* * *

 それからのことを、実は俺はよく覚えていない。
 一体何であのタイミングで照明ミスが起こったのかわからないが、その後の劇は暗転してから何事もなくラストシーンへと展開し、拍手喝采の中で終演となった。それは後になってメグやミキ、それに理音から聞かされてようやくのこと理解したのだが、その間自分は一体何をしていたのか、そこだけはすっぽりと記憶から抜け落ちているのだ。理音が言うことによると、演技や台詞のミスは一切なかったらしい。「むしろ今までの練習以上で最高の演技だったよ、ユキぴー」とのこと……多分それは無意識の内の演技だったのだろう。手を抜かずにちゃんと練習してきてよかった、と初めて思えた瞬間だ。
 もしそこでズタボロな演技をしていた暁には、俺の恥は二割上塗りされていたことだろうからな。
 ……いや、二割でも一割でも上塗りされなくたって、この演劇部学園祭公演への飛び入り参加という記憶は俺にとって暗黒以外の何物でもなくなってしまったのだが。

「いやー、お疲れ様ー!」
 学園祭の一日目が終了し、すっかり片付いてしまった視聴覚室で、そうムツがオレンジジュースの入った紙コップを掲げ上げるのが視界の片隅に映る。
「んではぁ、演劇部中等一年生の視聴覚室公演の成功を祝い! この野瀬睦、恐れ多くもカンパイの音頭を取らせていただくぜぃ! ……カンパイっ!」
 カンパーイ、とそれに続く演劇部員やら、メグやらミキやら。
 俺はいつの間にやら手渡されていたオレンジジュース入りコップを無言で眺めている。
「イッキやりまーすっ!」
「よっ、ムツ! やれー! いけー、いけーっ!」
「あっくん格好いいー☆」
「いいけど、吹き出さないでね! あと、良い子のみんなは真似しなーい!」
 ムツ、ミキ、理音、メグ。
 楽しそうな四人の声が随分遠い。
「イッキ、イッキ、イッキ、イッキ、……イエーッ!」
「……っぷはぁっ! うっしゃー!」
 ムツが空にした紙コップを放り投げ、それが部屋の片隅で小さくなっていた俺の頭に命中した。
 ……痛い……。
「……。ところでユキ、平気なのかな? 劇が終わってからずっとあんな調子だけど……」
 メグの声がした。心配しているのを装っているが、本心はあんまり話題にしたくなさそうだ。
「うーん、まぁ、極々一般的な見方をすると、あんまり平気じゃなさそうだよなっ」
「やっぱりアレが相当ショックだったのかな、ユキぴーは? やだやだ、器が小さいねぇ。心底呆れちゃうよ」
「理音……もっと心配してあげてよ……」
 ミキと理音が参加したそのやりとりに、俺はますます沈んでいく。
 真っ白だ。
 真っ白に燃え尽きた某ボクシング漫画の主人公の気持ちが、今ならよくわかる。
「ったぁく……困ったなぁ、主役の一人たるあいつがあんな調子じゃ、俺も面白くねーじゃねぇか。おーい、ユキ!」
 ついにムツが声をかけてきた。返事しない。するもんか。してたまるか。するとそれを見越していたのか、ムツは理音達の元を離れて俺の座り込んでいる方へ歩いてくる。
「いつまでそうしてんだよー、お前がそうしてると空気までじめじめしてくるじゃねぇか。いい加減機嫌直せって。……そりゃあ、怒る気持ちはわからなくもねぇけどさ?」
「……絶対」
「お? 喋った。数時間ぶりだな」
「…………絶対わかってねぇ! 馬鹿、馬鹿、馬鹿! 死ね、馬鹿っ!」
 しゃがんで俺の顔を覗き込んできた忌々しいイケメン面を――俺は思い切り、平手打ちした。

「ムツなんかっ――大ッ嫌いっ! 死んじまえ、馬鹿っ!」

「……殴ったね。親父にも殴られたことないのに」
 ムツは俺に殴られた頬を痛そうに擦りながら言った。
 もう一回殴った。
「馬鹿! ……最低だ、お前ッ!」
「……二度もぶった。しかも、馬鹿って六回も言った」
「馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿……!」
「ななー、はちー、きゅー、じゅー、じゅういちー、じゅうにー、じゅうさーん」
「数えんな馬鹿!」
「じゅうよん」
 ……もう嫌だ。
 本当に嫌だ。
 今すぐカッターで手首切って死にたい。
 今日家に帰ったらすぐ、リストカットしかねない。
「だから、機嫌直せって。さっきのことなら謝るからさ――」
 ムツは言って、赤くわずかに腫れた頬をニヒルな笑みで吊り上げると、降参のポーズのように手を頭の横へ上げた。

「謝るから、あのキスのことは、不幸な事故なんだし、諦めろよ?」

「……諦め切れるかぁッ!」
 俺は叫んだ。
 視聴覚室にその声は響き渡り、その後部屋は沈黙の中に沈んだ。
 視聴覚室中の全員が俺とムツを振り返っていた。
 俺はムツの胸倉を掴んだ。
 涙が出てきた。
「アレはっ……アレはっ……!」
 ムツを睨んだ。
 俺は絶叫した。

「アレはっ……俺の、ファーストキスだったのにッ!!」

「……マジで?」
 ムツの笑みが引き攣った。
 芸術的だった。顔立ちが整っていると笑顔が凍りついても様になるのか、忌々しい、ああ忌々しい、忌々しい。
 もう一度殴りつけたくなったのを必死で堪えた。
「なぁ、マジで? ……アレ、ユキのファーストキスだったの?」
 視聴覚室は俺達を気まずーい雰囲気で見つめたまま硬直している。
 俺は掴んだムツを乱暴に揺さぶった。生まれて間もない赤子なら死んじまうんじゃないかってくらい激しく揺さぶった。いっそ殺したくてたまらなかった。
「うるせぇ! そうだって言ってるだろッ!?」
「……うわー」
 ムツは苦笑いを浮かべた。
 俺の肩をぽん、と叩いて尚、苦笑した。
「それはユキ、悪かった」
「謝って済むか!」
 脳天に空手チョップ。
「いてー!」
 痛みに悶え苦しんでいるだけで決して死には至らないのが残念すぎる。
 けれど、いつもならひょいと避けられて終わるところの攻撃が三連続で決まったので、多少は俺の心も慰められようものだった。
「許してくれよー……不慮の事故だし。それに、実際問題悪いの俺じゃなくて照明だし。照明がちゃんとあそこで暗転させていればこんなことには、」
「そんな言い訳通じるか馬鹿!」
「……じゅうご」
「黙れッ!」
「いや、だってまさか初めてだとは思わなかったんだよなぁ……まさかなぁ、キス未経験だとは……経験豊富とはいかないまでも、てっきりユキなら一回や二回はしたことあるもんだと……ファーストキス奪ってしまうとは……本気ですまん。本当、マジで」
「悪かったな、未経験で!」
「そんなこと言ってないだろ。むしろ俺は大ラッキーだぜ? ユキのあんな萌え萌えーきゅん☆ なリアクションが見られるなんてさ。……初々しくて可愛かった」
「褒めてねぇ。全然褒めてねぇ」
「それに美味しかった」
「気持ち悪い!」
「いやー、美味だった。じっくり味わえなかったのがいっそ残念だ。何ならもう一回……」
「絶対嫌!」
 俺達がくだらない口喧嘩(時に俺からの一方的な拳混じり。そして俺必死)を繰り広げていた時だった。
「……あっはははっ!」
 そう、軽やかな笑い声がムツの背後から聞こえてきた。口論をやめて声のした方を見ると、そこでは理音が、涙まで流して大爆笑している。
 何がそんなにおかしいんだ。発言を認めてやるから言ってみろ、この野郎。
「あはは……ひー。いやー、本当、あっくんもユキぴーも面白いねぇ。最高だ。こんな最高に楽しい気分は久しぶりだよ」
 ようやくのこと笑いを抑えて、そして理音が言ったのはそんなことだった。
「本当に、本当に、さぁ。二人は――あっくんとユキぴーは、仲がいいんだねぇ。羨ましいよ。問題になってる……というかあの問題のシーンも、実に完璧だった。アレは、お前等二人じゃなきゃできなかったって、俺は思うな」
 理音が言う「あの問題のシーン」というのが、他でもないあのシーンであることは、もはや間違いない。
 暗転せず、停滞してしまった劇をどうにか立て直すために――ムツは躊躇うことなく、俺の唇に、自分の唇を重ねた――
 あの時の客席のざわめきが、まだ耳の中には残っている。
「つーか……あそこで照明事故が起こったところで、普通ならマジでキスしたりなんかしねぇだろ? それをさぁ、本当に……どうしてあそこまでできるんだか。心底びっくりだよ」
 びっくりは俺の方だ。
 びっくり通り越して死にそうだ。
 やっぱり、ムツのことなんか信じるんじゃなかった!
 そんな俺の心の叫びは当然の如く無視して、急に真剣な顔になって理音は続けた。
「完敗だね」
 と。
 理音は大層愉快そうに豪快に笑いながら、ムツを見てそう言った。
「……リオリオ?」
「賭けは俺の負けだよ。参りました! ……演技ぶっ飛ばして、まさかマジであそこまでできるとはね……あっくんの実力を一番知っているつもりでいたけど、そんな俺でもあんなことができるとまでは思ってなかった。一本取られたってヤツさぁ」
「……」
「それに――あっくんだけじゃない、メグみんも、ミキてぃも、もちろん何より……ユキぴーもね。流石、あっくんが心の底から魅せられたことだけはある。みんな、度肝抜かれるくらいすげぇ迫真の演技だったよ。見くびっていた、いや、侮ってたね」
 理音が俺のことを見る。
 目が合った。

「いくらあっくんのことが好きでも――俺はあっくんとは、キスできないからな」

「……り……おん……」
「賭けは負けた。だからさ、ユキぴー――喜んで、あっくんを連れて帰りなよ? 野瀬睦は、お前達バレー部の仲間だよ」
「……マジで?」
 と、理音に聞き返したのは俺ではなく、俺の正面で理音を振り返って呆然としていたムツである。
「マジで? これで、演劇部に入らなかったことは不問? 俺様解放? 奴隷解放宣言?」
「そーゆーこと」
「…………やあぁぁぁったぁぁぁぁああっ!」
 ムツが天井に向かって拳を突き上げ雄叫びを上げているのを、俺は信じられない気持ちで見つめていた。
 何だって?
 ムツに――理音は、負けた、だと?
「……何てこった……」
 ムツにぞっこんベタ惚れしている理音なら、例えムツや俺達が本番でアカデミー賞ものの演技をしてみせたところで負けを認めたりはしないだろう、何かしらケチをつけて、ムツを手放したりはしないだろうと……そう、俺は考えていたのに。
 それはさっきまでの、俺の唯一の慰めだった。
 失うものは多かったが、むしろ人生上で最大クラスのものを失ったような気がするが、何にせよこれで顔立ちだけは整った悪魔に傍若無人に振り回されるのは最後だ、ムツは演劇部に連れて行かれてこれからは顔を合わせるのもクラスでだけになると――そう、何とか心を慰めていたというのに!
 それを!
 よりによって!
「おっしゃーっ! ……あ、でもリオリオ、これからも機会があったらまたあれこれ誘ってな? また遊びに来てもいいだろ?」
「もちろんさぁ。演劇部はいつだって、来る者拒まずだよぅ」
「さんきゅー。ま……しばらくは、バレー部一筋のつもりだけどな」
 ……夢なら覚めてくれ。
 誰でもいい、キスされるんでも何でもいいから、この悪夢を早く覚まして欲しい。
 そんな俺のささやかな願いも虚しく――
 見慣れたハンサムイケメン面が、振り返る。
「……嫌よ嫌よも好きの内、『人の嫌がることは進んでしなさい』とも言うし。こんなにも俺のこと嫌う奴、追いかけずにはいられねぇんだよ。追われれば逃げる、逃げるもんは追う、それが俺の生き様――とりあえず、もう一回、うちの可愛いお姫様から唇奪うまでは、俺は演劇部には戻らねぇよ」
 その顔に、うっそりとした笑みが浮かべられている。

「つー訳で――これからも末永くよろしくな? ユキ姫ちゃん」

 その翌日・学園祭の二日目で、この極悪非道悪逆無道な王子様によって更なる打撃を与えられた眠れる森のお姫様たる俺は、学園祭の代休が明けてから三日間ほどショックで寝込み学校を休むことになるのだが、それはまた別のお話だ。
 中高一貫、とある私立男子校のバレー部生活――という、ムツやメグやミキ、その他諸々に振り回されまくる俺の眠りが、平凡な日常の夢が覚めるのは――
 更に、丁度一年後の話。

 ……俺の意識に、静かに幕が下りる。


[スリーピングビューティ 了]
[読了感謝]

作中引用・参考資料:
「眠れる森の美女−完訳ペロー昔話集−」
(シャルル・ペロー・著、巌谷国士・訳、講談社・刊、1992年)
「グリム童話集」
(ヤーコプ&ヴィルヘルム・グリム・著、
ウィルヘルム菊江・訳、西村書店・刊、1987年)
(敬称略)

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