* * *

 少し後日談をさせていただこう。
 合唱祭が終わって数日後の昼休み、弁当を食い終わって俺が図書館へ行こうと廊下を歩いていると、偶然にも階段のところでアキと出くわした。カレーパン片手のところを見るとどうやら購買の帰りらしいが、アキは俺と目が合うと「よっ」と言って右手を上げてくる。
「ユキ、これから購買か?」
「いや、図書館だけど……何で?」
「んー、いや……購買なら、ちょっと警告をしとこうかなーとか思っただけ」
 アキは言った後で何か考えるようにすると、俺に顔を寄せて落とした声でこう言った。
「実はさっき、購買でちょいといなせな先輩達に声かけられちゃってさ……高等部の人だと思うんだけど。この前の合唱祭でアカペラやってた奴の一人だろって、『ちょっと例のボイパってーのをやってみろよ』とか言われちゃってさぁ、」
「うん」
「ちょっと怖かったけどさ、逃げられねぇし、いいですよーって言ってボッボッパー♪ って少しだけやって『じゃあ失礼します』って逃げてきちゃったんだけど」
 警告というのはそういう意味か。
 確かに最近、というかそれこそ合唱祭が終わって以降、俺は知りもしない人に廊下とかでよく声をかけられる。声をかけられずとも、俺の方に興味深そうな視線を送っているところを見れば、やはりあの合唱祭のステージはインパクトが強かったんだろうな、とか丁度思っていたところだ。
「だよな。……何か、合唱祭が終わってからちょっとばかし有名人になっちゃった気分だよ。色んな人に『ボイパやってた奴だろ』って言われて、変な感じ」
「全くだ」
「でもさ、」
 と、アキは逆接語を繋げて嬉しそうに笑うのだった。
「さっきの購買の時も、そりゃあちょっと怖かったけど……でも、何か嬉しいよな、そうやって注目してもらえるのって。俺、アカペラやってよかったなーって思う。俺自身凄く楽しかったし、それで周りの人も楽しんでくれたみたいだし。何かそういう風に軽い感じで声かけられると――最初はどうなっちまうことかと思ったけど、やっぱあの舞台に立ってよかったって思うんだ。最近」
 俺は苦笑混じりにため息をついた。
 あの一連大騒ぎの後で何の衒いもなく楽しかったと言うなんて、俺にはちょっと真似できない。流石ムツと日頃から仲良くしているだけはあるな、何なら俺と立場交換しないか?
「それはやめとく。……メグも言ってたけど、ユキの代わりは俺なんかじゃ務まりそうにないからさ」
 アキはそう言って笑った。
「でも、また何か面白そうなことあったら誘ってって俺が言ってたって、よければムツに伝えてくれよ。よっぽど妙なことじゃなきゃ、いくらでも付き合うからって」
「……付き合うからって言うと愛の告白みたいだな」
「だな。じゃ、よろしく」
 そうして、聞けばムツが飛び跳ねて喜ぶだろう伝言を俺に託すと、アキは俺が来た方向へ、すなわち上の階へと足取り軽く階段を上って行ったのだった。

 その後赴いた図書館では、今度はカナに遭遇した。クールな無表情と少しぼさついた黒髪に眼鏡、というまるでいつもの出で立ちのカナは、文庫本のコーナーで時代小説を立ち読みしていたところを俺に気がつくと、「ユキか」とベースにぴったりな低音ボイスで声をかけてきた。俺も片手を軽く翻し、よ、と返事をする。
「一人?」
「ああ。……彰が購買から帰ってきてから一緒に行こうかとも思ったんだけど、」
 読んでいた司馬遼太郎氏の「坂の上の雲」三冊目を閉じてそう喋るカナは、いつもより少しだけ饒舌だった。
「早めにくればお前がいるんじゃないかと思ってな」
「?」
「それに、できるならこういう話は彰のいる前ではしたくないし」
 カナは半ば独り言のように呟いてから、相変わらずの仏頂面で俺にこう言った。
「ムツに、さ。伝えてくれないか」
 またムツに伝言か。一体何を?
「今回のアカペラ。……俺は、結構楽しかったって思ってるって」
 カナの口から普段は想像もできないような言葉が飛び出したので、俺は柄にもなく驚いてしまった。基本的に俺は感情を顔に出さないように心がけているのだが、その時ばかりは隠し切れなかったらしい。カナは驚きのあまり黙りこくっている俺に「……そこまで驚かなくたっていいだろ」とため息をついて言うと、更にこう続けた。
「……だから言いたくなかったんだよな……まぁいい。とにかく、色々大変な思いもしたけど、あの合唱祭のステージに立てたことは俺にとって結構大きかった。特別これといったことじゃないけどな」
 今日のカナはよく喋る。
「前の球技大会の時も驚いたけど……それにしたって、今回のアカペラは、ムツにしてはかなりの名案だったと俺は思う。別の言い方をすれば、珍しい功名というか……ムツの暴走は基本的には厄介だったら、こういうのだったら、また機会があれば付き合ってもいいと思ってな。ユキさえよければ、伝えて欲しい」
 カナがさっきのアキと全く同じことを言ったので、俺はますます驚いた。何も言えずに目を丸くしていると、カナは再び、今度は一回目よりも大きめにため息をつく。
「……だから言いたくなかったんだ……ふぅ。まぁ、彰がいなかっただけよしとするか」
「……アキが聞いたら俺と同じような反応すると思ったから?」
「……そうだが」
 不思議そうな顔で俺を見るカナに、俺はおかしさのあまり少しばかり噴き出してから、借りるつもりだった文庫本を本棚からさっさと五冊選び出し、貸し出しカウンターに行こうとカナに背を向けた。
「カナ。……お前と同じこと、アキも言ってたぞ」
「え?」
 カナは普段の無表情を崩し少し驚いたような顔をしてから、その顔に今度は苦笑を浮かべた。アカペラを一緒にやる以前は絶対に見られなかった表情だ。
「そうか……やはり、歴史は偽れないというか、」
 どういうことだ?
「切っても切れない幼馴染ってことだ。……彰共々、また世話になるかも知れないな。それも、ムツに伝えておいてくれ」
 そう言って再び本を開いたカナは、今までに見たこともないような清々しい表情をしていた。

 ここで唐突に、話の時間軸は合唱祭当日終了後に戻る。
 その後の結果発表で、俺のクラスは残念なことにも学年最優秀賞を逃がしていたが、うちのクラスに限らずどこの学年・クラスでも賞がどうのはそっちのけで、俺達のアカペラコーラスの話題で持ちきりだった。おかげで舞台裏から客席へと戻った時にはちょっとしたパニックになってしまい、その後合唱祭終了まで俺はあっちこっちにひっぱりだこだった。やっとのことで客席を抜け出しホール入り口へ辿り着いた頃には疲労困憊である。全く、ボイトレなんかよりもよっぽど疲れるな。
 が――そうして俺と同じようにやんやともてはやされるべき奴が一人、その場にいないことにも、俺は気がついていた。
 ムツだ。
 今回リードボーカルを担当し客席から拍手喝采を浴びていた目立つイケメン野郎の姿を、俺は舞台裏から戻ってきてから一度も見ていない。俺と一緒に戻ってきたメグはやっぱり俺と同じようにクラスの連中にたかられていて、何とか抜け出した後ミキと二人で仲良く帰っていったのを見たが、一体奴はどこへ行ってしまったんだろう?
 混み合っているホール入り口の前を、人ごみを縫うようにして抜けつつ、けれど俺はムツの居場所について大体の予想がついていた。二階席へと上がる溜めのホール脇の階段へと向かった俺は、その階段下にある「楽屋入り口」のドアを開けると、ほんの数十分前までいたそこへ足を踏み入れた。
 楽屋群の前に伸びる、長い廊下である。
 そしてその、本番前、俺とムツが会話を交わした、丁度その場所に――
 ムツは一人で立っていた。
 壁に背を預け、ぼんやりとした表情で天井を見上げている。
「よぉ、ヒーロー。随分と殊勝な顔してるじゃねぇか」
「……何だよ」
 俺が囃し立てるようにムツに声をかけると、ムツは不機嫌そうに形のよい眉を顰めた。さっきとは立場が逆になっているな。傍に来て欲しくないといった雰囲気のムツに、けれど俺はお構いなしに歩み寄ると、隣に立って同じように壁にもたれかかる。
「いつもそれくらい大人しいと助かるんだけどな」
「……ほっとけよ」
「何かあったのか?」
「……別に」
 ムツは面白くなさそうに口を尖らせる。そのまま俺が何も言わないでいると、ムツの方も何も言おうとはせず、黙って廊下の先を眺めていた。その視線の先では、今にも切れそうな天井の蛍光灯がちかちかと不安定に点滅している。俺もしばらくの間同じようにそれを眺めていたが、やがて蛍光灯の観察にも飽きて、それからムツの憂えげな横顔を見ていた。
 そのムツがしばらくぶりに口を開いたのは、点滅していた蛍光灯がやっとのことで正常に灯った時だった。
「うーん……何か変、なんだよな。落ち着かねぇんだよ。心の中が何かこう、ざわざわするというか、むずむずするというか、さ……」
 ムツは実に苦々しげな口調で言いにくそうに呟く。それを聞いた俺は思わず盛大に吹き出しそうになった。らしくもないムツの戸惑いに、俺は苦笑混じりにため息をついて答えてやる。
「俺が知る訳ないだろ」
 それはな、ムツ、日頃周囲に迷惑をかけてばかりのお前が人に感謝されることに慣れていないからなのさ。球技についてはほぼ万能、英語の成績は学年トップクラス、ルックスもよくて明るい性格のお前は、人から好かれたり賞賛されたりすることは今までだってたくさんあっただろう。けれど、その暴走癖が幸いして、お前のやることはこれまで何だって鬱陶しがられていたはずだ。好きなことをやりたいようにやってそれに周囲を巻き込んで、それで誰かからありがたがられることなんかなかっただろ。実は今回のアカペラのことも、俺やメグやミキ、カナにアキを巻き込みまでして更には合唱祭の舞台に立たせてもらって、また人に迷惑をかけるようなことをしちまったんじゃないかと密かに気に病んでたんじゃないのか? それで本番前、俺にあんな変なことを言ったんだろう、ムツよ。
 周囲を巻き込んで、色々と迷惑をかけても、悔やんだり省みたりはしない、なんて、本当は嘘だろ。実のところ、お前は俺達に対して迷惑をかけていることにちょっとくらいは申し訳なく感じてたんじゃないのか。
 だがどうだい、さっき客席からあんな拍手喝采を浴びた気分はさ。俺は客席の生徒諸君じゃないから正確なところはわからないが、みんなが最後に俺達へ贈ってきた拍手はきっと心からのものだ。それも、ただの賞賛の拍手じゃない――あんな素晴らしい演奏を聴かせてくれてありがとう、そんな感謝の気持ちもこもった拍手だったんだ。お前が俺達を巻き込んでアカペラチームを結成し、中津川に話を持ちかけられて合唱祭のステージに立ったのは、先生達に職員合唱をやらせるのよりよっぽど適切な処置だったのさ。あの時貰った拍手は暖かくて優しくてよかっただろ? これに目覚めて、お前もこれからは世のため人のための生き方に移行したらどうだ。
 ……なんてことを、俺は面と向かってムツに言ったりはしなかった。思っただけだ。なに、こんなことを言えば俺はムツの暴走を粗方容認することになってしまう。使い道が更地の整備のためであろうが人殺のためであろうが、ダイナマイトを爆発させることに相違はない。俺はそのどでかい爆発音が嫌いだから、目的や結果が何であろうと導火線に火をつけるような真似はしない訳である。
 それこそ、その爆発音が今回みたいな綺麗な和音だったりしたら、言うことはないんだけどな。
「いいんじゃないか。楽しかったんだろ、アカペラ」
 それでも少しくらいは元気付けるつもりで俺が軽い口調でそう言うと、ムツはまた少しの間黙った後で、「……うん」と小さくうなずいた。
「……うん、確かに楽しかったな。演劇部に行く時もいつも思うけど、やっぱ舞台に立って何かするっていいもんだよ。今更ながらにバレー部に入ったことが悔やまれるけど、でも、今日みたいなのやれたのって、やっぱバレー部にいたからできたんだと思うし……」
 そうだな、と俺はうなずく。
「そうだ、やっぱり舞台に立つのっていい! 緊張もしたし大変だって改めて思ったけど、それでも絶対にいい!」
 あれを緊張そっちのけでよかったって言えるんだから、お前の舞台度胸は底無しだな。全く、やれやれだ。
 ……そんなこんなで、俺の方もしんみりしていたのが悪かった。頭の後ろで手を組み天井を仰いでいた俺だったが、ムツが俺の肩を急に掴んで振り向かせてきた瞬間には、対処を完全に間違えたと思った。
「なぁ、ユキ!」
 そう言ってムツが向けてきたのは、一億ワットの笑みだ。
 俺の見慣れたムツの表情。
 そしてこんな表情をしたムツがろくなことを言い出さないのも、俺はよく知っている。
「お前も今回のアカペラは楽しかったって思ってるんだろ! 今度はどうだ、もっとメンバー集めて、シングアウトとかやらないか!」
 ……何てことを言い出しやがる。
 俺は顔を引き攣らせて首を横へ振った。
「嫌だ」
「お前なんかに拒否権ねーよ! ……きっと今頃は、俺達のソウル・ソングに心をぐさっとやられた全校生徒諸君が、『俺もああいうのやりてー!』とか言いながら町を闊歩していることだろう! そういうのを片っ端からスカウトして、数十人集めて歴史的シングアウトチームの結成だぜっ! バックバンドもお忘れなく! ……そうと決まれば早速行くぞ、ユキ!」
 言うが早いか、ムツは廊下に置いてあった自分のエナメル鞄を肩にかけると、俺の左手首を掴んで早足で歩き出した。引きずられるようにして俺もまた歩き出す。
「メグとミキは? 帰った? ……何で黙って返したんだよ! 後で連絡入れてとっ掴まえるぞ! カナとアキもだ! ……待ってろよ、全校のハモり愛好家どもーっ!」
 ムツは叫ぶ。さっきまでの暗い表情はどこへいっちまったんだよ、というか、俺はまた騙されたってことになるのだろうか? 勘弁してくれ。
「ほら、さっさと行くぞ、時間がもったいねぇ! 俺達の青春は限られているんだ、わかってるのかユキっ!」
 ムツの歩く速度はだんだんと速くなり、いつしか小走りに、そして最後には盛大に駆け出す。俺もため息をついてから、走り出した。
 何故って?
 ムツの右手が俺の手首から離れるのには、もっとずっと時間がかかりそうだったからだ。
 全く、本当にやれやれだね。

 ムツと二人で駆け出た市民ホールの外の空は、青と赤とを天然水で割って薄く塗り広げガラスを張ったような、アカペラのハーモニーのように澄んだ色をしていた。


[レッツシングソウルソング 了]
[読了感謝]

作中歌詞引用:イッショウケンメイ。
(シングル「イッショウケンメイ。」、2001年11月14日)
作詞・秋元康、作曲・櫻井真一
歌・ネプチューン
(ワタナベエンターテイメント・トイズファクトリー)
恋のマイレージ
(シングル「恋のマイレージ」、2002年6月19日)
作詞・土屋礼央、作曲・豊島吉宏
歌・RAG FAIR
(ワタナベエンターテイメント・トイズファクトリー)
星屑の街
(シングル「星屑の街」、2002年11月13日)
作詞作曲・北山陽一/安岡優
歌・ゴスペラーズ(グラシアス・Ki/oon Records)

参考資料:「ハモネプ START BOOK」
(古屋恵子・著、犬飼将博・監修、ドレミ楽譜出版社・刊、2001年)
「ハモネプ MASTER BOOK」
(古屋恵子・著、ドレミ楽譜出版社・刊、2002年)
「ハモネプ STORY BOOK」
(集英社・刊、2002年)

参考URL:フジテレビ

(敬称略)

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