昔話をしよう。
人生何が起こるかわからない、というのは予想だにしない状況に直面した際に誰しもが口にする常套句だが、今日高校二年生である俺も、人並みかほんのわずかそれ以上の程度でこそあれど、そう言いたくなる状況に対峙してきた。それがいい意味であるか、それとも悪い意味なのかは別として。
そう、人生は何が起こるかわからない。
例えば極端な例として、今こうして物語を語ろうとしている俺が一秒後に倒れてそのまま死んでしまわないなんて保障はどこにもない訳である。俺自身倒れずとも、起こる起こると言われつつ未だ起こっていない関東大震災が唐突に襲ってきたり、日本が誇る富士の大山が噴火したり、そんな大掛かりなものじゃなくていい、火災が発生したり雷が落ちてきたりして、結果俺が死んでしまう可能性はいくらでもあるのだ。掃いて捨てるほど、そこら辺にごろごろ転がっていると言えよう。それは例え今ではないとしても、いつふりかかってくるか既に決定されているに違いない。そんなリスクを抱えてまで、俺はこうして原稿に向かっている訳である。もしもこの原稿書きが、俺の生前最後の仕事になってしまったら? いや、別に死にたい訳じゃないけれど。
……何の話をしていたんだっけ?
そうだ、だから予想だにしない状況の話。何が起こるかわからない人生の話。
ちょっとロマンチックな妄想癖のある人なら、そんな起こってしまった予想外の事態を「運命」とでも小洒落て言うのかも知れない。しかしながら、そこにはその単語ほどの夢やロマンは微塵もないと俺は断言する。予想外に起こったことが本当に予想外だったなんてメルヘンチックなシチュエーションが全てでは決してないし、逆に前もって用意されたシナリオの如くのストーリーが全て予想済みの予定調和だとも言い切れない。自分にとっていいことだろうと悪いことだろうと、奇跡的だったり必然的だったり、そんな勘違いをすると人間はえてしてそれを「運命」なんていかにも素敵っぽい漢字二文字の言葉一つで言い表して満足するのさ。
というか、そんな風に奇跡とか必然とか言い出したら、ここに今俺という人格が存在していること自体がそもそも奇跡的だ。が、別の視点から考えれば俺の生みの親・両親というのは俺が誕生する前から既に「俺が生まれる前提」としてそこに存在しており、ならば俺の存在も予定調和の必然と考えられる訳で。ともすればその前提の両親すら、奇跡的且つ必然的であり……
つまり、人生に起こる全ての事柄を運命だとか奇跡的だとか必然的とか、そんな言葉で片付けるのはそもそもナンセンスだ、ということだ。
それでも――
中学受験を経て入学した私立男子校、若葉の青い季節に起こったあのことだけは――
奇跡的で必然的な「運命」と呼んでいいんじゃないかと、そんな気がしなくもない。
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