* * *

 第二幕から第三幕へは舞台の転換にしばらく時間がかかるため、客席がわずかに明るくされ、その間約三分間の休憩になる。ほとんど動く人のいない中で、客席から響いてくるのは「やっぱうちの学校の演劇部ってシュールで面白いよなー」という感想とそれに同意する声。……何だかな。
 舞台上から袖幕へと帰ってくると、ムツが衣装担当の演劇部員に囲まれ、最終チェックを受けていた。俺が帰ってきたのに気がついて、見ているだけで苛つくにやにやとした笑みを向けてくる。
「よっ、ユキ。なかなかの名演技だったぜ? ずぶずぶの素人にしてはな」
「……そりゃどうも」
 反論する余裕がないので、短くそうとだけ答える。するとムツは更にその笑みを深くした後で――急に真剣な表情になった。
「メグもミキも、それにお前も、本当にここまでよくやってくれたよ。俺はこの劇が終わったら、まず真っ先にお前達に礼を言うべきなんだろうな」
「……」
「だけど終演してからじゃ、んなこと言ってる余裕ないかも知れないから、今の内に言っとく。……ありがとな。あとは、俺が頑張るだけだ」
 第三幕でメインとなるムツは、言って衣装担当から差し出された剣を受け取り、間もなく休憩が明ける舞台へと進んでいく。
「……礼は言わなくていいから、これから先こういう面倒なことに巻き込むのはやめてくれ」
 何か言わねばならないような気がしてそう言うと、ムツは振り向かないままにおかしそうに笑い、ひらひらと手を振った。
「ははっ、考えとく」

 開演のベルが鳴った。
 第三幕は、第二幕から百年の時が経過し、あの城はいばらの中に閉ざされ、その一帯は代わってムツ演じるフィリップ王子の一族が支配されるようになっていた――という理音のナレーションから始まった。
 ぱっと舞台に光が灯り、袖幕から意気揚々とムツが登場する。
 たちまち客席は拍手に包まれ、それにはひゅーひゅーという冷やかしやら「よっ、日本一!」という囃し声やら、はたまた女子校の子達のきゃあきゃあという黄色い悲鳴やら……恐らくこの劇を観にやってきた人の多くは、午前中ムツが学校中を駆けずり回って宣伝していたのを聞きつけた人だろうな、と俺は何となくそう思った。
 だとすれば、もの凄い効果だ。
 けれど、多分ムツの宣伝効果で間違いない。ムツが登場したのとミキやメグや俺が登場した時とで、客席の盛り上がり具合は倍ほども違う。
『おい、あそこに鹿がいるぞ!』
 数多のお供を引き連れた王子様の衣装のムツがそう第一声を放つと、今度は客席が急に静かになった。
『捕らえて、父上に献上しよう。弓を』
『ですが……これ以上奥地に入られては危険です、フィリップ王子様。この向こうは幾重もいばらが連なっていて、入ったら最後、決して出ることはできません』
『いばら? それはあそこに見えている、あのいばらの森のことか?』
『さようでございます』
『しかし、あそこにはいくつもの塔が見えているぞ。人が住んでいるのではないのか? あれは一体何なんだ?』
 フィリップ王子の問いに、従者達は各々その城について知っていることを答えていく。一人の者があれは幽霊が出る古い城だといえば、もう一人が国中の魔法使いが集まり夜宴を開くところだといい、ほとんどの者は「あそこには人食い鬼が住んでいて、子供を攫って連れ込み、悠々と食べて暮らしている。この森を抜ける力はその鬼にしかないので、誰も追いかけていくことができないのだ」という意見だった。
 ムツは判然としない表情で彼等一人一人の話を聞いていく。すると最後に、一人の年老いた従者が「恐れながら、」と歩み出てきてこう言った。
『王子様、もう五十年以上も前にわたくしの父が言っているのを聞いたのですが――あのお城には、この世で一番美しい王女様がおられるそうです。妖精の定めで、あのいばらの中で百年の眠りに閉ざされることになっており、ある王様のご子息によって眠りから覚まされ、その方のものになると決まっているとか』
『何、それは本当なのか?』
『わたくしにははかりかねますが……』
 そう聞いて以降、狩猟にやってきたはずの王子様は上の空で、いつしか従者の群れを離れ、一人で森の中をうろうろするようになる始末。恋は人間を変えるとかいうヤツだ。
 そこへ現れたのが、メグ演ずるあの妖精である。
『貴方は?』
『私は、あのいばらの城に眠りの魔法をかけた者です』
 そうしてメグが流暢な長台詞で語ったことによれば――
 一に、あの城に住まうお姫様は、生まれた時に悪い妖精の贈り物により死ぬ運命だった。
 二に、それを自分が百年の間眠り続けることに変え、定め通りにお姫様は眠りにつかれた。
 三に、あの城ではその従者も小間使いも、またお姫様のご両親も一緒に眠ってしまっている。
『お姫様は、勇敢な一人の王子様の口付けによって目を覚まされます――』
 そうしてメグが台詞を言った時、背景に映し出されたのは、美しい女のシルエット。ちなみにこれは、プロジェクターを使って投影しているものだ。
『おおっ』
 影絵を見せられただけでどうしてそこまで感動できるのか、納得のいかないところは残るものの、とりあえずムツはそう声を零した。
 そんな訳で、この美しい物語を終えるのは自分に違いないと思い込んだちょっと頭のかわいそうな王子様は、恋心と名誉心にかられ、いばらに閉ざされた城を目指すこととなるのだ。

「ユキぴー、そろそろスタンバイだぜ」
 城を目指し森の中を歩き続ける演技をしているムツをぼんやりと舞台袖から眺めていると、不意にそう肩を叩かれた。唐突なことに俺が「うわっ」と声を上げると、肩を叩いた張本人である理音がけらけらと笑う。
「よっぽどマジになってあっくんの演技見てたんだなぁ? ねぇ、ユキぴー」
「……。違ぇよ」
「何、その微妙な間? ますます怪すぃー☆」
 付き合いきれん。
 俺は面倒くさいこと極まりないテンションではしゃぐ理音にひらりと手を翻す。理音はまだ何か言いたげだったが、それは無視して早々に舞台袖から出、――俺は中幕の中にセットされた城の内部へと足を踏み入れた。
 大道具渾身の作品である天蓋つきの大げさなベッドに腰掛け、音を立てぬようそっと身体を滑り込ませて、目を閉じる。
「……」
 中幕の向こう――客席側からは、ムツとムツの恋路を邪魔するべくついに現れた悪い妖精・ミキとの会話が聞こえてくる。このまま姫の眠りを覚ましに行くようなら邪魔をするのに手段は選ばないとミキが言い、臨むところだ、自分の恋路を阻むものは何者たりとも退けてみせるとムツが応答した。きっと今頃は、舞台上にミキが召喚した使い魔が袖幕から続々と現れ、恋と名誉に燃える王子を取り囲んでいる頃合だろう。
 ――私はお前達を倒す。
 ――恋による情熱の炎は、お前達如きでは敵わないことを思い知らせてやろう。
 ムツの堂々たる台詞が響き渡り、幾度となく練習で聴かされてきた戦闘シーンを盛り上げる曲を、音響が流し始めた。俺の瞼の裏側に、剣を振りかざしたムツが使い魔達に周囲をふさがれている情景が鮮明に浮かんだ。
 そろそろだ。
 この戦闘シーンが終わり、演劇部員演ずる使い魔とミキ演ずる悪い妖精を退ければ、いよいよ、オーロラ姫である俺の眠りを覚ますために――ムツがここへやってくる。
 ……。
 …………。
 おかしな気持ちになった。
 まるで、自分が本当に百年間の眠りの中に閉ざされていて、その眠りを覚ましてくれる王子様を待ち遠しく思っているような。
 いつか理音が、練習の合間に教えてくれた話が、記憶の海の中からゆらりと浮上する。
 ――ねぇ、ユキぴー。
 どうしてオーロラ姫は、フィリップが自分の眠りを目覚めさせてくれたと知って、狼狽することなく「待っていましたのよ」なんて応対できるんだと思う?
 実はね、彼女は、あのいい妖精によって、百年の眠りの間にずっと夢を見させられていたんだよ。
 ある日一人の勇敢な王子様が自分を眠りを覚ましにやって来て、甘ぁいキスをしてくれる夢を、何度も何度も見ていたんだよ。
 だから彼女は知ってたんだ。
 フィリップが自分のところへやって来るってね。
 彼が本当に自分の元へやって来た時に、自分は何と彼に声をかけるべきか、考えておく時間があったって訳さ。
 ……。
 …………。
 まるで、自分自身、ずっと夢を見ているような気分。
 これまでの劇の練習が、全て、今日のこの本番での、夢が覚めた後の現実に先立つ夢だったかのように――思えてならなくなってくる。
 ずっと夢を見ていたんじゃないかと。
 ムツが口付けをするシーンで俺に影を落としてくるのを、幾度となく体験してきた。
 あれは全て――これから目覚める俺が見ていた、夢だったんじゃないのか?
 ふわふわとして、落ち着かない。
 自分が自分でなくなっていく、感覚。
 役に入り込むにしろ、いくらなんでも入り込みすぎだろ。
 冷静になれ。
 言い聞かせても、胸の中に広がる甘い軋みはなくならない。
 駄目だ!
 冷静になれ!
 冷静になれ、冷静になれ、冷静になれっ!
 俺はオーロラ姫じゃない!
 そう何度も心の中で叫び声を上げて、夢のような現実から目を覚まそうとしても、一向に、俺の心は妙なざわつきに侵されて揺れ動く。
 音楽が終わる。
 ムツが、王子様が、使い魔を退け――ミキと、悪い妖精と、死闘を繰り広げる。
 もうすぐだ。
 もうすぐ、彼が、やって来る。
 俺の夢を覚ましに、やって来る。

 ――ムツが、愛おしい。

「……!」
 思わず目を開き、天蓋を睨みつけた。
 それでも、焼け付くように痛む胸だけは納まらない。
 おかしい。
 こんなの絶対に、どうかしている!
 その時だった。客席から割れんばかりの拍手が鳴り響き、その中に歓声が混じっているのが聞こえてきた。ついに王子が、あの悪い妖精を退けたのだ。
 中幕が開き、不意に世界が明るくなる。
 慌てて俺は目を閉じた。
 いよいよだ。
 いよいよ、あのシーンへと差し掛かる。
『……おお、』
 舞台奥を振り返ってだろう、ムツがそう声を零すのが聞こえた。
『これがかの眠りの森の姫か。――なんと美しい姫君であることか!』
 大げさでやっていられないはずのムツの台詞が、やたらと現実味を帯びて聞こえてくる。
『こんな美しい方は見たことがない……本当に、私の口付けで目覚めるのだろうか……もし、そうなら……』
 照明が、薄い青へと切り替わった。
 音響が、歯がゆいほど甘ったるいクラシック曲を奏で始める。
 クライマックスシーン。
「……。『私は、彼女の全てが欲しい』」
 若干の間。
 その後で、ムツがぽつりと呟く。
 どきりと、心臓が大きな音を立てた。
 そのままどくどくと、一定のリズムをフォルテで刻み続ける。
 やめろ、止まれ。このままだと、舞台上のムツどころか客席にまで聞こえてしまいそうだ。
「――」
 こつん、こつん、と。
 ムツの履いている靴のかかとが立てる音が、静まり返った視聴覚室にはよく響いた。
 俺の顔に、影が落とされたのを感じる。
 練習通り、リハーサル通りの流れのはずだ。
 今まで何度だって、このやりとりを繰り返してきた。
 なのに、どうして――
 どうしていつも、こんなにも、新鮮な気持ちがするのか。
 わからない。
 何一つ、わからない。
 息が苦しくなる。
 呼吸ができない。
 馬鹿、死んでしまうぞ。
「――――」
 俺の横たわっている脇に浅く腰掛けているのだろうムツの影が、濃さを増す。
 左の頬にふっと感じた、柔らかな手の温もり。
 まるで本当に女の顔でも撫でるような、もどかしい手つき。
 優しいその手つきに、息が詰まる。
 もう堪えられない。
 ――俺はついに、薄く目を開いた。

 熱を孕み優しく蕩けたムツの瞳が、目と鼻の先にあった――。

 見るんじゃなかった。
 やはり、目を開くべきではなかった。
 本当に愛しい者を見つめるような甘い表情に、頭がくらくらする。
 長めの前髪がはらりと落ちてきて、額をくすぐる。
 目がそっと閉じられる。
 熱を帯びた甘い瞳が、瞼の向こうに隠される。
「……っ」
 俺もまた、目を閉じた。
 もう、目の前に迫った突然変異的に整っている顔立ちを見つめ続けることは困難だった。
 信じるしかない。
 ムツのことを、信じるしかない。
 自分が信じられないのなら俺を信じてみろ――と言った時のムツの真剣な表情が、ふと思い出される。
 それに続いて、瞼の裏に、今までの放課後の練習や、ムツが幾度も殺陣の練習に挑んでいた様子や、メグの如才のない微笑や、ミキの意地悪な高笑いや、理音のにやついた猫のような笑みや、中庭で演技練習をしていた時のムツの甘ったるい表情とか、そんなものが走馬灯のように甦る。
 鼻を掠める、ミントの香り。
 さっきまでガムでも噛んでいたのか。
 唇に感じる、微かな息遣い。
 温もり。
 もどかしさ。
 ――そして、異常事態は起こった。

 暗転、しない。

 落ちるべきところで、照明が落ちない!
「……!」「……」
 俺は何事かと目を開ける。そのわずか数センチ先で、ムツの目も再び開かれた。
 その目には、さっきまでのような熱は一切浮かんでいない。
 どこまでも真剣な、ただひたすら必死の表情が浮かんでいて、俺はこの男もまた異常事態に気がついたことを知った。
 俺達はそのまま、客席からはわからないほどわずかに目を開いた状況で、ほんの数センチだけの間合いを保って制止する。
 俺は心の中で時間を測り始めた。
 一、二……五……十。十五。
 二十。
 照明はまだ落ちない。
 くそ、こんなところに来てトラブルか?
 二十五。
 三十。
 客席は騒がしくなり始めた。
「……ちっ」
 ムツが舌打ちするのが聞こえた。俺を見る。瞳に再び、あの溶かされそうな熱が舞い戻る。
 はっと息を呑んだ。
 目が合った。
 ムツのハンサムフェイスが、一気に近づいた。
 客席がおおっ――と微かにどよめいた。
「………………っ!」

 唇に感じた、甘く湿った熱。
 絡み付く柔らかな感覚。
 何が起こったのか、一瞬理解が遅れた。

 ――そして、世界が暗闇に閉ざされた。


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