昔話をしよう。
 初めて迎えた中学校生活における夏休みも後半に差しかかり、当時とある中高一貫私立男子校に通う若干十三歳だった可愛……かったかどうかはさておきガキんちょではあった俺は、夏休みの課題の解体作業に追われていた。それは小学生の頃から変わらない俺の夏休み後半の過ごし方であり、つまり俺は昔から片付けるべき宿題をぎりぎりまで大事に取っておくタイプだったのだが、それは高校生になった今も大して変わってはいない。そこは変わっておけ俺よ、と毎年夏休み最終日の真夜中十二時を過ぎると思うのだが、そんなことは一年経ったらすっかり忘却の彼方という訳だ。三つ子の魂百まで、である。人間ってやつぁーそう簡単には変われないといういい見本だと思っていただきたい。……本音を言えばそんな見本なりたくもないし、なるべきでもないんだけどな。わかってるんだよ、そんなこと。わかっちゃいるけどやめられないから、俺も困っているんだ。
 そんな訳で、今年の夏も例外でなく、俺は真夜中に悲鳴をあげるところとなるだろう。まぁ、今年はいよいよ高校三年生、悲鳴の理由はこれまでとは若干異なるかも知れないが……こんなくだらねぇもの書いてたって一応受験生なんだよ、馬鹿野郎。
 ……何の話をしていたんだっけ?
 そう、昔話。俺の夏休み後半の過ごし方の話。
 山積した未完成の課題を目前にし、「だって部活に遊びに読書に忙しかったんだモン」とかぶつくさ言い訳してみたところで宿題が全部綺麗さっぱり終わる訳もなく、仕方なくその忙しい合間を縫って片付けていたのだが、一人部屋に閉じこもっていても行き詰まるばかりである。頭を無心に掻き毟り「……んなぁぁぁぁぁッ!」と発狂したい衝動にかられ精神の限界を見た頃、携帯電話にかかってきた電話が当時の友人・野瀬睦からのヘルプミーコールだった。この時ばかりは即刻電話に出た。
「ユキ」
「ムツ」
「……助けてくれ」
「以下同文だ。メグとミキも呼ぼう」
「俺んちでいい?」
「オッケー」
 俺達の利害は一致した。通話時間はわずか十五秒だった。
 ……そんな訳で翌日、ムツの家において宿題大写し大会が開催されることが決定した。これで夏休みの最終日の真夜中に上げる悲鳴の音量は小さくて済む、とこの時俺は安堵を抱いていたのだが――
 実はそうして通話を切った時には、騒動の種は芽吹いていた、ということに俺が気がついたのは、翌日になってムツがとんでもないことを言い出してからだった。





イスペシャルサマー


 グラスの中の麦茶に浮かべられていた氷が溶けて、からんと涼しげな音を立てた。
 それとは対照的に額から滝のように汗を流して英語の課題プリントに向かっている燃える中学一年生・俺は、冷たそうな麦茶にちらと視線を向けた後、ついに耐えられなくなって手を伸ばす。ぐいっと中身をあおると、グラスの表面に結露した水が手首から腕を伝ってぽたぽたと膝に落ちた。……思っていたよりもぬるい。
「……暑いなー……」
 中身が三分の一ほどになったグラスをちゃぶ台のような平机の上に戻すと、正面で数学の問題集と戦っているムツ、本名・野瀬睦が俺を見ないままに呟いた。言うな、余計に暑くなるだろうが。お前は黙って答えを写してろ、イケメン面。
「だからって『寒いなー』とか言っても涼しくなったりはしない訳だろ? 沈黙が続いてるせいでより一層暑苦しさが増してるのを何とかしようと口を開いてやってんだから、少しは感謝して欲しいくらいだね」
「別にんなこと頼んでないだろ。……それに、確かにこの沈黙は暑苦しいけどな、お前が喋ったって非常に暑苦しいぞ」
「酷っ! ユキってナチュラルに毒吐くよな。お前実はドSだろ」
 大層愉快そうにからからと笑う、面食い女子が刹那もおかずに飛びつきそうな極上のハンサムフェイスはまるで今の時期の燃え盛る太陽のようだ。暑い暑いと言っておきながらも自分が常夏の輝きを放っていることに、このクラスメイト兼部活(バレー部)のチームメイトは気がついているのだろうか。俺は肩をすくめてこう答えながらそんなことを思う。
「実はも何も俺はSだ」
「ふぅん? 俺はてっきりMなんだとばっかり思ってたんだけどな。……ほぉら、眉間にしわ寄せて可愛い顔しちゃってさ。本当は俺にこーやって苛められるの好きだろ? なぁ、ユキ嬢ちゃん」
「……てめぇ」
 平机の向かいから睨みつけてやると、ムツは「おー怖っ」とちっとも怖がっていなさそうな口調で言って、降参するように手を上げた。こいつの飄々としたこういう態度がムカつく。俺がため息をつくと、水色のさくらんぼゴム(四つ年下の妹が似たのを持っていた)でくくり上げた前髪をゆらして、奴は一層楽しそうに笑うのだった。
「いやー、本当にユキは可愛いなー! 大変愉快な気分だぜ。……にしても、やっぱ暑いな」
「僕はもっと暑いけどね」
 これまで俺達の会話には不参加だったもう一人のチームメイトが、机の上のレポート用紙に向かってペンを動かしながら静かに口を挟む。
「今まで静かで集中できてて、暑さのことなんか忘れてたのにさ。ムツとユキが騒ぎ出すから……急に暑くなったように感じるよ、僕は」
「……メグ、実はすげー怒ってる?」
「まさか。そんな訳ないじゃないか」
 眼鏡とポニーテールがトレードマークの浜野恵、通称・メグは、エセ優等生面的面構えを人の好さそうな笑顔に歪めて言った。その額から幾筋もの汗が流れた跡がある。
「僕は夏休みの宿題ほとんど終わらせたのにどうしてムツの読書感想文の下書きをやらされているのかとか同じやらされるにしろ涼しいとか涼しいとか涼しいとかもうちょっといい環境でやらされたかったとかそうだようちならちゃんと冷房だって効いたのにとかそれにしてもお茶がぬるすぎるとかそんなことはちっとも思ってないよ。だからムツのせいで暑くなったとかそんなことで怒るなんてましてやありえないよ」
「メグ、その長台詞の中で句点が一個しかない……もうちょいゆっくり喋ってくれ」
 あー、ていうかこれは表面だけにこにこしておきながら、腹の底じゃすげー怒ってるな、メグ。
 日頃温厚なだけに怒ったら一番怖そうだと俺が密かに思っているのが実はメグだ。まぁでも、頭を下げられてしまったから仕方なくムツの読書感想文を代筆しているっていうのに、それを隣で暑苦しくぎゃいぎゃい騒がれたら、そりゃメグじゃなくたって怒るか。俺なら怒る。怒った上で刺し殺しているところだ。
 それにしたって、笑顔で猛毒を吐かれて気分のいい奴なんかいない。俺は小さくため息をついた。お前のせいだぞ、ムツ。
「……ごめん、メグ」
「謝らなくてもいいからちゃっちゃと数学を進める! このままじゃ宿題終わらないまま始業式だよ。それでもいいのかい? 始業式の日の朝、朝日に向かって悲鳴上げたいか? 全国的に始業式の日は僕の誕生日の九月一日だから、できればそういう耳障りなことはして欲しくないんだけどね」
「す……すんません……」
「わかればいいんだ、わかれば。……全くもう、折角手伝ってあげてるんだから、最低限自分がやる分はこなしてくれよな。僕も万能じゃないんだよ、わかる? 正直僕は、ムツの馬鹿さ加減を上手く表現しつつ、でも成績表に二以下がつかないようにすれすれのラインを狙って全部の宿題を代行できる自信はないよ」
「うー……何かさりげなく酷ぇこと言われたような気が……」
「ほら、しゃきっとする!」
「……しゃき」
 メグに声を荒げられ、ムツは力なくため息をついて再びペンを動かし始める。問題集に並べられた数式を恨めしそうに眺めながら――数学はムツが一番苦手としている教科だ――それでも不満げな顔をして文句を吐いた。
「でもさー……んなこと言ったら、ミキなんかもう三十分近く何もやってねぇじゃん。アレはいいのかよ」
 ムツがふんと鼻を鳴らして問題集から視線を逸らし、俺もそうしてムツが見やった方を振り返る。ここ・ムツの自室の実に三分の一は占めてるんじゃないかってくらいにでかいベッドの上に仰向けでひっくり返っているのは我等がCチームに属する最後の一人で、無防備な姿で寝ているとうっかり襲いたくなるほど少女めいた可憐な外見をなさっているが一応同性だ。
「あー……俺ぇ?」
 彼・服部実紀、通称・ミキは顔にかけていたフェイスタオルをひょいと取ると、街の男の十人に八人は振り返りそうな美貌を持つ顔を盛大に歪めて言った。あんまり他人には見せたくない表情だな。笑っていればそんじょそこらのアイドルより可愛い顔がうぞんとしている様子というのは、間違いなくある種の幻滅である。
「いーじゃん、俺さっき、ムツの社会のレポート資料、半分くらい纏めてやったんだぜっ? 少しくらい休ませてよ。暑くて暑くて死んじゃいそう」
「そうだよ、ムツ。それにミキは自分の課題を人に押し付けたりなんかしてないからね」
 メグに追い討ちをかけられ、ムツはもううんざりといったような顔をした。古今東西、余計なことは口にするもんじゃないな、なぁ、ムツよ。これで少し、いつも一言多いその多難な性格が是正されてくれればいいのだが。
「つーかさ、そもそもおかしくねぇ? 部屋にエアコンあって涼しいからってムツの家に集まることにしたのに、いざ当日冷房入れようとしたらぶっ壊れてたとか、絶対おかしいだろっ。これならメグの言う通り、例え定期圏外でも交通費払ってメグんちに集まった方が良かったよ。どういうトラブル体質してんのさ、ムツ」
「えー、それは……俺の人徳?」
 そんな人徳いらんわ。
 今すぐごみの集積場に置いてこい。できればお前の存在ごとな。
「本当、ムツはうちのチームのトラブルメーカーだよね。それがチームリーダーだっていうのによくチーム運営何とかなってるなって、僕は時々本気で感心したくなるよ」
 トラブルメーカーというか、こいつの存在自体が俺からすれば充分トラブルだけどな、メグ。
「……何なんだよもー。何、今日は俺が苛められるターンな訳?」
 俺からもメグからもミキからもやりたい放題叩かれて(俺達は暑さで気が立っているので容赦がない)、がしがしと頭を掻き毟って疲弊した様子で声を荒げるムツ。日頃俺達のことを傍若無人に振り回している罰だ、甘んじて受けるがいい。
 もはや何もかもが嫌になったのか、ついにムツはシャーペンを放り出して「あーッ!」と咆哮を上げた。机の上で俺達同じく汗をかいている麦茶のグラスを手に取ると、中身を一気に飲み干す。いい感じに日に焼けた喉を、一筋の汗が伝っていった。
「……ぬりぃ……何でこんなにぬるいのだ……」
「ムツの部屋のエアコンが壊れてるからだね。……っと、終わった」
 会話しながらも着々とペンを進めていたメグが、言ってその手を止める。書き上げた読書感想文に一度目を通して、麦茶のグラスを睨みつけていたムツに差し出した。
「はい、書き上がったよ、下書き。これに自分の表現を加えて原稿用紙に清書すればオッケーだと思う」
「おおぅ……メグサンキュー! すげー、これで国語は何とかなりそうだぜ!」
「丸写しは駄目だからね。ちゃんと自分で書き換えるんだよ、わかった?」
 元気を取り戻したムツに念を押してからやれやれというように首を振って、メグも麦茶のグラスに口をつける。それから眼鏡の向こうの表情が微かに険しくなった。ぬるくなっていたようだな。
「はー、宿題も何とか終わりが見えてきたな」
 受け取ったレポート用紙をひらひらさせながら、言ってムツがTシャツの袖口で汗を拭う。丁度俺も英語のプリントが一段落したので、ペンを置いて顔を上げた。
「どうにかこうにかな」
「ユキはあと、どれくらい残ってんだ?」
「この英語のプリントが終わったら、あと三つくらいじゃねぇか?」
「メグは?」
「基礎五科目系は全部終わったよ。技術系が二つくらい残ってるかな」
「ミキー」
「俺は理科の自由研究が全然。つーか、社会以外のレポート系はみんな手つかずだよっ」
「ふーん。俺は英語のプリント以外は終わってねぇな。国語と数学と社会以外はそもそも手もつけてねぇ」
 それでよく終わりが見えてきたとか言えたな、おい。
 ていうかそんなに残ってるなんて、今日まで何してたんだよ。
「で、さ。……技術の課題、やった?」
 技術の課題というのは、夏休み直前の授業になって初めて聞かされたあの課題のことか。そんなのあんまり急だった上に、出した教師の方も明らかにやる気がなさそうだったもんだからすっかり忘れていた。
「あの、パソコンでスライドショーかHTMLページか編集ビデオ――とにかくパソコンをフル活用した作品を提出するか、木工で何か作ってくるかっていう課題か。残り二つの内の一つがそれだね、僕は」
 メグが短くため息をついて言う。どうやら俺同じく、何を作成して提出するか迷った末手をつけていなかったようだ。
「ふぅん。……ミキは?」
「俺も全然。むしろ二学期の評価赤点になるの覚悟で出さないつもりでいたよ、俺はっ」
 マネージャーとして日頃チームの練習を支えてくれているのと同一人物とは思えないほど、随分といい加減な態度のミキだった。それでいいのか?
「ユキはどうだよ。やったか? やってないよな、お前は」
 問いかけでなく確認なのが気に食わないが、悔しいことにやっていないのは事実なので、一応うなずく。
 するとムツは、「そっか、じゃあお前等は全員やってないんだな」と一人でうんうんうなずいて言い、もっともらしく腕を組んだ。
 頭の上で揺れる水色さくらんぼ。何だ、その無駄にエラソーな態度は。
「……ムツは?」
「うん?」
「だから、お前だよ。技術の課題、やってないんだろ。何をやるつもりなんだ?」
「俺? 俺は――」
 断言しよう。俺はこの時、「聞いて自分の課題の参考にしよう」とか何とかそういう理由があろうとなかろうと、こいつにこんなことを尋ねるべきではなかったのだ。このたった一つの問いかけで、俺は地雷を踏んじまった上に急な坂道を猛烈な勢いで転げ出してしまったんである。あの時の俺は、きっとあまりの暑さに頭が馬鹿になってしまっていたのだろう。あるよね、そういうこと。
 しかしながら――嗚呼、何て間抜けな。
 ムツは腕を組んだまま、やけに真剣な顔でこう言ったのだった。

「俺は、プロモーションビデオでも撮ろうと思ってな」


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