* * *

「っやべぇっ」
 飛び起きた。
 いつの間にやら夜は明けて、窓から燦々と朝日が降り注いでいる。その眩しさに一瞬目が眩んだものの、そうして目が眩むほどの眩しさを感じたということはそれ相応の時刻だということであり……
「……いつの間に寝てたんだ、俺!」
 メグを手伝ってPVの編集作業を始め、時計が三時過ぎを差していたところまでは覚えているのだが、残念ながらそれから今に至るまでの三時間弱の記憶がごっそり抜け落ちている。ということはつまり、俺が無意識の内にビデオ編集できる特殊スキルを突発的に獲得したんじゃない限りは、途中寝オチしたということだ。何てこった。
 部屋の真ん中に出されたちゃぶ台に突っ伏すようにして眠っていた俺は、慌ててジーンズのポケットから携帯電話を取り出し時刻を確認する。朝六時過ぎ。日付は九月一日でメグの誕生日――そして、関東地方は基本的に始業式を迎える日だ。
 今日から新学期である。
 ここ数年は前期・後期の二期制に切り替わった学校も多いと聞くが、俺の通う中高一貫私立男子校は三期制の旧体制なので、今日から二学期だ。二学期が始まるということは、夏休みは終わったということであり、夏休みが終わったってことは、ええっと、ええと……
「……技術の課題……!」
 夏休みの宿題、そのほとんど全ての提出日である、という考えに至るまで数十秒かかった。寝起きなので頭の回転が悪い。が、そこへ思考のサーキットが繋がった瞬間眠気が吹っ飛んだ。
「め、メグ……!」
 PV制作の編集作業の要である男がいるはずの辺りを振り返ると、そこは無人だった。メグは本来いるべきパソコンの前を離れ、ドア近くの壁にもたれて座ったまま眠っていた。眼鏡が外されているところを見ると、どうやら自分で作業を断念しあの場所へ移動して眠りについたらしい。
 俺は自分の顔から見る見る血の気が引いていくのを感じた。
 ひょっとして、いや、まさかだろ?
 まさか……。
「まさか……編集終わってないとか……」
 髪に変な寝癖がついてしまっているのもそのままに、シャットダウンしていたノートパソコンを恐る恐る立ち上げる。見慣れたマイクロソフトの超有名OSが起動するが早いか、俺はマイドキュメントの専用フォルダに保存してあった編集途中と思われるビデオデータをダブルクリックした。
 終わっていないとしたらどのくらいだろうか? 登校しなきゃならない時刻までのあと一時間弱で何とかなる程度だといいのだが……それにしたって、途中で終わらせるなら俺を叩き起こしてからにしてくれよ、メグ。そうすりゃ交代で作業しておいたのに。
 このPV制作期間中聴き慣れた「車輪の唄」のイントロが軽やかに流れ始め、映像がスタートする。
「んんっ……んむ……?」
 音が少し大きかったからか、俺の背後の床でクッションに涎を垂らして眠っていたムツがのそのそと身じろぎする。びっくりした俺は反射的に停止ボタンを押したが、既に時遅し、ムツはキャベツを食いすぎて太り動きが鈍くなった芋虫のような動きで身体を起こすところだった。
「ほぁ……おっはー、ユキちゃん。悪ぃな、俺、いつの間にか寝てたみたいで……」
 謝るならメグに謝ってやってくれ。ついでに俺も一緒に謝ろう、こっちもいつの間にか寝てたんだよ。
「お、おっはー……」
「? あれ、ユキ、それ突っ込まねぇの? おかしいな、いつもだったら『古いッ!』って言って脳天にすぱこーんと目覚ましになるいいチョップが入るはずなんだけどな」
「そ、そんだけ言えたら充分目は覚めてるだろ……」
 怖い……PV未完成なのがムツにばれてしまうのが非常に怖い!
 正直脳天チョップで突っ込みを入れられる心理状況ではなかった。
 あからさまにどもる俺。
「でさ、で、PVはどうなった? 完成した?」
 できることならしばらくこいつと漫才でもして気を逸らしておきたいところだったが、こういう時に限ってムツはあっさり事の核心部分に触れてきた。俺の肩越しにパソコンの画像を覗き込んだかと思うと、俺の手からいとも簡単にマウスを奪い取り、動画の再生ボタンをクリックする。
 俺は諦めてため息をつき、ムツと共にPVの鑑賞をすることにした。こうなったらどうにでもなれだ。
 改めて最初から、「車輪の唄」が流れ始める。
「……おっ?」
 と、ムツが声を上げた。
 PVの最初に、作ってあった記憶のない「車輪の唄」の白い文字が黒い背景に書かれただけのシンプルな画面が再生されたのである。これにはムツのように声こそ上げなかったものの、俺もちょっと驚いた。
 イントロの途中からはムツと俺が明け方の南林間町内でタンデムしている動画に切り替わり、やがて歌が始まる。

 ――錆び付いた車輪 悲鳴を上げ
   僕等の体を運んでいく 明け方の駅へと

   ペダルを漕ぐ僕の背中
   寄りかかる君から伝わるもの 確かな温もり――

 自転車を漕ぐムツの顔と、ムツの背に頬を寄せる俺の顔とが順に映された映像の後、場面は例の上り坂のシーンへと移り変わる。
 県道五十号線の弧線橋の上り坂をムツがのんびり漕ぐ後ろで、俺が藤原氏の歌声に合わせて「もうちょっと、あと少し」と口を動かすところが映った後に、今度は夜明け前の南林間町内を弧線橋の頂上から撮った映像が流れた。これは撮影係のミキのアイデアで撮ることになったシーンだ。
「へぇっ? 結構いいじゃん」
 俺の背後から、ムツが楽しそうに感心の声を漏らす。
 俺は黙って、いつの間にかクオリティの上がっていたPVを鑑賞していた。

 ――券売機で一番端の
   一番高い切符が行く町を 僕はよく知らない

   その中でも一番安い
   入場券を すぐに使うのに 大事にしまった――

 南林間駅で買える小田急線の最高額切符である五百七十円の切符が、つり銭と共に券売機から出てくるところが映る。その後で、ムツが券売機から引き抜いた入場券をポケットに入れる様子が流れた。Cチーム全員の割り勘で経費としてマジに購入した切符だ。
 改札を抜けるシーンでは、歌詞の通りに俺が鞄を引っ掛ける。切符を一枚しか買っていないため撮り直すこともできないので、緊張の中一発で決めたシーンだ。
 ムツが瞳を伏せたまま静かに頷き、引っかかった鞄のベルトを外す指先が映される。ベルトの引っ掛かりを外す瞬間、映像がわずかにスロー再生になっていた。……メグのやった小細工だな。いい仕事しやがるぜ、全く。

 ――響くベルが最後を告げる 君だけのドアが開く
   何万歩より距離のある一歩 踏み出して君は言う――

 ホームのシーン。
 二番線、上り方面のホームに停車した各駅停車新宿行きに俺が一歩を踏み出し乗り込むところを横から映した映像が、やはりスローで再生される。ムツはドアから少し離れたところで、それがそうして電車に乗るところを少し寂しそうな目で見ている。
 俺がドアのところに立ち、歌詞に合わせる形で台詞を言うところが正面から映され、次にムツがうつむいたまま手を振るところが映った。この辺りの映像は一本の電車じゃ撮り切れなくて、隣の中央林間駅と電車で何度か往復して撮ったシーンだ。

 ――間違いじゃない あの時 君は…――

 短い間奏の部分に差し掛かり、電車のドアが閉まるより早く、ムツがホームをカメラの方へ向かって走ってくるところがスロー再生される。これが終わるといよいよ、一番の見せ場である下り坂のシーンだが……。
 問題はここからだ。
 後半部分は元々ムツの担当で、昨日までほとんど全くと言っていいほど編集の施されていなかったところである。このホームのシーンまではメグが試行錯誤していたのを見ているが、その後は果たしてどうなっていることやら――
 だけどそれは俺の杞憂だったようだ。

 ――線路沿いの下り坂を 風よりも早く飛ばしていく 君に追いつけと――

 パソコンの画面の中で、徐々に加速する上りの小田急線と並走して、南林間駅東口側から延びる線路沿いの道をムツがチャリで爆走している。当然の如く立ち漕ぎで、速度としては多分三十キロ超くらいは出ているんじゃないだろうか。自転車の平均的な時速が十キロくらいだから、これは見通しのいい直線道路じゃなかったら割と危険なスピードだ。
 もちろん時間帯はまだ人の少ない午前六時ちょっと過ぎ、車の通りもさほど多くない道路なので車道を走っている。
 それでもだんだんと加速する電車に追いついていけず――

 ――錆び付いた車輪 悲鳴を上げ 精一杯電車と並ぶけれど
   ゆっくり離されてく――

 電車の窓から自転車で暴走しているムツを見つめて何やら口パクで言っている俺が、通りからのズームで映される。歌詞によるとここは泣いていなくちゃいけないシーンだが、生憎俺にそこまでの演技力はなく、撮影の時ムツはそれが気に食わないと言って何度か撮り直させたけれど結局何一つ改善することはないまま、最終的に一番最初に撮ったこの映像が使われることになったというのが裏話だ。
 けれどまぁ……歌の威力を考慮しても、なかなか雰囲気が出ていていいね。
「……んっふっふ、」
 県道五十号線の弧線橋のガード下を抜けたところで止まった自分が、自転車に跨ったまま走り去っていく小田急線に手を振っている映像を見ながら、ムツは満足そうな笑みを零した。
「まだ何となく物足りない感じはするけど、でも結構よくできてるじゃん。うん、上出来上出来」
 このPVのラストシーン・一人でチャリに乗ったムツが日もかなり昇って明るくなった南林間の町を走っていく映像をバックに、スタッフロールが流れているのを眺めながら、俺はちらりと壁際のメグを見やった。……ご苦労さん、メグ。
 ひょっとすると、未完成だったPVをここまで完成度の高いものに仕上げたのはミキなのかも知れないが、ムツのベッドを一人で占領して大層気持ち良さそうに眠っている姿を見る限り、ミキじゃなくてメグだと思って間違いなさそうだ。
 散々な誕生日になってしまったようで、少し申し訳ない。今日の放課後はこいつのために何か特別なお祝いでもしてやろう――このPVを始めとし、夏休みの宿題を粗方出し終わった後の、放課後に。
「もう一回見ようぜ。ユキ、また最初っから再生よろしく!」
「……りょーかい」
 暑苦しいことにも俺の首にぎゅっとしがみついてきているムツの頭をぺしぺしと二度軽く叩いてやってから、俺は短く嘆息して完成した動画の再生ボタンを押す。
 俺の肩の辺りをゆったりと拘束するムツの腕は既にうっすらと汗をかいていて、その向こうの体温を感じながら、今日もまだまだ暑くなりそうだな、なんて俺は思っていた。
 暑さは続くが――でも、俺達の夏は、終わった。
 何が特別だった訳でもないのに、どこか特別だった夏は。
 何の脈絡もなく事あるごとに思い出し、ずっと忘れることのない、俺達の夏は。

 それはかつて、長い休みが終わると感じていた寂寞感や脱力感ではない――
 ムツの腕が乗った両肩に心地よい、どこか満足感にも似た、重みだった。


[イスペシャルサマー 了]
[読了感謝]

作中引用:
車輪の唄
(アルバム「ユクドラシル」、2004年8月25日)
作詞作曲・藤原基央
演奏・BUMP OF CHICKEN(LONGFELLOW・トイズファクトリー)

「無常ということ」
(小林秀雄・著、1942年、
本文は「現代日本文学大系・第六十巻(筑摩書房)」より)
「美しい時間」
(加藤周一・著、2003年、本文は「小さな花(かもがわ出版)」より)

参考URL:ケンタッキーフライドチキン
ミスタードーナツ

(順不同、敬称略)


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