ウィンターカミングスーン





 ジャージの袖の中に手を引っ込め、その布越しに自販機で購入してきたばかりの熱い缶コーヒーの温かみを感じながら、俺は校舎の中を小走りに体育館棟の方へ向かっていた。
「ふぃー……寒っ……」
 校舎の切れ目から体育館棟へと繋がる渡り廊下へ出た途端、肌を刺すような冷気がジャージの布を素通りしてきて、俺は思わず缶コーヒーを抱き締めて独り言を呟く。それでなくても急いていた足取りはここへきてより一層早くなり、体育館棟へと一目散に駆け込む俺を、木枯らしは容赦なく攻撃してくる。
 十一月になったばかりだっていうのにこの寒さとは、今年の冬は少しばかりせっかちな性格をしているらしい。つい一週間の学園祭くらいまで、半袖で作業をしていると汗の吹き出てくるような陽気だったというのに、昨日の冷たい雨を境にいきなり季節を一ヶ月先取りしたかのようだ。
 昨日の雨が嘘のように晴れ渡り、空は高く、放射冷却もきっと並みではあるまい。
「袖手して芳林を歩む、か……」
 ついこの間古典の時間に教わった袁枚の漢詩の一節を呟きながら、俺は尚もジャージの袖越しに缶コーヒーを撫で、体育館棟と連結している部室棟の中を早足で歩く。
 それからある一室の前で立ち止まると、ノックせずにそのドアを開いた。
「ただいまー」
「あ、ユキ。おかえりー」
 別に家でもないのに只今と言うのも変な感じだが、春に入部して以来俺にとってすっかり馴染みの場所となったこのバレーボール部部室に一旦出かけた後で戻ってくる時には、どうしてもそんな一言が口をついてしまう。
 そしてそんな俺の一言に「お帰り」と返ってきたところを見ると、どうもそう俺に答えた奴も似た感覚でいるようだ。
「……あー、寒かったー……」
「買ってきたのか、コーヒー? あ、ホットだね。……ついこの前まで冷たかったユキの缶コーヒーがホットになると、それだけで季節を感じるよ」
 俺と同じくのジャージ姿で生徒用椅子に腰掛け、薄手の文庫本を開いていた部のチームメイトの一人・浜野恵こと通称・メグにこう答えながら、俺も椅子を引っ張ってきて腰掛ける。
「まぁな……こんだけ寒いと、あったかい飲み物の一杯や二杯でも飲まなきゃやってられねぇよ」
「それもそうか。……あ、ところでさ、購買ってまだ開いてた?」
「んー、……一応開いてたけど、高橋のばーちゃんがもう閉めたそうにしてたから、時間の問題じゃないかな。でも何で?」
「いや、大した理由じゃないんだけどさ、」
 眼鏡のレンズ越しに柔らかく微笑し、最大の特徴であるポニーテールを揺らすメグ。
「ちょっと小腹が空いちゃってね。もしまだ購買が開いてるなら、パンでも買ってこようかなって思ったんだ」
「今から行けばまだ間に合うんじゃないか?」
「いや、折角教えてもらったのに悪いけど、別にいいや。我慢できないほどじゃないしね。……わざわざそれだけのためにここを出て行くのも寒そうで嫌だし」
 言ってメグは、部室内に僅かな外光を差し込ませている埃だらけの小さな窓を見やった。薄汚れた窓は時折カタカタと鳴っている。
 ……隙間風がほんの少し吹き込むだけのここだってこれだけ寒いんだ、部屋の外がもっと寒いことなんて簡単に想像がつくのだろう。
「あ、じゃあさ、メグっ。俺さ、メロンパン昼に買って半分だけ食って残ってるんだけど、よければ食うかっ?」
 俺とメグから少し離れたところに席を構え、そこで本日発売の週間少年ジャ●プを捲っていたもう一人のチームメイトが、少女と見紛う大きな目をぱちぱちと瞬いて言う。
 肩下まで伸ばした淡い色合いの髪をハーフアップにしたこの可憐な御仁こそ、我がバレー部練習Cチームが誇る美人マネージャー・服部実紀、通称・ミキだ。俺達と同じように指定のジャージを着込んでいるのだが、彼が着るだけでどうしてこの何の変哲もないただのジャージが超絶萌え衣装に見えるんだろうね。



「メロンパン昼に買って半分だけ食って残ってるんだけど、よければ食うかっ?」


「あー……いや、いいよ。ミキが自分で食べたくて買ったんだろ? それをもらうのって悪いからさ」
「そうっ? 俺は別にいいけど? 今度お礼に自販で午後ティーでも奢ってくれりゃいいよー」
「ううん、大丈夫だよ。気持ちだけもらっておくね」
 やんわりとミキの申し出を断わったメグは、それから傍にいる俺だけに聞こえる声でぼそりとこう付け加えた。
「……それに、ミキから何かもらうと、周囲の目が怖くて……」
 そう言って小さくため息をつくメグの気持ちは痛いほどわかる。……俺達がチームメイトになってすぐの五月の連休明け、俺もミキからメロンパンをわけてもらって一緒に食したことがあったのだが、あの後数週間してからミキに惚れていたという生徒会本部所属の先輩に絡まれた。
 ……。
 恐るべし男子校のアイドル、先輩キラー。
「それにしても、今日寒ぃよなーっ。Aチームの奴等とかよく外練できるなっ」
 俺達がどこか複雑な心境で自分を眺めているのも知らず、ミキはジャ●プを読みながら口を尖らせる。そんな顔をしたってミキの可愛さは絶品だ。
「そうだね。現に僕達は……」
「ああ……」
「部室でだらだら〜っ。うははっ」
 今部室で寛いでいるのは俺達三人だけだが、きっと他の部員のほとんどもどこか別の暖かい場所で適当に時間を潰していることだろう。こんな寒い日の放課後に監督から外練習を言いつけられて律儀に校内ランニングをこなしているのは、うちの学年なら全国大会出場がすぐ目の前に見えているAチーム、せいぜいチームリーダーが真面目なBチームくらいなもんだ。
「何か急に冬が来ちゃったみたいだよね。一昨日との気温差で体調崩しそうだよ」
「あー、わかるわかる。季節の変わり目って身体おかしくなるよな」
「きゃははっ、そんな時にだーれが生真面目に外走るかってのっ!」
 三人で他愛もない会話を交わしながら、穏やかに時間が流れてい……ん?
「……あれ? 何かおかしくないか?」
「え? 何がっ?」
 不意に感じた猛烈な違和感に俺が声を上げると、ミキがジャ●プから顔を上げてきょとんとした表情を作った。俺の隣ではメグが俺と同じように小首を捻って、
「ユキも感じた? 僕もさっき何か変だなって思ったんだけど……何だろ?」
「えぇっ、そんなに何か変か? ……あ、でも言われてみれば俺も何か変な感じしてきたっ」
「ミキ、このタイミングで言うと物凄く嘘っぽいよ」
「嘘じゃねぇよ、本当だもんっ! 本当に変な感じしたもんっ!」
 メグとミキが何やらやり取りをしているのを横目に、缶コーヒーの温い中身を啜りながらしばし考える。何故違和感を感じたんだ? 練習がかったるい時にこうやって部室に溜まって四人でグダるのはいつものこ――四人?
「……あっ、」「あ、」「あっ」
 そして俺が声を上げたのと同時にメグとミキも同じように気づきの感動詞を口にした。それから三人で口を揃えて、

「ムツがいないっ!!」


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