昔話をしよう。
 人生において運命的な分岐と呼ぶべき瞬間というのは、生きていれば必ず一度は存在する――というのは、これまで人生十七年間を生きてきた俺の持論の一つである。
 持論なんて格好つけたことを言ったって所詮は高校三年生になったばかりのガキが言うことだし、結局は戯れ程度にも笑えない他愛もない俺の戯言で間違いない。の一つ、などと言ったところでも、じゃあ他にどんな持論があるかっていえばそれは「君子危きに近寄らず」だとか「人の記憶ほどアテにならないものはない」だとか「人間のすることには大抵意味なんかない」だとかその程度のものだったりするので、その部分もやはりまた、他愛もない戯言な訳だ。
 だからもし、そんなむやみに難しいことを言って頭よさげに振る舞っているニセ哲学者的な俺の物言いがお気に召さなかったら、即刻このページを閉じていただいた方が賢明だろう。ああ、そもそも俺がこんな話を書かなきゃいいって考え方もあるな……。
 バット・けれども・しかし、その持論の前提なしに、これから俺が綴ろうとしている昔話は語れない。だから遠慮なく、前提たる持論をここに展開することとしよう。
「人生において運命的な分岐と呼ぶべき瞬間というのは、生きていれば必ず一度はある」――何をどうあがいても回避することができず、圧倒的に絶対的に必然的に決定付けられていて、逃れられもせず、変えられもせず、そしてその時自分の人生というものがはっきり決定的にされてしまう、そんな運命的な出来事。
 例えば。
 例えば、妖精の定め通りに百年の眠りにつく王女のように。
 例えば、妖精の定め通りに百年の眠りを覚ます王子のように。
 現と夢の間を彷徨うかの如く、あやふやで曖昧でありながらも。
 現から堕ちるように。
 夢から覚めるように。
 百年間の長い時を超えて、ドラマティックな出会いを繰り広げる二人のように、運命的な出来事。
 ちなみに俺にとってその「運命的な分岐」と呼ぶべき瞬間といえば、多分既に三回くらいは訪れてしまっていると思う。一つ、とある中高一貫私立男子校に入学し、そこである仲間達と出会い、部活でチームメイトになったこと。二つ、その男子校を一年半で中退、転校したこと。そして三つ――
 さぁ、その三つ目が、これから俺が綴る物語だ。
 時は四年半前、俺が中学一年生のほんの少年だった頃。
 主人公は、容姿端麗だが性格に若干難のある王子様。
 ヒロインは、何の取り柄もない熱しやすく冷めやすいだけのお姫様。
 俺にとって運命的な分岐でありながら、眠りの森に閉ざされたままいっそ永久に忘れ去りたい昔話。
 それはきっと俺以外の誰かにとっては些細なことで、その些細なことが俺にとっての大事件で――運命的な分岐で。
 そして何より、極々ありふれた、他愛もない日常の一コマ。

 話はまず、王子様が舞台の真ん中で悲愴な顔をして叫んでいるシーンから始まる。





スリーピングビューティ


『ヨリンデを――僕の愛しいヨリンデを、返してくださいッ!』
 学校の印刷機をフル稼働し安い藁半紙にがんがんと刷って作ったのだろう、安っぽいホチキス止めの冊子を片手に、スポットライトを浴びてイケメン面が叫ぶ。
 悲愴な表情だ。貴方の政権は明日をもって崩壊するのだと言われた某国プレジデントみたいに危機感に満ちた悲愴な表情である。絶叫に近い声を上げているそのイケメン面を見て、けれどどうにも胡散臭いと思ってしまう俺は、はてさてドラマを解する心というのが欠落しているのかな。
『まさか。お前はあの娘に二度と会うことはできないよ』
 冷たい声で言い捨てる相手役は、やはり同じように藁半紙の冊子を手にしてイケメン面に対峙する。掴みかかろうとするイケメン面に丸めた冊子を突き出して――そしてイケメン面が、後ろに向かって吹っ飛んだ。
『かっ――かはぁっ……』
 無様に床に転がったイケメン面は苦しそうな息を漏らしつつ立ち上がろうとするが、既に相方たる鋭い眼光を持つ男――男――は、彼に背を向け、俺の視界から姿を消すのだった。
『ま、待てッ……待って……』
 イケメン面が必死に、髪の長い男へ手を伸ばしたところで、世界が暗転した。
 そしてすぐに、光が戻る。
「……リオリオー、やっぱ俺、このホン無理だわ」
 さっきまで苦しそうな表情で床に突っ伏していたイケメン面、その名も野瀬睦、通称・ムツ――は、別段苦しくも何ともなさそうな顔をして光の中立ち上がると、無駄に整った顔立ちを不愉快そうに笑わせた。すると、相手役だった鋭い眼光の男が引っ込んだばかりの袖幕からひょっこりと出てきて答える。
「無理って、あっくん?」
「何つーか、やっぱこういう演技は俺のキャラじゃねぇ。女々しく『返して!』とか泣くばっかりじゃなくって、もっと、こう、何つーの? 格好よく剣でも振りかざして立ち向かうかっちょいい役じゃなきゃやる気しないというか?」
「えー、そんなに駄目か? この脚本」
「駄目じゃないけど、俺には少なくとも無理ゲー」
「何だよー。あーあ、愛しい彼女ちゃんを失って泣き叫ぶあっくんが見たかったのになぁ」
 ……さっきまで目の前、学校の一角にある視聴覚室なる薄暗い教室に組まれた簡易舞台の上で繰り広げられていたドラマに、俺がどうにも感動できなかったのは、舞台上に立って演技をしていたのがこいつ等だったからというのが唯一にして最大の理由な気がする。
 野瀬睦。
 見た目はいいが、性格は問題だらけ。クラスメイトであり、俺が所属しているのと同じバレー部の所属であり、ついでに練習チームのチームメイトであり、エースアタッカーである俺に対してセッターと(不本意ながら)唯一無二的相方でもあり、この中高一貫私立男子校に入学して以来もう半年もの付き合いになる友人だが、友人と呼ぶのが厭わしいくらい、そりゃあもう最悪な人柄をしている訳だ、このイケメン面は。
 馬鹿、ポジティブハイテンション、トラブルメーカー、お調子者、熱血野郎、周囲を平気で巻き込む暴走癖の所有者。
 そんなこいつにいつも振り回されていること請け合いの俺からすれば、こいつが「ヨリンデを返して!」と魔女――そう、魔女役である鋭い眼光の男に対して泣き叫んでいるところを見たって、無駄だやめとけつーか鬱陶しい叫び声を上げるんじゃない人間雑音発生器がこんにゃろう、程度の感想しか抱かないのも仕方がない話なのだ。
 ムツの演技が特別下手くそとかいう訳じゃない。これは受け手たる俺のメンタルの問題だ。
「確かにそれは、ムツのキャラじゃないかもねぇ」
 俺の隣で、同じく簡易舞台上の演技を見守っていたもう一人の観客が、くすくすと笑いながらムツに言う。
「おっ、やっぱお前もそう思うだろ、メグ?」
「うん。何ていうか、ムツだったら『返して!』とか泣き喚くよりも先に身体が動いちゃって、魔女なんか馬鹿力でぶっとばしそうだよ。動けない魔法をかけられてても、謎のポテンシャルパワーを発揮して平気で突破しそう」
 眼鏡とポニーテールが似合うエセ優等生面の長身、俺とムツと同じくバレー部・Cチームに所属する浜野恵、通称・メグは、にこにこと如才のない笑みを浮かべながらムツに応対する。お前はいいよな、いつも気楽で。俺としては、そんな謎のポテンシャルパワーを持っていそうなムツを調子に乗せるようなことを言うのなんか怖くて仕方ないんだが。
「おーう、メグと意見の一致を見たぜ! うん、俺もそう思うよ。愛しいハニーちゃんを奪われたとなったら、例え火の中水の中、金縛りの魔法をかけられていようとも! 突破して敵をぶん殴るのが俺のポリシーだからな。あ、そのハニーちゃんが俺よりも背が高くて美人で巨乳のおねいさんなら尚更?」
 意味のわからん設定をヒロインに付け加えるな、ムツ。
「ムツがヒロインの俺をどうしたらそこまで美化できんのかわかんないけど、この劇は何かヤダってのは、俺もおんなじ意見だよっ」
 そこへ舞台袖から、口を尖らせてもう一人のチームメイトが登場する。
「だって俺、ほとんど台詞ないよ? ムツと理音ばっかり目立っちゃってさ、つまんないっ。何のためのヒロインな訳? つーか、俺もかっちょいいヒーローやりたいしっ」
「ミキ……その顔で、そのロリィな顔立ちでヒーローは無理だぜ……」
「何その恍惚とした表情!? 何、俺が男の設定は全部無視!?」
 服部実紀。
 通称・ミキ――「さねのり」という名前が「みき」とも読めるからという理由でつけられたニックネームを持つ彼だが、ここが男子校だってことを思わず忘れちまうくらい、滅茶苦茶に可憐な外見をしている同級生である。ハーフアップにされた栗色の長い髪、宝石みたいにきらきら輝く大きな瞳、少女としか思えない可愛らしい顔立ちと小柄な矮躯。さっきまでヒロイン、ムツの婚約者役をやらされていたのも納得がいこうものだ。
 ムツがロリィと表現したのもあながち間違いじゃないんである。犬に例えるなら目がうるうるのチワワでしかありえない子犬系男子、それがミキだ。うっかり抱き締めたくなるような壮絶なキュートさっていうのを彼は持っている。
 ……ちなみに、ミキがチワワというならメグはお利巧そうなコリーで、ムツはやんちゃな柴犬がイメージだな。
「んーなら、ユキはずばりミニチュアダックスフントだな」
 舞台の前に引っ張り出してきた椅子に足を組んで座っている俺に、ムツはにやにやと笑いながら言ってくる。俺の大嫌いなこいつの表情の内の一つだ。
「……何でミニチュアダックスなんだよ」
「ちっちゃくて、胴が長くて、足が短い」
「てめぇ……」
 殺す。
 絶対に殺す。
 藁人形で呪い殺してやる。
「あ、ダックスフントの理由、もう一個あるぜ? 聞きたい?」
「聞きたくねぇ」
「ふーん。でも俺は、姉ちゃんに『人の嫌がることは進んでしなさい』って言われてるから言うな、ユキちゃん?」
「それは多分そういう意味じゃないぞ……」
「はい、お前がミニチュアダックスフントである理由ー。ずばり、ちっちゃくて、胴が長くて、足が短くて、何より、可愛い」
「……」
「ユキ嬢ちゃん、かーわーいーいー☆」
 ……。
 呪いだなんて遠回りな手段は使わねぇ。
 調理室の包丁持ってきて心臓抉り取って殺す!
「まぁまぁユキ、そんな怖い顔するのはやめようよ! ムツも、あんまりユキのことをからかわない」
 ムツと俺のくだらないやり取りを仲裁するのは、いつもメグの役目だ。苦労させてばかりでちょっと申し訳ない。
「ひとまずここで終わりにして、脚本の再選択ついでに休憩時間にしたら?」
「そうだな。ふぃー、やっぱ久々だと舞台に立つのも疲れんぜ。……休憩でいいだろ、リオリオ?」
「うーん……しょうがないなぁ?」
 そして、いつものメンバーたるCチーム面子に加わっている――鋭い眼光を持つ男が一人。
「まぁ、他でもないあっくんの願いだし? いいけど?」
 ここ・視聴覚室を居城とする演劇部で、中等部一年の学年代表を務める――成瀬理音。
 ムツがバレー部に来る前は演劇部によく顔を出していて、ある程度入部するつもりでいたというのは俺達の間じゃ結構有名な話なのだが、理音とムツとはその時に知り合った仲なのだそうだ。結局ムツがバレー部に入部してしまったため部活はわかれることになった二人だが、その後も何だかんだで仲がよく、こうしてつるんでるって訳。ムツは基本変人なので、話の合う友人がお世辞にも多い方じゃないが、そんなムツと口を利く……どころか「あっくん」「リオリオ」などと馴れ馴れしく呼び合い対等に渡り合ってみせる、数少ない人種の人間である。
 鋭い眼光を放つ目を愉快そうに細めて、理音は笑う。
 目つきが鋭くいかにも人相の悪い顔に中途半端に伸ばして後ろでくくった髪型、という理音は、見た目こそ少しおっかないが、話してみれば相当気さくな奴で、そうして豪快に笑うところは名前の由来である百獣の王・ライオンを俺に思い出させる。ライオンのつづりが「lion」だから、「りおん」って訳。育てたように子は育つ、というけれど、こいつに限っちゃ名づけたように子は育つってところだろう。
「んーじゃ、俺様には激甘いリオリオのありがたぁい休憩許可を受けまして、自販行ってきまっす。ミキも来るか?」
「うんっ、行く行く」
 今まで舞台上で演技を続けていたムツとミキは、連れ立って薄暗い視聴覚室を出て行った。防音性の重いドアが閉まったところで、簡易舞台から降りてきた理音が俺とメグの並びに出されていた椅子に身を投げ出すように座り込んでくる。
「あー、本当、あっくんはいいねぇ。素晴らしいねぇ最高だねぇ天才だねぇ」
 そして足を組み腕を組んで、うっとりとした表情でそんなことを言うのだった。
「マジでうちの部員じゃないことが悔まれるよ。どうしてバレー部なんかに入っちゃったかなぁ? ……あ、もちろんバレー部が悪いとかいう意味じゃないぜ。そうじゃなくて、演劇部に入れって本気で引き止めとけばよかったなってこと」
「……アレのどこがいいんだよ」
 気のいい奴である理音のことは俺も嫌いじゃなく、クラスメイトでもあるしむしろ仲のいい友人に数えられるが、それでも一つだけ全く理解できないのがこれだ。
「あんな奴のどこがいいんだ? あんなの、面倒くさいし最低だし馬鹿だし、いいところないだろ」
「ちちち。ユキぴーはわかってないなぁ」
 理音は顔の前で指を振って言う。
 ユキぴーというのは、理音が俺につけた適当な呼び名だ。ムツがあっくんで(本名が「むつみ」と書いて「あつし」だからだ)、メグがメグみん、ミキがミキてぃ。こいつのネーミングセンスもまた、俺にとって理解し難いものの一つである。
「じゃあ、そんなユキぴーのために俺が、あっくんが素晴らしい理由を教えて進ぜよう」
「別に聞きたくないけど……」
「そのいちー。声がいい!」
 俺の返答は無視して、理音は指を一本立てて言った。
「あっくんは本当に、いい声してるよねぇ。視聴覚室どころか体育館全体にも届かせることができる、よく響くいい声だよ。……もちろん発声がちゃんとしてるっていうのもあるけど、一方でどんなに発声を頑張ってもヘボい声の奴っているしね。発声法だけじゃない、元の声質がよく響くようになってるのさ。天賦の才能だね。ワオ! 素晴らしいぃぃぃ」
 俺からすれば耳が痛くなるだけのうるさい雑音でしかないのだが。
「そのにー、元気がある! ……あっくんの一番いいところは何せ、あの元気なところさぁ。舞台の上に立って、誰よりも視線を集められるあの迫力! 演技力! インパクト! あれもまた、磨こうと思って磨けるもんじゃないからな。カリスマ性だね、か・り・す・ま。あっくんの暴走も無茶振りも、全部最高だと思うよ、俺は」
 それはあいつの暴走に振り回されることが少ない身分だからこそ言える台詞だな。
「そしてそのさんっ! 何より見た目がいい!」
 ……最終的に外見かよ。
「何言ってんのさ、ユキぴー? 人間が外界から得る情報の七割は視覚からなんだよ? その七割が完璧だったら、他の三割がどんなに酷くても誰だって目を瞑るさぁ。整った顔立ち、モデルみたいな体型! あの顔は化粧栄えするし、あの体型は動作の一つ一つが際立って見えるからね。舞台の上で照明を浴びているあっくんはマジで無敵だよ。ため息出ちゃうよ」
 勢いよく言うだけ言って、理音は椅子に座ったまま恍惚とした表情を浮かべる。嗚呼、あっくん最高。そう言って吐息をつく理音は、はっきり言って頭がどうかしているようにしか見えない。何か危ない薬物でもやっているんじゃあるまいな?
「そんなあっくんの、今日は悲愴な顔して泣き叫ぶところが見られると思ったのになぁ……まさか脚本がお気に召さないと言い出すとはね。駄目だなぁ、役者が脚本を選んじゃ」
 舞台上で丸めて持っていたあの藁半紙製の冊子を広げて、理音は口を尖らせる。表紙に書かれている題名は「ヨリンデとヨリンゲル」で、理音が言うところによるとグリム童話の一つなんだそうだ。演劇部の日頃の練習用に、部の演出担当たる理音が書き下ろした脚本で、彼はぺらぺらとページをめくりつつアンニュイなため息をついた。
「だったらそうやってムツに言ってやったらどうだ? 役者が脚本にケチつけるなって」
「言わねぇよ。そんな風に我儘なのもあっくんのいいところだからね」
 いかん、脳を完全に野瀬睦に侵されていやがる。
 俺は軽く頭を抱えた。
「あっくんのことなら俺はオールオッケイだよ。あれほど素晴らしい役者は中学演劇にも高校演劇にも滅多にいないからね、ついつい甘やかしちゃうって訳。……マジで、俺はあっくんを演劇部に入れるためなら何でもする所存さぁ」
 その演劇部は今、高等部も中等部も体育館の大舞台へ練習に行ってしまっていて不在だ。
 というのも、夏の全国大会も終わって暇になったバレー部の俺達がムツによる鶴の一声で演劇部に顔を出していたその時期は、丁度中学校生活最初の学園祭を二週間後に控えていた頃で、むしろ理音が一人視聴覚室に残っていることの方が不自然なのである。
 それを言うと理音は、
「俺は演出担当なんだから、ある程度劇が仕上がっちゃったら後のことはいーんだよ。どうせ高等部の先輩達のが優先だし、もし中等部がやることになったら呼びに来てって同輩に頼んであるし。……そもそも、折角あっくんが遊びに来てくれるっていうのに視聴覚室にいないなんて失礼じゃあないか!」
 だ、そうだ。
「……そんなにムツが好きなら、俺と立場交換してくれよ」
「そりゃあ俺だって、ユキぴーと立場交換したいよ? 本気で羨ましいんだから。あっくんに振り回されて、気に入られて、弄られて、何より愛されて。……部活とチームが一緒っていうのもポイント高いし? それこそあっくんのこと、一日中見てられるってことだろ? あー、羨ましい羨ましい」
「だったら代わってくれって」
「無理だね」
 理音はそれでなくても鋭い目をすいっと細めて、不機嫌そうにそう言い放った。
「どうして」
「俺があっくんのこと選んでも、あっくんは俺を選んではくれないからだよ」
 充分選ばれているように見えるが?
「わかってないねぇ、ユキぴー。……お前はあっくんに唯一選ばれた名誉ある人間なのさ。他でもない、あの野瀬睦に選ばれた、ね」
 俺のことを睨むような目つきで見て、それから理音はスタッカート標準装備で言う。
「なぁ、メグみんだってそう思うでしょ?」
「うん? うんうん、そうだね。僕もそう思うよ」
 それまで「ヨリンデとヨリンゲル」の台本を読んでいて俺達の会話には不参加だったエセ優等生面は、藁半紙の冊子から顔を上げてにっこりと微笑みうなずいた。
「ムツに対するユキの代わりは、結局のところ誰にだってできないよ。僕も理音と同じ意見だな」
「不名誉だ」
「本当にユキぴーは、可愛くないよなぁ! あーあ、あっくんがどうしてお前を選んだんだか時々不思議になるよ。でもまぁ……本当は、どうしてかある程度予想はついてるけどね」
「……何でなんだ?」
 ムツが何故、俺一人にこだわり、振り回すのか。
 それは俺が最も知りたいこの世の真理の一つだ。
「ふーんだ。ユキぴーには教えてあげない」
「ならば代わりに俺様が答えてあげようじゃないか」
 そこへ、何ともタイミングが悪いことにムツがミキを引き連れて帰ってきてしまった。片手にスポーツドリンクのペットボトルを持ったムツは、重いドアを開けたところで仁王立ちし、俺の危機感を煽るだけのにたぁっ――という笑みを、その整った顔立ちに浮かべる。
「お前が――俺のことを、大嫌いだからさ」
 で、言ったのがそんなこと。
「……何で答えちゃうのさ、あっくん」
「その方が面白いからだよ、リオリオ。……俺ってば追いかけられることはそれなりあるけど、逃げられることは少ないからなぁ? 馬鹿だとか嫌いだとか面倒いとか最悪だとか、これでもかってほどに嫌われるってのは、なかなか新鮮な体験なんだよな」
「……」
「嫌よ嫌よも好きの内って? そこまで俺のこと嫌う奴、追いかけずにはいられねぇな。『人の嫌がることは進んでしなさい』とも言うし……ははは。追われれば逃げる、逃げるもんは追う! それが俺・野瀬睦の生き様よ」
 ……迷惑だ。
 もの凄く迷惑だ。
「ひゅーっ、あっくん格好いいー! シビれるぜ!」
 理音はといえば、椅子を傾けて楽しそうに野次を飛ばしている。メグはにこにこと如才なく笑ってるだけだし、ミキもムツの背後でげらげらと爆笑するばかりだ。
 ぱちぱちと拍手まで送られたムツは、ドアの前でターンし不可解なポーズを決めると、その姿勢のまま「ところで」と唐突に話を変えた。こいつが何の脈絡もなく話題変更するのはいつものことだ。
「理音ちゃんよ。そんな格好よくてシビれちゃう俺のために、何か別の脚本用意したりはしてくれねーの? ヨリンデだかヨリンゲルだか四輪駆動だか知らないけど、あの湿っぽい脚本はパスでさ、何か他にいいのやらせてくれよ」
 まだまだ演劇部で遊び足りないらしいムツは、言って甘えるような視線を理音に送った。面食い女子が刹那も置かずに飛びつきそうな極上のルックスを持つこいつが送るそんな視線を向けられたら、それこそ近所の女子校の子連中は黄色い声を上げて喜ぶんだろうが、俺が見ても寒々しいざらついた感情が胸の中に広がるだけだ。
「ふぅん? そんなに別の脚本をやりてぇの?」
 にやり、と微笑んで。
 視線の受け取り主は、ワイシャツのポケットに引っ掛けてあった眼鏡を顔にかけて、軽く指先で押し上げながら意地悪く言う。
「うん、やりてぇよ?」
 ムツが何ともなさそうな顔でうなずくと、理音はますますその笑みを深くした。
「そっかぁ。じゃあ、交換条件だな」
 言って立ち上がり、理音は視聴覚室の隅に放り出されていた自分の鞄へ歩み寄ると、そこから何かを取り出す。
 色画用紙の表紙がついた、それはやはりホチキス止めの簡素な冊子。
「あっくん。これは、俺・成瀬理音が今年度用意した、最高傑作たる脚本です」
「おっ! それをやらせてくれんの?」
「もちろんだよ。愛しいあっくんの願いとあらばね――ただし、条件があるんだなぁ、これがまた」
 身を乗り出したムツに、理音はそうして身を乗り出されることが幸せでたまらないというような顔をして――
 それから台詞を、こうしめた。

「これ、今年の学園祭で、演劇部の中等部一年生がやる、視聴覚室公演用の脚本なんだよねぇ――もし、部員に混じって学園祭の舞台でやってくれるっていうんなら、やらせてあげても、いいよ」


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