昔話をしよう。
 人間、最低でも十年ちょっと生きていれば、誰にとっても一人くらいは「自分はこの人には絶対に敵わない」という人が存在するものだ。理屈や理論でなくていい、ただ一つの漠然とした感情として、自分は何をどう頑張っても一生この人に勝つことはできないだろう、と思ったことが、どんな人でも少なくとも一度くらいはあるんじゃないだろうか。
 必死に追いかけても追いつけない焦燥感、正面切って勝負を挑む気になれない敗北感、思慕や憧憬によく似た陶酔感、そんなものを未だかつて誰に対しても抱いたことがないとは言わせない。現在一高校生である俺から言わせてもらえば、人間は生まれた瞬間から既に敗北者であり、そうして敗北を喫した相手にはどんなに足掻いても逆らうことはできないものなのだ。まぁ、人生に勝ち負けなんて実際はないも同然な訳で……何が言いたいかって言えば、所詮勝ち負けなんてくだらない幻惑に過ぎない、ってことだけれど。
 しかし、人生に勝ち負けなんてないと言ったところで、「この人に勝つことは恐らく永久にないだろうな」という敗北感は、錯覚として常に俺達の回りに存在し続ける。俺の場合を言えば、その対象は父の兄の息子、すなわち現在大学生の従兄弟の兄ちゃんだ。俺は人生におけるあれこれを多く彼から教わった。人生観や価値観を始めとして、趣味や思考、挙句の果ては外見まで、余すところなく――である。俺の私物の内、本以外のものの少なくとも四分の一くらいは彼から譲り受けたものだし、二人揃って口を開けば「気持ち悪いほど口調がそっくりだ」とよく言われる。並んで街を歩いてみれば、かかる声は大体が「ご兄弟ですか?」だ。俺には小生意気な妹も一人いるが、その妹とよりも従兄弟の兄ちゃんとの方がよっぽど兄弟らしく見えるらしいというのは実に不思議なことだと思う。まぁ、それは血をわけたとはいえ異性の妹より血縁者の同性たる従兄弟の兄ちゃんの方が似て見える、ってだけのことかも知れないが。
 ……何の話をしていたんだっけ?
 そう、自分にとって絶対に敵わない存在の話。敗北感さえ抱ける相手の話。
 機関銃タイプのエアガンや飽きたらしいエレキギター、原付免許で乗れるマニュアルバイク、その他色々をもらったからという理由からではなく、俺はその従兄弟の兄ちゃんには永久に勝つことができないだろうと確信している。その根拠を述べよ、と言われてもそれは相当に難しいことなので敢えて語りはしないが、理屈じゃなく、本当に敵う気がしないのだ。
 あるいは――いつか勝ってやろうと、思うことができない。
 超えようと思えないのだ。
 けれどそれは、基本的に(実は)負けず嫌いな俺には珍しく、やけに気持ちのいい敗北感だった。自分にとって一生抗うことのできない絶対的な存在がいる、という重圧は、意外にも心地いい重みである。小学校ウン年生くらいにそれを悟った時から、その思いは現在進行形だ。
 だから、悔しそうな表情をしながらどこか嬉しそうだったあいつも、あの時きっと、同じことを感じていたんじゃないだろうか。
 永久に失われることのない差に対する、心地よさを。

 これは、そんなとある絶望感と敗北感の話である。





テンピンズギャンブラー


「ボウリング行かね?」
 というのが、今から遡ること約五年前――当時中学一年生の俺の一友人にしてクラスメイト兼部活のチームメイトだった野瀬睦、通称・ムツが放った、事のきっかけとなる一言だった。
 十二月の第一週、二学期期末テストの最終日程もどうにかこうにか乗り切って、代わりに球技大会が翌週と目前に迫った、冷たい空気が身体に沁みるある日の午後のことだ。練習中は烈火の如く檄を飛ばす鬼監督の温情で、所属するバレー部の練習がこの日一日休みになった俺達は、ようやくテストが終わってほっとした雰囲気の中、二十分かかる学校の最寄り駅までの道をぶらぶらと歩いていた。
 天気がいいなぁ、でも寒いなぁ、こんな寒い日は暖房の効いた自室にこもってぬくぬく読書でもするに限るなどと考えていた俺は、そんな俺の完璧な計画を根本からぶち壊しにするようなことを平然と言い放ったハンサムフェイスを当然の如く睨みつける。
「んな剣呑な目で見なくてもいいだろ。ったく怖いなー……折角の可愛いお顔が台無しだぜ、ユキ嬢ちゃん?」
「可愛くないからいい。ついでにそうやって呼ぶな」
 言い返してやると、面食い女子が刹那もおかずに飛びつきそうな極上のイケメン面は、「何だよー」と不満そうに口を尖らせた。端整な顔が聞き分けのないガキみたいなそんな表情を浮かべると本当に間抜けだ。そういうところがまた「カワイイー」と女子受けするんだろうが……いくらモテそうなルックスを所持していても、通っているところが中高一貫の私立男子校じゃ意味がない。残念だったな、なぁ、ムツよ。んな顔しても俺は陥落したりなんかしないぜ。
「ひっでぇ……ユキさぁ、ここんところ付き合い悪くねぇ? もう久しくお前とカラオケもゲーセンも行ってない気がするんだけど」
 それは間違いなくお前の気のせいだ。確かに、ここ二週間はテスト期間中だったから大人しく家で勉強に励んでいたけれど――その勉強がはかどっていたかどうかはさておき――そのテスト期間に突入する前日、俺をフリータイムで五時間もカラオケに付き合わせたこと、忘れたとは言わせないぞ。
「そうだったっけ? 忘れちゃったてへぺろ☆」
「てめぇ……」
 てへぺろ、じゃねぇよ。かわいこぶるな気持ち悪い。
 ……しかもその言い方は絶対に忘れてないだろ。
「それはともかく、ボウリングだよ。メグはどう?」
 俺の放つ殺意を体内でどんな風に処理しているのか不明だが、ムツはちっとも悪びれることなく会話の矛先を俺から逸らした。逸らされた先である、長身ポニーテールの眼鏡っ子にしてエセ優等生面の浜野恵、通称・メグは、自分を振り返って尋ねてきたムツに対していかにもお人好しそうな微笑を向けてこう答える。
「ボウリング? いいんじゃない、折角部活も休みだしさ」
 そこ、ニコニコしながらあっさり首肯するんじゃない。
 部活が休みだったら何でもいいのか、お前は。言っておくが、こいつに付き合って遊ぶのには尋常じゃない根性と精神力が必要だぞ。一度付き合ったら最後、満足するまで延々と引き摺り回されるからな。というか、お前も伊達にこいつと半年以上クラスメイト兼チームメイトやっている訳じゃないんだから、いい加減それくらいわかって懲りたらどうだ?
「数年ブランクがある僕と一緒でもいいって言うなら、別に構わないよ」
「メグ、お前はいい奴だな! 俺ぁお前のそういう優しいところが大好きだよ! あいらびゅーっ!」
「あはは……冗談でもアイラブユーはやめてくれよな」
 ムツが言うと結構洒落にならないから、と、ムツに背後から抱きつかれながら笑みをぎこちなく引きつらせるメグの気持ちは嫌というほどわかる。いわゆるスキンシップという行為が大好きなムツは、相手が俺やメグのような同性でも躊躇なく、またTPOをわきまえることもなく飛びついてくるから、今歩いている通学路のような公の場所で頬擦りなんかされると、行き交う人々の視線が結構痛いのだ。
 ましてや俺達が身を包んでいるのは、この近所では名の通った男子校の制服なのである。やっぱり男子校ってそういう雰囲気なのね、とかいう印象を持たれたら学校側もいい迷惑だろう。
「ええぇっ!? メグ、ひょっとして俺のこと嫌い!? がーん、結構ショックだぜ、それ……」
「べ、別に嫌いではないけど、好きって言うと変な勘違いをされる可能性があるから言いたくないだけだよ!」
「ふられた……メグにふられたっ……親父にもフラれたことないのにっ!」
「君はア●ロかっ! あと親父にふられるって場面かなりシュール!」
「ふっ……実は俺、ニュー●イプなんだぜ。マグ●ットコーティング施さないと、ガン●ムが俺の反応速度についてこられないんだ」
 マニアックなガ●ダムトークをするな、お前等。
 ……それにムツ、お前がニュータ●プって言うとそれも結構洒落にならない。
「けっ、いいもんいいもんっ、俺にはまだミキがいるもんっ。……なぁミキ? お前はどうよ?」
「えっ? どうって何がっ?」
 唐突に話を振られ、俺達の面子で最後のメンバーがムツに聞き返す。
 俺やムツやメグと同じ男子校に通っているなんて俄かには信じがたいほど、キュートで可憐な少女じみた外見を持つ服部実紀――通称・ミキは、昼飯のデザート代わりに購買で購入した大好物のメロンパンを齧りながら、ぱちぱちと大きな目を瞬いた。肩にかかった栗色の髪が、首をかしげる動きに合わせてさらりと揺れる。……うっ、可愛い。そんな小動物みたいな挙動をされると余計に可愛さ倍増だ。
「お前は俺の好意、ばっちりがっつり正面から受け取ってくれるよな! ミキ、あいらびゅーっ!」
「うん、さようならっ。……お前との友情は短かったな、ムツ☆」
「再びふられたぁぁぁぁっ!」
 大げさ気味に頭を抱えて路肩にしゃがみ込むムツを見て、ミキはきゃらきゃらと鈴の鳴るような笑い声を上げた。下手なアイドルより何倍も美人な面立ちに浮かんだ笑顔はどこまでも明るく、見ていると段々と心が幸せで満ちてくる。
 ミキが相手なら俺だってアイラブユーって言いたいぜ、実に。
 ……冗談でもふられたらショックだから言わないけど。
「くっそぉ……何気にギャルゲのハーレムエンドって難易度高くねぇ? 俺なんかユキを攻略するので精一杯なんだけど」
「ちょっと待て。いつ俺がお前に攻略された?」
「うん、十月の学園祭の時。……え? だってチュウしたよね?」
「してね――っいや、したけどっ! でも断固としてお前になんか攻略されてねぇ!」
「そんな!? あの甘美なキスはハッピーエンドではなかったというのか!?」
「何で意外そうな言い方してんだ、お前! 当たり前だろうが!」
 あんな事故みたいなキスで攻略されてたまるか!
 ハッピーエンドどころか俺にとってはバットエンドだ、アレは!
 今日もまた暴走の兆しを見せ始めたムツの脳天を勢いよくはたく。痛ぇっ! とムツが呻いて再度路肩にしゃがみ込んだが、構うものか。いっそのことお前はそのまま再起不能になればいいんだ。
「酷ぇ……ユキ酷ぇ……。っでも俺は諦めないぜ! 今のはユキ嬢ちゃん渾身のツンデレで、本当は俺のこと愛してくれてるんだって信じてる!」
「勝手に信じるな!」
「んで? 俺は何の話をしてたんだっけな? ……おおおっ、思い出した! 確かボウリングの話だったよな!」
 何の脈絡もなく突然元の話題に戻しやがった。
 お前、ちょっとは周りの人間のことも考えて話を展開したらどうだ。
「ミキ、ミキ! 俺の好意を受け取ってくれなくてもいいから、ボウリングには一緒に来てくれるよな?」
「あ、それならオールオッケーっ! わははっ、そういやこの面子でボウリング行くのって何気に初めてじゃね? 超楽しみなんだけどっ」
「うっし! 野瀬睦は服部実紀を攻略しましたっ!」
 ミキの奴、ボウリングルートでならあっさりムツに攻略されていやがる。それで調子に乗って敬礼なんぞをしているムツがとことんウザい。
「あと攻略できてないのはユキだけだな。……まぁ、ここまで面子揃っちゃったら、嫌って言っても無理矢理連れて行くけど?」
「……俺の意向は完全無視かよ」
「行きたくないの? Cチームメンバーでボウリング」
「絶対にって訳じゃないけど……できればな」
 折角部活も休みになったんだし、テストが終わった直後くらい家でのんびり過ごしたいというのが本音だ。ボウリングは嫌いじゃないし、むしろ割と好きな部類で、ましてやこのバレー部練習Cチームのメンバーで行くとなれば全く興味がない訳じゃないが、いかんせんテスト疲れでそこまで気分が乗らない。
 ……それに、これはムツに向かって面と向かって言えないのだが、俺が家に帰ってやりたいことの一つには一ヵ月後に迫った百人一首大会の練習というのがある。国語の授業の一環で年明けに開催される歌がるたの学年競技会で優勝しなければ、俺は学園祭のファーストキスに続いて二回目のキスまで強引に奪われる手はずになっており、その手はずを整えたのが誰かといえば他でもないこの野瀬睦だ。
 自分の目下天敵に唇を二度も奪われる羽目には何としてもなりたくない訳であり、ならば空いた時間を有効に使って百人一首の練習をしたいと思うのも至極当然の考えと言えるだろう。とにかく、ボウリングなんてお遊びにかまけている暇はないって訳だ。
「へぇ。何? 家に帰ってやりたいことでもあるんか? ……百人一首大会の練習とか?」
 無駄に偉そうに腕を組んでムツが尋ねてきた内容にぎょっとする。こいつ、どうしてこういう時に限っていらない勘のよさを発揮するかな。
「いや、別に……そんな大したことじゃないんだけどな……」
「じゃあいいじゃん。俺達とボウリングしようぜ、ユキ♪」
「うー……でも……」
「何だよ。大したことないんだろ?」
「あー……まぁ……」
「煮え切らねぇな」
 挑発に乗って熱心にかるたの練習をしているとは知られたくない俺が曖昧に語尾を濁していると、ムツは不機嫌そうに舌打ちをして眉を吊り上げ、俺の顔をじっと覗き込むようにしてくる。む、困った。このまま見つめられていたら、その内表情から何を隠しているのかばれてしまいそうだ。
「なぁっ、ユキ、ユキも行こうよっ! 絶対楽しいからさぁっ、」
 後ろからはミキが俺のブレザーの裾を引っ張っていい返事を催促してくる。俺はますます困ってしまった。こんな風に可愛く誘われたら、そりゃあ俺だって行きたくなるし。
「たまの部活休みなんだし、今日くらいは遊んでもいいんじゃない? ちょっとくらい息抜きも必要だよ」
 俺が百人一首大会に備えていることをこの時点で唯一知っているメグも、そう言って俺を誘う。俺にかるたの練習を勧めたメグにまで誘惑され更に迷った。さて、どうするかな。
 自宅に帰って百人一首歌がるたの練習か、Cチーム全員で行くボウリング。それぞれを両端の皿に乗せた心の中の天秤がぐらぐらと傾く。しばらく均衡を保っていた二者だったが、やがて後者がぐぐっと下がって俺の行き先が決定した。
「……わかった。じゃあ、俺も行く」
「おおうっ! やった、これでユキちゃんも攻略したぜ! Cチームメンバー全員制覇! おめでとうハーレムエンド!」
「いや、だから攻略されてねぇって」
 テンションの上がったムツに突っ込みを入れつつ駅方面へと向かって歩き出しながら、またムツに負けず劣らずテンションが上がっているらしいミキの実に嬉しそうな歓声を聞きながら、それににこにこと如才なく微笑んでついてくるメグを眺めながら、俺はたまにはこんなのもいいだろうと思っていた。メグの言う通り、人間、時には息抜きも必要である。テスト勉強とその合間を縫ってのかるたの練習でこの二週間頑張ったんだ、今日くらい遊んだっていいじゃないか。

 そんな軽い気持ちでムツの提案に乗ったのだったが――
 他でもない、それこそが悪夢の始まりだったことに、この時の俺はまだ気がついていない。


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