に詰めより、すぐに逆転した。ここへきて初めて俺のリード。が、ムツがそれで素直に負けてくれる相手ではないことも俺は知っていた。三枚差まで引き離したところで、すぐにまた追いつかれてしまう。そこからは、一枚引き離しては追いつき、一枚リードしては取り返す展開が続いた。
「世の中はつねにもがもななぎさこぐあまの小舟のつなでかなしも」――鎌倉右大臣。
「めぐりあいてみしやそれともわかぬまに雲隠れにし夜半の月かな」――紫式部。
「夜をこめて鳥のそらねははかるともよに逢坂の関はゆるさじ」――清少納言。
 一枚を取り、取り返す度に体育館から小さなざわめきが聞こえる。それに気を散らされないようにひたすらに精神集中を繰り返しながら、読み手の先生の声に耳を傾ける作業を続けた。

 そしてとうとう――最後の二枚が残った。

 一首前でムツが自陣を守ったため、俺とムツの陣にはそれぞれ一枚ずつの札が残っている。前の歌が朗々と読み上げられる中で、ムツがこう呟くのが微かに聞こえた。
「運命戦か」
 運命戦。読まれた札を持っている方が圧倒的に有利になるためそう呼称される、一枚対一枚の勝負だ。運命戦ではトラブルを防ぐために必ず審判がつく。場に置かれている札と俺達の動きがよく見える場所へと移動する先生達を横目で見て礼をしてから、俺は残っている札を確認した。
 場の状況に、俺は舌打ちをする。
 ムツの陣に残っているのは、「君がため惜しからざりし命さへ長くもがなと思ひけるかな」――藤原義孝の歌で、中段の俺から見て右側に配置されている。対して俺の陣に残っているのは「君がため春の野にいでて若菜つむわが衣手に雪はふりつつ」――光孝天皇の歌だ。一番最初にムツから送られて、これまで上段の右端で沈黙を守っていた札である。
 同じ「き」から始まる友札にして、初句が全く同一で、決まり字が最も多い六音の句。
「き」で始まる歌は全部で三首しかなく、残りの一首である「きりぎりす」は既に読まれているため、次に「き」と読まれたら必ずこの二首のどちらかだ。が、一音だけではどちらの札か判断が全くつかない。どころか、初句が丸ごと読まれるまでわからない訳だ。こいつは厄介だな。
 迷いが生じた。運命戦になった場合は自陣を守るのがセオリーだと、古本屋街で買ったあの百人一首の本には書いてあった。「君がため は」は俺にとって決して苦手な札ではないし、読まれれば守りきる自信だってある。だけど――
 本当に自陣を守ってしまっていいのか?
 もし読まれるのがムツの陣の札だったら、その瞬間に俺の敗北は決定だ。ここまで積み上げてきたものが全て水の泡になる。それを、運がなかったといって果たして諦め切れるだろうか?
 自信がない訳じゃない。
 ただ――この時俺は、実はこんなことを思っていた。

 ムツの陣の札が、読まれる気がする。

 実に馬鹿馬鹿しい妄想だと、多分日頃の俺なら嘲笑ったかも知れない。しかしこの時、俺はどうしても「君がため を」が読まれるような気がしてならなかったのだ。しかもそれはただの勘ではなく、一応の根拠をも伴っていてのものだった。その根拠すら馬鹿馬鹿しいと、脳の片隅に残った冷静な俺は考えている訳だけれど――それを押しのけてまで、尚。
 下の句が読み上げられる中で、俺はぎりぎりまで迷う。
 定石に従い、運命に身を任せるか?
 それとも、自分の勘に従って後から後悔するか?
「――」
 かさりと。
 真後ろにたたんであるブレザーのポケットの中身が、音を立てた気がした。
『ユキは、』
 いつかムツに言われたことを思い出す。
『もうちょっと自分を信じてもいいんじゃね? 実力はちゃんとあるのに、そんな凄い自分を信じられないって、ちょっと哀しくないか?』
 いつだろう? そうだ、去年の学園祭の時だ。演劇部の劇にムツの一存で特別出演することになった時、台詞を覚えて言うことがやっとだった俺にムツがかけてきた言葉。
『つーか、端から見てて哀れだよ、それってさ』
 いつものにやついた笑みで言われたその言葉に、むっとしたのを思い出す。哀れだとはっきり言われて、あの時の俺はじゃあ信じてやろうじゃんかとひたすらに自分を信じて練習を重ねた。その結果は、確かに上々だったとは言い難い。
 けれど――不思議と後悔はしていないのだ。
 自分を信じたから。
 俺は後悔したくない。
 失敗してもいいから、後悔だけはしたくない。
 だから今。
 自分の意思に逆らって後悔するより――自分の意思に従って失敗した方がいい。
「……信じてやるよ……」
 自分でもやっと聞こえるか聞こえないくらいかの声で呟いた時に、下の句を読み上げていた先生の声が途切れる。その余韻が霧散していく中で、俺の脳裏に、数時間前のムツの笑顔が浮かんだ。
 身体の脇についた左手にぐっと力を込める。
 読み手の先生がすうっと息を吸う音まではっきりと聞こえる。
「果たし状と書いて、振り仮名はラブレター」。

 ……そんなふざけたことを抜かす馬鹿を叩きのめすのは、確かに俺の役目だ!

 き――

 ムツと俺は、同時に札を払った。ムツは自陣の「君がため」を。そして俺も――ムツの陣にある「君がため」を。
「……!?」
 定石をまるで無視した俺の行動に、審判係の先生も進行係の先生も、そして何より目の前のムツが大きく目を見開く。それから、その中でムツだけが、俺の視界の片隅でにやりと笑ったように見えた。
 俺の指先がムツよりもわずかに早く、「君がため を」の札を払う。
 舞い上がった札は試合開始時よりも微かに熱せられた空気の中を飛んで、競技線の外へと自由落下した。

 君がため――

 たった一秒か二秒の時間だろうっていうのに、二句までが酷く遠い。
 ムツと、俺と、この場にいる全員と、そしてビデオカメラの映像を通してこれを見ているだろうメグやミキ達他の生徒。
 二句が読まれる。
 俺達の耳に、結果だけが届く。

 ――惜しからざりし命さへ――

 わっと、体育館から喚声が聞こえてきた。そんな中で俺は競技線の外に落ちた「君がため」を拾い上げる。
 二十四対二十五。自陣に残った「君がため」をムツに差し出した。
「ありがとうございました」
「長くもがなと思ひけるかな」と下の句が読み上げられる中で、俺達は互いに礼をし、審判係の先生に礼をし、最後に読み手の先生へと頭を下げる。脇に積んであった取り札を数えて輪ゴムで束ねると、それを畳の中央へと置いたところで、もう一度礼をした。
 試合終了。

 かくして。
 俺は年明けの百人一首大会において、ムツに勝負をけしかけられた時には思いもしなかった優勝を果たしたのだった。


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