* * *

 メグが帰ってからどんなに多く見積もってもまだ十五分は経っていない内に学校を出たのに、走っても走っても俺はメグに追いつけなかった。
「……っはぁっ……メグの奴、どんだけ急いで帰ったんだよ」
 駅前近くの大通りに出るまで続く住宅地の中を走りながら、息も切れ切れに文句を呟いた。学校最寄の駅までは少なくとも歩いて二十分はかかるはずだ。ともなればまだその辺りを歩いていても良さそうなもの、しかしメグの姿はどこにも見当たらない。
 入り組んだ住宅地。
 どこを歩いても基本的に大通りに出るから、必ずしも今俺が走っている、この道を歩いているとは限らない訳だけれど。
 ましてメグは人より若干気まぐれなところがある。
「……ったく……」
 メグの馬鹿。
 最後に一区画だけいつもの通学路を走った後立ち止まり、空を軽く仰ぎ誰も聞いていないだろう独り言を呟いてから、俺はその角を右に曲がった。
 この学校に通い始めて半年未満、いつもの通学路以外なんて一、二度くらいしか歩いたことはない。
 それで。

 見事に、道に迷った。

「…………」
 もう何回右に曲がったっけな。四角く碁盤状になっている住宅地なら、区画を計算しつつ右折を三回繰り返せば元の道に戻れるんじゃなかったのかよ。あとは、壁に右手をついて歩けば脱出できるとかさぁ。
「……何の迷路必勝法だ、馬鹿」
 いらついた口調になりながら、走る速度を落とし、ついにはとぼとぼとした足取りになってしまう。もう疲れた。週に一回、部活の外練習で学校を何周かしているとはいえ、決まったルートを何周もするのと通ったことのない道を当てもなく走り回るのとじゃ訳が違う。息は完璧に上がっているし、足もいい加減悲鳴を上げ始めていた。ついでに喉も渇いている。
 もう、やめようかなぁ。
 学校、戻ろうかなぁ。
 って言っても、道がわからないし。
「迷子の迷子の子猫ちゃん〜、貴方のお家はどこですか〜……」
 南林間でーす……。
 限界なのは息や足や喉だけではないようだった。歌ってどうする、俺。
 自分の阿呆さ加減に、俺が幸せどころか自分自身逃げ出したくなる重いため息をついた――その時。

「――                 ……」

 歌が、聞こえた。

 ような、気がした。

「……?」
 無論、俺が歌った犬のお巡りさんじゃない。当てもなくほとんど無意識で足を動かしていた俺は、立ち止まって辺りを見回した。人がいる気配すらない、ここが本当に東京都なのかと疑うような静かな住宅地だ。なのに……歌?
 俺は歌声のした方を振り返る。
「……」
 そこに、階段があった。
 俺が立っている小さな十字路の右の道、家が何軒か続いた先に広がっているのは、山と形容してもこの場合は問題ないような鬱蒼とした林で、そこに無駄にまっすぐな階段がどこともしれない高いところに向かって伸びている。人が二人すれ違うのがせいぜいの、お世辞にも幅の広くない階段だ。人もほとんど通らないのだろう、ところどころが苔むし端に乾いた落ち葉がたまっている石段の一段一段に、木々の間を通り抜けてきた午後の光がちらちらと細かい模様を作っていた。階段を目だけで上ると、木に隠れて見えなくなるまでのところだけでも数十段はありそうである。トンネルの如く覆い被さっている木々が、夕方近くの風に遊ばれてざわざわと気味のいい音を立てていた――
 無駄な情景描写を省いて完結に言うなら。
 そこは、まるで神隠しの世界の入り口みたいな場所だった。
「――       ……」
 その階段の先から、俺のことを誘うかのように、風に乗って途切れ途切れに歌は聞こえてきている。
「……」
 階段まで駆け寄った。近づいてみるとわかる少し急な階段はどこまでもまっすぐで、林が作る暗がりの先に最上段らしき小さな光が見えている。
「……上るか」
 俺は呟いて、階段の一段目に足をかけた。

 すぐに後悔する羽目になった。
「……百五十三、百五十四、百五十五……」
 上り始めた急階段は思っていたよりもずっと長く、どんなに上っても一向に頂上は近づいてこなかった。階段の一段一段が細かいのも原因の一つだろうが、どうやら階段が目指す先の見えるくらいまっすぐなことで、本来遠くであるゴールの光が案外近くに見えていたらしい。軽い気持ちで段数を数えていた俺だが、まさか百を超えるとは思いもしなかった。
「……何段あるんだ。暑い……」
 立ち止まると、階段を上る前には少し収まりかけていた汗が、また冗談みたいに噴き出してきていた。林の中特有の湿った空気が、ワイシャツの下で濡れている肌の不快感に拍車をかける。
 それでも、ここまで上ってきてしまった以上、引き返せない。
 俺は再び、階段を上り始めた。
「二百二十四、二百二十五、二百二十六……」
 着かない。
「三百八、三百九、三百十……」
 着かない。
「三百五十六、三百五十七、三百五十八……」
 まだ着かない。
「四百六十九、四百七十、四百七十……一、七十二」
 全然着かない。
 ああ、それはもういい加減にしてくれと思うまでに、階段はどこまでも続いていた。ところどころ休憩を挟みつつ、また携帯電話をこまめに取り出して時間を確認しつつ、俺は一段一段を数えながら上る。本当は二百段を過ぎた辺りから面倒くさくなっていたのだが、そこまで数えてしまった以上後に引けず、延々と数え続ける羽目になってしまった。
 が、歌はその間も途切れ途切れになりながら、まるで響く鐘の音のように――繰り返し、俺の耳に届いてくる。
「四百九十九、五百……っと、」
 そこまで数えたところで、目指す頂上がやっと目の前まで迫ってきた。残すところあと二十段ほど。俺は一度立ち止まって、またいつの間にか荒くなってしまった呼吸を整える。
 軽く吸って、ふぅ、と吐き出して。
「……行くか」
 五百一。五百二。五百三。
 歌が、だんだんと近づいてくる。
「……五百十九、五百二十、五百二十一!」
 週一のランニングよりよっぽど疲れる階段を上りきり、俺は最後の数字をやけに大きな声で宣言する。林による影は丁度頭上で終わって代わりに久々になる太陽の光が俺の目を刺し、辺りに遮るものがない開けたところ特有の風が俺の髪を揺らした。
 と、そう。上りきった先は意外なことにも、開けた場所だった。
 どこまでも草原としての下り坂が続いている眼下に住宅地の広がっているのが見える、視界を遮るものが数本の木と風しかないような、階段五百段分の高さの、嘘みたいに広い展望台。身体に迫ってくる風が凄くて、一瞬、体勢を立て直す。
「……ユキ」
 そして、そこで歌を歌っていたのは――

「どうして……?」

 見慣れた眼鏡とポニーテールの長身エセ優等生面。
 メグだった。


←Back Next→



home

inserted by FC2 system