* * *

 舞台裏に入ると、先にスタンバっていたメンバーの内ミキが俺に飛びついて、「どこに行ってたんだよぉっ」と可愛いにも程がある顔ですがってきた。本番前にやめてくれないかなぁ、下半身の力が抜けて舞台にまっすぐ立てなくなったらどうしてくれるんだ。それくらいやばい精神攻撃なんですけど、それは。
「俺達が舞台脇に連れてこられて緊張マックスだっていう時にさぁ。二人揃ってどこにトリップしてた訳っ?」
「ちょっとな。よんどころない事情があって廊下で話し込んでただけだ」
「ムツと二人でか? ……あっ、愛の会話? 二人秘密の愛の会話っ?」
「違う」
 何つーか、時々思うけどミキも結構やばいよな……。
 もちろん一番やばいのは、
「おうよ♪ 何せ俺達ラブラブ甘々ですからぁ。羨ましい? あやかりたい、ミキ嬢ちゃん?」
 とか、俺の肩に腕を乗せてわざとらしい口調で言い返しているムツだが。社交辞令として一発、茶色い頭を殴っておいた。
 そんなこんなのふざけたやり取りをしていたら、ミキを拘束していた緊張も少しはほどけたようだった。舞台裏に満ちていた締め付けられるような雰囲気も、同じように緩んだように思う。ライトに眩しく照らし出された舞台の方を覗きながら、アキだけは「大丈夫かなぁ。俺、結構死にそうなんだけど」と不安げな様子を隠せないでいたが、その傍でメグは深呼吸しながら精神集中に務めており、中津川は指導顧問兼推薦者とは言えども基本的には第三者でお気楽ムード、そしてカナの普段通りの無表情と禅僧並みの平常心は言うまでもない。そんな面々を眺めていたら、俺を支配していた軽い緊張も薄らいできた。
「……そろそろだね」
 中津川が呟いた時、舞台の上に一人実行委員が立って、俺達の紹介を始める。アカペラをやっている有志の団体であること、今回急遽取りやめになった職員合唱の代わりに、採点の集計時間中に歌ってもらうこと――そこまで聞いたところで、中津川がさぁ、と俺達に号令をかけた。
「出番だよ」
「……ああ」
 ムツがうなずき、しがみついていたミキが俺から離れる。メグが指し示した事務机の上には、市民ホール側が用意してくれた無線マイクが六本置かれていた。それを、まずはアキが、続いてカナが手に取る。俺もそれに続いた。
「行くか!」
 ムツの合図に合わせて全員が集まり、そこでマイクを片手に円陣を組む。  自称リーダーのムツは、全員が肩を組んだことを確認すると、舞台裏全体に響き渡るような声で叫んだ。
 俺達もそれに答える。

「同志よ魂の歌を歌え、ザコ共よ俺達の歌を聴けぇ! ――Let's sing soul song!」

 客席から微かな話し声が聞こえてくる中出て行った舞台上は、ライトが燦々と当たっていてとても眩しく、あまりの明るさに舞台裏の暗闇に慣れきっていた俺の目は少しばかりくらりときた。先頭からリードボーカル・ムツ、ハイテナー・ミキ、続いてローテナーの俺、後ろからバリトン・メグ、ベースのカナとボイパのアキが連なる。定位置に立ち客席に向かい合った時には、一度は収まっていたはずの俺の緊張は再び最高潮に達して頭は真っ白だった。何が何やらもうわからない。何を歌うのか、歌い出しは何だったか、そもそも歌い出しってどう意味だっけ、すら客席の向こうへぶっ飛んでしまっていたように思う。舞台上に現れた奇妙な六人組に客席の全校生徒も少々騒がしく、そのざわつきが更に俺を白くさせた。
 もう何も考えられない。
 ……思った時、隣からピーッ、と聞き慣れた一音が耳に届いた。メグの吹いたピッチパイプの音だ。最初にリードボーカル、次にコーラスT、U、と次々に第一音を取っていくその音色に、吹っ飛んでいた俺の冷静さは徐々に戻ってきた。頭の中がすーっと冷めていく感覚がして、激しく波打っていた心臓の音が大きな音ではあれど一定の拍子へと回帰する。
 短く息を吐いて、下げた右手に握ったマイクのスイッチを入れた。ほんの一分にも満たない間握り締めていただけだというのに、それはもうほんのりと湿り気を帯びている。
 最後、ベースの第一音が鳴らされ、俺はクラスの発表の時もじっと見つめていた舞台の縁のある一点から視線を外し、代わりに一番端のムツを見やった。最初に音合わせをする合図を出すのはムツの役目だ。
 練習の中で自然に身につけた、アイコンタクト。
 その後でムツが息を吸い、それに合わせて俺達も一斉にブレスをする。
「――――」
 俺達が放ったそれぞれの第一音は、音程を間違うことなくまっすぐに、視線を送っている先・客席の遥か向こうへと飛んでいき、マイクから電子情報へ変換された音は舞台脇のスピーカーから見事な和音を届けた。大丈夫、いける。一斉に全員の声が止まり、そこに客席が生み出した静寂も重なって、水を打ったような無音が、ホール一帯に満ち溢れた。
 俺達のアカペラステージ、一曲目はRAG FAIRの大ヒット曲「恋のマイレージ」。
 全員が同時に息を吸う。

『裸足の夏 baby イェイ! イェイ! イェイ! あなたと僕の砂浜で
 恋のサーフィン イェイ! イェイ! イェイ! あなたと僕はBiggest Wave
 心は裸で イェイ! イェイ! イェイ! 実はどきどきさForture Love!!』

 ……走ってしまいがちのハイテンポな曲で、全員が同じリズムに乗るのに最後まで苦労した曲だ。リードボーカルと同じ形で動くコーラスパート――同ハモからスタートし、全員の声がハモって綺麗に響いたところへ、リズム隊のボイパ・アキとベース・カナが加わった。
『はじけるよface 透き通るvoice ベイビー』
 結論から言えば、この「恋のマイレージ」で客席は一気に俺達のコーラスに引き込まれてくれた。ムツの派手派手しいリードボーカルは、『エメラルドのビキニが派手 僕的にはダメよ! ベイビー』のあたりのわざとらしい歌い方を中心に客席から爆笑をかっていたし、それに合わせて俺達が「ワォ!」「イェス!!」などと応答すれば、アキのプロ並みに成長したボイパも一層派手さを増す。
『あなたの事が… あなたの事が…
 波の音の様に離れないのさ』
 コーラスパートの内ミキと、リードボーカルのムツとが、サビの後半でまるで競い合うかのように派手に掛け合う。
『あなたの事が… あなたの事が…
 ハイビスカス以上に輝いてるのさ』
 アカペラというと棒立ちで淡々と歌うイメージがあるが、それが嫌だった俺達は自分達でつけた振り通りにガンガン踊りながら歌い続ける。振り付け担当は、そういうの大好きのムツ。……実はRAG好きの俺もちょっと口を出させてもらったというのはここでは秘密だ。
『僕にとって あなたは南の島
 ときめきと胸騒ぎ 常夏気分 Yeah!』
 ――俺達の「恋のマイレージ」は、完全に燃え尽きた一曲となった。

 一曲目が終わった直後の客席のざわつきは並のもんじゃなかった。RPGで「騒然」という補助魔法があるなら、かかったモンスターはこんな風に騒ぎ出すんじゃないかと思う。目と口と手を慌しくばたつかせ、そりゃもう舞台上の俺達に注目している雰囲気じゃなく、隣のミキもメグも、客席を見回してそのあまりの様子に驚いていた。
 そんな中、俺は一人列を離れ、舞台袖へと向かう。
 次の曲は俺を除く五人で歌うことになっているからだ。
 俺達の二曲目・ゴスペラーズのナンバーから「星屑の街」は、ドラマの主題歌にもなったそれなりに有名な曲で、最初からやっていた他の二曲に少し余裕が出てきた頃、アキが「俺もコーラスやりたい!」と言い出したのをきっかけにして発表曲目に加えることにした曲である。アキがコーラスに加わるのに代わって俺が抜けることになったって訳だ。ボイパ抜き・ベースとコーラス三本・リードボーカルという、シンプルなアカペラらしい一曲、楽譜はやはり中津川がアレンジしてくれた。
 メグが一曲目と同じようにピッチパイプを吹くと、その音に反応して客席のざわめきが前の方から消えていく。舞台から見ると、客席に広がっている薄闇がだんだんと静かになっていくのは、夜の浜に波が寄せて引いていく時の雰囲気とよく似ていた。
 最後の喚声が空気に溶けて消えた時――ムツが合図を送って、五人は歌い出す。
 満ち溢れた静寂の中に、響き出す緩やかで広がりのある和音。
 決して派手ではない、静かながらしかし心の底から何かが湧き上がってくるのをこちらに感じさせる力強さをも持ち合わせたハーモニーが、心地よい薄闇に支配された客席をより一層、いい意味で薄暗くさせた。舞台の照明が少し落ちたように感じるのも、俺の気のせいではないはずだ。
 前奏のしっとりした半ハミングの和音が、微かになった照明の下で四散し、一瞬の無音が生じる。
 ミキ・メグ・アキ・カナの四人は同時にブレスをした後で強かにコーラスを歌い上げ、そこへきて、それまで胸に手を当てて瞳を閉じていたムツが、客席の先のどこか遠いところをまっすぐに見つめて――そして、歌い始めた。
『探してた明日が 今ここにあるよ
 追い掛けてた昨日を塗り替えながら』
 静かで、どこか切なく、けれど陰湿な印象はどこにもない、しなやかな力強さも同時に持ち合わせた、聴き手たるこちらに勇気を与えるかのような、リードボーカルだった。それが、息の合ったコーラスの上に寄り添うかのように乗って、立体感を生み出しつつ、客席へと届けられている。
 もし俺に、音を可視情報として認識できる視覚と脳神経があったなら、きっと今のこのホールに広がる闇の中に、薄明かりの白い帯がゆらゆらと揺らめきながら客席へ伸びていくのが見えたことだろう。それが客席で光の粒に変わり、星の欠片の如く散っていくのが見えたとしたらどんなに素敵だったかと思う。
 そして、そんな風にして広がる歌声の中で、ムツは薄闇に向かって語りかけるようにして主旋律を歌っていた。
『大丈夫 ずっと この歌を歌いながら
 大丈夫 ずっと この歌とここまで来たよ』
 サビに入る直前、コーラスとベースの四人がはっと息を呑ませるくらいぴたりと音程の合った和音を奏で、それが一瞬にしてホールの闇に吸われた後で、ブレスによる一瞬の間が生じる。ムツが息を吸った瞬間には、客席もそろって大きく呼吸をするのが、舞台袖の俺からはよく見えた。
『あの日 ――』
 ムツの歌声が強かに響いた直後から、他の全員が、ムツのリードボーカルと同じメッセージを歌う。
『―― 見上げた星空より高く』
 それが一瞬にして再びわかれ、数小節ぶりのハーモニーがホールに満ち溢れて、そのまま今頃丁度星空が広がっている時間の国辺りまで零れ出しそうだった。
『夢で思うより遥か遠く
 今夜連れてゆくよ ごらん 星屑の街へ』

「星屑の街」が歌い終わり、次に客席にかかった魔法は「唖然」だった。生徒だけじゃなく先生もが腕と口を仲良く石化させてしまって、一曲目の後の大喝采は一体なんだったのか拍手のはの字もない。
 けれど決して居心地の悪い訳ではない沈黙の中、俺は再び袖から舞台へと一歩を踏み出した。
 舞台の端に歩を進めると、丁度俺の立ったところにスポットライトが当たる。照明・音響室のある客席の向こうを、眩しいライトに目を細めながら見れば、こちらは真っ暗な部屋の中に演劇部の知り合いの顔を見た気がした。全く、いい仕事をしやがるな。
「いかがでしたでしょうか? 一曲目はRAG FAIRの大ヒット曲『恋のマイレージ』、二曲目はゴスペラーズの『星屑の街』でした」
 俺はマイクのスイッチを入れると、言葉をなくした客席に語りかけた。
「えー……実行委員の方からも紹介をいただきましたが、僕達は全員、ほとんど合唱経験もないようなアカペラ初心者、というか、はっきり言えば素人でした。けれど、こうして何かの縁でアカペラをやることとなり、更には合唱祭で歌う機会を与えていただき、とても感謝しています」
 客席は相変わらず静かなままだ。
「最初は僕も、一体どうなることかと不安でいっぱいでした。でも、アカペラをやりたいという他のメンバーと、色々と教えてくれた合唱部の中津川君のおかげ、そして何よりも――アカペラをやろうと言い出した、右端にいる野瀬君の熱意に背中を押されて、僕は今、ここに立っています」
 実行委員会との打ち合わせにもなかった、たった今考えたばかりの台詞だった。
「これまでほぼ毎日、一生懸命やってきました。最後の曲は、そんな僕等が一番好きな曲です」
 俺はこの時初めて、本当の意味で客席と、それと、他の色んな何かと――向き合うことができたと思う。
「聴いてください。……『ハモネプ』テーマソングで、『イッショウケンメイ。』」

 メグのピッチパイプの音の後に、俺達のユニゾンが響き渡る。

『イッショウケンメイ 君が好きだ 片想いでも構わないさ
 今日まで過ごした関係を 僕は壊せないよ ……』

 そして。
 その出だしと全く同じフレーズで曲を締めくくった時――
 俺達は、今までに受けたこともないような、心からの、暖かくて優しくて大きい拍手を、照明の強い光と共に身体いっぱいに、浴びたのだった。
 その時のことを、それから四年経った今でも、俺はよく覚えている。


←Back Next→



home

inserted by FC2 system