昔話をしよう。
 今回は多くを語らずに、本当に、必要最小限のことだけを語ろうと思う。というのも、俺はこの話について皆目麗しい情景描写や心理描写、やたら耳障り目障りのいい美辞麗句を連ねて多くを語りたくないのだ。もちろん、そうした方が読む側にしては目に美しく読んで心に染み、分量によっては大した読み応えさえ得られるだろう。が、この昔話の体験者である俺は、そんなことのためにこの話をごちゃごちゃとうるさく飾り立てたくないんである。
 表面だけをなぞったような飾った言葉は――
 この物語を、嘘臭くしてしまうだろうから。
 俺が持つ過去話の内の一つであるこれは――
 他に紛うことなき、真実だから。
 下手に飾れば嘘臭く感じてしまうほどに――
 嘘みたいに、綺麗な話だと、思うから。
 ……。
 だから、長い前置きも当然いらない。必要なのは秋風と五百段を超える階段、いつ聞いたか思い出せそうで思い出せないあのメロディーで充分だ。
 それでよければ、始めよう。





メロディーフラッグ


「……暑ぃ」
 時は体育祭も終わった九月の半ば、時刻は夕方過ぎ。日差しは橙色になりかけ、蒸し暑い夏風から涼しさとセンチな気分を感じさせるように切り替わった秋風が吹く中。
 なのにそんな文句の一つも呟いてしまうのは、これは今日に限っては俺の自業自得というものだった。
「……因果応報とも言う」
 ぼそりと呟いて、俺はワイシャツの袖で額の汗を拭い、上を見上げた。天まで届くんじゃないかと思うくらいに高く続いているのは、まだ上り始めて五分に満たないまっすぐな急階段だ。
「…………高ぇ……」
 恐らく、まだ百段くらいしか上っていない。両脇に鬱蒼と木が生い茂っている階段の先を思いやって、俺は正直うんざりした。何でこんなところ、高校二年生になってまで上らなきゃいけないんだろうね。
 と、文句を言ってみたところで上らざるを得まい。
 俺は、丁度四年前、俺が中学一年生だった時の今日を思い出す――

 * * *

「だりぃ!」
 五時間目の体育の授業とやたら長引いたホームルーム、面倒くさい掃除を終えて放課後、所属しているバレー部の部室に向かいながら、部活の同輩・野瀬睦――通称・ムツが悲鳴を上げた。
「だるい! だるいぞ! 部活とかサボリてぇ!」
 勝手にサボってろ。体育の授業中、バスケットボールで熱った身体を下敷きで扇ぎながら、俺は隣を歩くムツにそう突っ込みを入れてやった。俺はお前の一人や二人(二人いないけど。いても怖いし)が部活をサボったところで何も困らん。
 小学校のウン年生から塾通いを続け、中学受験を経てやっとの思いで入学した、とある私立の男子校。
 中学一年生、それから半年近くが経った九月ともなれば、勉強も部活も中だるみしてくるというのはまぁ、わからなくもないし。
「わかる割にはそうやって冷たいこと言うのなー、ユキは。もういいよ、ユキ嬢なんか嫌いだーっ」
 面食い女子が刹那も置かずに飛びつきそうなイケメン面を持つ、それこそホストクラブに勤めさせたらコアな指名客が十人単位でつきそうなクラスメイトは、俺のことをじとっとした目で見た後、口を尖らせてからそう廊下の向こうに叫んだ。お前がサボりたいと言うからサボれと言ってるんだろうが。お前は俺に何を望んでいるんだ。
「ユキ、そりゃあ駄目だよ」
 ムツを無言で睨んだところで、背後から降ってくる、苦笑交じりのいかにも優等生的な声。
「ムツはね、構って欲しいのさ。だるいし嫌になってるのは事実だけど、だからって部活を本気でサボりたい訳じゃないよ。ここはね、ユキ、『サボるな馬鹿』っていうのが正解」
 振り返れば更に納得させられる、眼鏡にポニーテールが似合う長身の優等生面。
 同じくクラスメイト兼部活の同輩――浜野恵、通称・メグ。
「ざっけんな!」
 と乱暴な口調ながらも、しかし笑顔でムツがそうメグに言い返した。
「マジでだるいんじゃいこっちは! 第一前から思ってたけど何なんだ、うちのクラスの時間割は! 金曜日の五時間目が体育ぅ? しかもカリキュラムも問題だろ! 何で体育館がくそ暑いこの時期にバスケなんかやらなきゃいかんのだ! バスケってば冬のスポーツなんじゃないのかよ! うがー!」
 それは同感だ。休みなく動かしていた下敷きをちらと眺めて、俺は一人うなずいた。本当、ムツの言う通り金曜日の五時間目、最終コマでの体育は勘弁して欲しいね。一週間の最終日、疲れきっているところを極めつけの体育というのは身体がおかしくなる。ま、体育じゃないところで放課後に部活が待っているんだからどうせおかしくなるんだけど。
 でも、ならせめてバスケじゃない種目にして欲しいところだ。
 部活柄よく知ってるけど、夏の体育館は暑いんだよ。しかも運動量の多いバスケ。余計に疲れる。
「だからもー、やる気なくてマジでサボりたいのにさぁ〜……あー……でも、うん。メグ、当たり。やる気の出る一言でも言ってくれよってんだよ……もぉ……」
 言ってムツは、がっくりと肩を落とす。そんなムツを見てから、メグは俺に「言った通りでしょ?」と言うように視線を送って肩をすくめた。俺も肩をすくめ返す。やれやれ、ムツはわかりやすくてドンマイだな。
「じゃあ、さっさと部活行くぞ。しゃきっとしやがれ」
 ぱんぱん、とムツの肩を軽くはたきながら、俺はため息混じりに言ってやった。こいつのお守りは何だかんだでいつも俺だ。
「来年、全国大会行くレギュラーになりたいんだろ? だったら今からみっちりやっとけ。ほら、しゃき」
「……しゃき……」
 励ますように茶化した口調で言ってやると、相変わらずのよどんだ声でそう言いながらもムツは顔を上げる。よし、その意気だ。俺はもう一度ムツの肩を叩いてから、部室に向かおうとメグを振り返った。
「行こうぜ、メグ」
「あ……」
 するとメグは、ほんの少しだけ困ったような顔をした。どことなく視線を彷徨わせて、なんだか焦っているかのような態度。何事かと小首をかしげる俺の目前でしばらく視線のやり場に困った後、メグは手を後ろに回して申し訳なさそうに言う。
「ごめん、えっと……今日は、ちょっと、用事があって、」
「あ……そうだっけ?」
 別に毎日メグの予定を把握している訳じゃないが、それにしたってそんな話は初めて聞いた。というか、部活を休んだことなんて俺の記憶が正しければ未だ一度もないメグがそんなことを言い出すとは甚だ意外である。俺はまじまじとメグの顔を見た。何か外せない用事なんだろうか。
「えっと、その……急用なんだ。だから、今日、部活行けないや……」
 そんな俺の視線をどう思ったかは知らない。ただ、メグは更に申し訳なさそうな顔をして視線を足元に落とした。
「ごめん、先輩達に謝っておいて。練習、参加できなくてごめんね……外せたら外したんだけどどうしても今日じゃなきゃいけない用事で、」
「うん」
「ごめん」
「……うん」
 ごめんごめんって何回謝るつもりだ、お前は。
 そんな俺の心の中での突っ込みはさておき、メグは言って頭を下げると、じゃあ先輩達によろしく、言い残して来た道をぱたぱたと早足で引き返し行ってしまった。しばらく足音が響いた後、やがてそれも聞こえなくなる。
「へぇ、メグの奴、部活休むなんて珍しいじゃん」
 いつの間にか背筋もしゃきっと復活していたムツが、俺の後ろからメグを不思議そうに見送りながら言った。
「しゃあねぇ、じゃあ今日は適当に練習して終わらすか……よっぽど外せない用事なんだろうな、メグ。あるいは、」
 言ってムツは、にやりと笑う。
「サボりかな。今日もバスケ、派手に飛ばしてたし……俺の方もムキになってボールぶん投げたりとかしたしなー、ははっ。案外指の一本でも突き指してたりして」
「……まさかだろ」
「とは、思うけどさぁ。でも、」
 もうメグの姿も見えなくなってしまった廊下の遠くに目をやって、ムツはさながらメグのように肩をすくめた。
「あいつも疲れてんじゃねーの?」


Next→



home

inserted by FC2 system