* * *

 何となく早足なミキに連れてこられたのは、体育館の裏手だった。
 部室・武道場と連結して成り立っている体育館棟は中庭を出て特別教室棟の向こうに渡り廊下で繋がっている。その体育館棟の裏は、防砂ネットと木々を挟んで道路と隣接しており、……何が言いたいかと言えば、ここには滅多に人が来ないということだ。
 ざわざわと音を立てつつアスファルトの地面に木漏れ日の模様を作っている若葉が青い桜の木々の下で立ち止まり、ミキがこっちを振り返る。天然のまだらな照明の下、髪を軽くたなびかせながら少々遠慮がちに向き直るそれは、まるで映画のワンシーンのようだった。
 それが、二人きり。
 俺が独占して目に焼きつけているものなら、尚更だろう?
「……えっと。で、話って何?」
 まるでトレンディ恋愛ドラマのトップアイドル演ずるヒロインに対する相手役にでもなったかのような甘くて危険な錯覚に陥りかけていることに気がついた俺は、頭をふるふると軽く振って持つべきでは決してない煩悩を追い出してから、未だ何も言わぬヒロイン……失礼、ミキにそう尋ねた。ぼうっと焦点の定まっていなさそうな目で俺を見ていたミキは、そんな俺の声にはっと我に返ったようで、「えーっと、うーん」と台詞ともいえない言葉を零しながらしばらく落ちつかないようにする。やっとのことでおずおずと俺を正面から見ると、その目は軽く潤んでいて、何というか、うん、いいね。
「えっと……そ、そうだ。これっ」
 やっとそれらしい台詞が出てきた、それと共にばっと目の前に何かを差し出された。見慣れた柄のビニール袋に包装されているそれは、何かと思えばメロンパンである。購買で売っているいつも変わらない学生の味だ。確か前、ミキが好きだと言っていた、どこにでも売っているごくごく普通の菓子パン。
 で。
「……メロンパンが何?」
「あ、だから。うーん。……一緒に食わない?」
 ……いいんですか、大好きなメロンパンわけ合う相手が俺で。
 ということで、俺は体育館の壁を背にミキと二人、黙々とメロンパンを食べることになった。ミキがちぎってくれたものを口に運んでいく訳だが、どうだろう、バレー部でも人気の渦の中心にいる美人さんがもぐもぐと小動物のような動きで食しているのを見ながらのメロンパンというのも乙なものだ。最初は手渡されるパンを口に詰めることに集中していた俺だが、その内ミキに差し出されたのを受け取るのも忘れ、その愛らしいの一言に尽きる姿に見入ってしまっていた。間違って恋愛小説を読んで感動してしまった時に抱くのと似ている、このふわふわというかゆらゆらした優しい気持ちは一体何に起因するものなんだろう?
「……ユキ?」
 その度に、ミキにふと目を覗き込まれて我に返る。色んなものが宇宙の彼方にぶっ飛んでしまいそうになっていることを自覚した俺は、それからやっぱりメロンパンを胃袋に詰めることに集中することにした。
 が。
 その集中もものの一分も経たない内に途切れることになる。
 いや、途切れさせられることになる。
「……て」
「ん?」
 今までメロンパンでふさがっていたミキの口が何か言葉を紡いだ気がして、俺は受け取ったばかりのパンを口に詰めながら聞き返した。思えばこれが大失敗だったのだ。何の予想もせず軽い気持ちで聞き返したばかりに、俺はミキの次の台詞に予期せぬ衝撃を受けることになってしまった。
「……付き合ってくれないかな」
「ど、どぅぇあ?」
 ミキからおずおずといった感じで告げられた一言があまりのもので、全く意味のわからない声を上げてしまった。くわえていたメロンパンが落ちそうになり、慌てて手で受ける。そんな俺の間抜け極まりない行動にもくすりとも笑わないところを見ると、どうやらミキは真剣らしい。
 って、おいおい。
 何を考えているんだ俺は。もしやミキの言葉を本来あっちゃいけない意味で取ったんじゃあるまいな。いやぁ、そんなことある訳ないだろう! 多分これは「ちょっとそこのコンビニまで〜」とかいう意味なんだ、そう、恐らく、きっと、maybe。そうだ、適当に返事をする前に、まずは言葉の真意を確認してみるべきじゃないだろうか? そうだぜ俺!
「えっと……どういう意味?」
 本来あっちゃいけない意味でないことを望みながら尋ねてみた。
「だからっ……その。俺と、付き合って欲しいんだけど。つまり……こ、交際」
 ……玉砕!
 俺の望み玉砕!
 脳内で「違う意味」とご丁寧に印字された戦艦大和が猛烈な爆撃を受けて沈んでいくイメージが再生された。その上空を「無条件降伏せよ!」との旗を従えたプロペラ戦闘機が悠々と飛んでいく。何てこった。
「……ミキと?」
「俺と」
「……俺が?」
「……ユキが」
「付き合うのか?」
「……」
 沈黙……。
 ちょ、マジかよ。つーか待て。
「俺達……男同士だよな?」
 そこ、意外と重要なんじゃないか? そりゃあ、ミキはそこらの女子並みかそれ以上にキュートな容姿と性格を所持しているお方ではあるが。
「でも、ここ男子校だし」
 そこ、ポイントなんですか? 場所の問題じゃないと思うけれど。
「それに、よくあること……だし」
 これ、よくあることなのか? ……よくあることなのかっ!?
「あと、俺、うーん……そんなこととは関係なくて、えっと、ユキが付き合ってくれないとぶっちゃけ困るっていうか……」
 我が艦隊全滅せり……!
 必死で打った望みの電報すら撃ち落されたっ!
「駄目……かな……?」
 あああ、そこでそんな風に上目遣いになるのは反則だ!
 俺的ルール違反!
 戦線協定違反!
「駄目……っていうか……」
 心臓がありえないくらいにばくばく言っている。落ちつけ、いつも冷静で無表情、取り乱すことが決してないのが俺の数少ない個性だろ、落ちつけ。俺はミキに正面から見つめられたまま胸の辺りに手を当て、深呼吸を三回ほどして心の中でそう呟いた。
 と、そこで気がつく。
 俺――何を取り乱しているんだ?
 どうしてこんなにも心臓が大きく鼓動している?
「――」
 改めてミキを見てみた。相変わらずその瞳は遠慮がちに俺を見つめている。そこに浮かべられているのは真剣且つどことなく懸命な、ここで拾ってもらえなかったら飢え死にするしかないと悟っている子犬のような表情。はっきりと目が合うと、気恥ずかしいのか気まずいのかその両方か、そろそろと視線を逸らした。
 四月――メグに連れられマネージャー候補としてミキが体育館にやってきた時、愛くるしい外見と無邪気なその笑顔に、骨抜きにされかけたことを思い出す。
 付き合ってくれないかな……
 ミキの声が、頭の中でぐるぐると巡った。罰金モノの上目遣いが、目を閉じても脳裏を離れない。閃光手榴弾を喰らったらこんな感じだろうという、衝撃だった。
「……いいよ」
 気がついたら勝手に口がそう動いていた。自分でも意識しない内だった。
「……っ本当に?」
 自分で言い出しておきながらまさかイエスの返事が返ってくるとは思っていなかったのか、それでなくても大きな目をより一層大きくさせてミキが聞いてくる。くそ、何て可愛いんだ。そうして可愛いと思ってしまう時点で、もう俺は完璧に負けなんだろう。
「わ……わっ、さんきゅーっ! ありがとっ!」
 それは心に、やたらと心地よい敗北だった。とどめと言わんばかりにミキは俺に笑顔の爆弾を投下する。太陽かひまわりという比喩がここまでしっくりくるのも珍しいその笑顔に、初めて微笑みかけられた時のことを思い出しながら――
 俺は思わず頭の横に両手を挙げて、降参のポーズを取ったのだった。

 つまり。
 どこの仲良しカップルだ、なんてムツとメグを笑うことができない立場に、俺はものの数分でなることになってしまったのさ。
 ついでにミキは――俺が正式に交際する、初めての相手になってしまった。


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