昔話をしよう。
親友、という言葉をご存知でない方はいないと思う。いや、もちろん知らない人を侮辱しようなどとそんな思惑は俺にはない。一般常識として「親友」の単語くらい覚えておいて欲しいという願望が全くないとは言わないが、実際に知らない人がいたところでその人を馬鹿にしようとか見下そうとか、そんなつもりは微塵も持ち合わせていないので、それは是非ともご理解いただきたいところだ。そもそもが親友という言葉を知らなかったところで親友と定義される友人を持つ人というのもいるだろうし、それは「親友」という言葉を知らずとも「親友」という存在を知っているのだから、言葉の知識の有無など全く何の問題にも該当しない訳である。俺が言いたいのはそういうことじゃなくて……そう、親友という概念を知らない人はいないだろうってことだ。
親友。
親しき友と書いて、親友である。
まぁ、そのまんまの意味だ。気になって引いてみた辞書によると、「気心の知れた、親しい友」と定義されていた。敢えて辞書で調べるまでもなかったと、引いてみて後悔するようなそんな味気ない説明だが、それで充分に事足りるかと後になって俺も納得したところである。その上で俺なりの説明をするなら、……いやそんな説明に意味なんかないか。そんなこと言ったら、こんな独白めいた文章を連ねているこの行為にも意味なんてない訳だけれども。
……何の話をしていたんだっけ?
そう、だから親友の話。気心の知れた親しい友の存在の話。
自分にとって親友と呼べる人間が果たしているのだろうか、ということを、実は最近考えていたりする俺である。蛍の光窓の雪、なんて勤勉な蛍雪時代を気取るつもりは毛頭ないが、今宵高校三年生、受験勉強を進める間にいつしか回った真夜中十二時頃、ふと部屋の窓を開いて秋の冷えてきた空気に触れてみたりなんかした時に、その問いがちらりと頭を掠めるのだ。
今宵机に向かい一人きり。さて、これまで十八年の人生を生きてきた中で、そのように「親友」などと馴れ馴れしく呼ぶことが許されるような友が、果たして俺の人脈の中に一人でもいるだろうか? 思い出されたのは幼稚園時代から始まって小学生の時の友人、公立共学中学時代の誰某、公立高校時代の何某――そして最後に思い出されたのが、私立男子校の友人達だった。
いや、向こうが俺のことをどう思っているかもわからない内に、こちらが一方的に奴等を親友などと定義しても寒々しいだけだろう。自己中心的自分勝手、押し付けがましいご近所迷惑みたいな考え以外の何物でもあるまい。「俺達……親友だよな!」。友情・努力・勝利の法則に満ち溢れた漫画世界にはありがちな台詞だが、聞き方をほんのちょっと変えてみると、これってすげぇ自分論の押し付けだよな、とか思う訳だ。そんな押し付けがましい関係に満ち満ちて身動きが取れなくなりがちだから、俺は基本友人関係を築くのが嫌いなのである。
とは言いつつも。
本当は――こんな格好つけたことを言いながらも、本音のところでは、そうして互いを「親友」と呼び合えるような友人関係を築ける人達のことが、俺は羨ましくて羨ましくてたまらないのだろう。そんな睦まじき関係を築いたことがない故の、ないものねだり。健やかなる時も病める時も、指定席たる隣に座っていてくれる存在というのが、実のところ、俺は喉から手が出るくらい欲しくてたまらないのかも知れない。
そして、そんな親友同士のカタチというのを、思い返せば幾度も目にしてきていた訳だ。
今宵も真夜中十二時を回った。日付が変わってこれからは受験勉強も小休止、そんな素晴らしき友情の話の一つをちょっとした気まぐれで、戯言交じりに綴ってみようと思う所存である。
自己中心的自分勝手、自己満足にもほどがある、受験生の現実逃避ではあるけれど――お付き合いいただけたら、俺はとても嬉しい。
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