* * *

 それから五十分後。
 俺はミスコンが行なわれる中庭の会場にいた。
「…………」
 特設ステージ裏の出場者召集場所の片隅で、俺はため息もつけないでただひたすらに黙りこくっている。同じ場所にいるのはここぞとばかりに女装したミスコン出場者と、それに付き添いで来た団体代表者の制服姿だ。
「……ユキ、大丈夫?」
「これで大丈夫だって言えると思うか?」
 俺の傍でそわそわと落ち着かない様子のメグに俺がそう声を荒げると、メグは「ごめん」と謝って恐縮したように縮こまってしまった。そんなメグの態度に、やたらと苛立っている自分が情けなくなってしまい、それが更に俺のストレスに拍車をかける。
「お前は何も悪くないだろうが、メグ!」
「だけど……」
「だけどとか何とか、もう何も言うな。頼むから黙っててくれ」
 言いながら、俺は携帯電話の時計をしきりに気にしている。ミスコン本番まであと五分を切ろうとしているところだ。俺は今度こそ、深くため息をついた。
「……ムツ、間に合うかな」
 隣でメグが、ぼそりと小さな声で言う。言ってからしまったというような顔をするのがわかったが、もはや俺にはそれに何かを答える余裕も残っていなかった。
 今ムツは、メグから渡されたコーラを片手に、ミキを探し回っている頃だろうか。
 それとももう、ミキを取り返して、ここに向かっているだろうか。
「それじゃ、出場者の皆さんはこっちに並んでくださーい」
 それから数分、ついに実行委員の誘導係がそう声を張り上げるのが聞こえた。畜生、間に合わなかったか。俺は目の前が真っ暗になるのを感じた。
「……ユキ、」
「もう仕方ない。腹をくくるしかねぇよ」
 最後にため息をつき、メグから渡された――本来ならミキ用だった――ペットボトルの紅茶で一口喉を潤すと、俺はそのボトルをメグに押し付けるようにして返した。
「ユキ……ごめんね。本当、こんなことになっちゃって」
「だから、お前が悪いんじゃないだろって」
 出場者の群れに混ざって歩きながら、俺は申し訳なさそうにしょんぼりしているメグに向かって言った。
「悪いのは――全部、ムツの野郎だ。絶対後で殴り飛ばす」

 スピーカーから大音量でファンファーレが鳴らされている中、ついに毎年恒例の実行委員会企画ミス・コンテストは開幕した。
 出場者が控えている向こうの舞台に実行委員の司会進行担当が立ち、企画について滑りがちなお寒いギャグも交えてMCをする。ついで実行委員長のはっちゃけ気味な開会の言葉があって、それに校長の全く似合わないノリノリな言葉が続いて、ひたすらに退屈な審査員の紹介が行なわれた。
「それでは! 今年の当校ミスの候補者の入場です! ――」
 そして、ついに――出場者の入場が始まった。
 一人一人名前を呼ばれながら、次々と舞台裏から舞台上へ出場者が入っていく。その度に客席からは、拍手やらひゅーひゅーというひやかしやら指笛やら、挙句の果てには近所の女子校に通う生徒のものと思しき黄色い悲鳴までが聞こえてきて、そのあまりの盛り上がり具合に思わず頭がくらりとなった。
 どうして……嗚呼、どうしてこんなことに。
 俺の前に並んでいた出場ナンバー六番、皆目麗しいゴスロリに身を包んだ小柄な男子生徒が舞台へ上がっていく。
 意を決して、俺はそれに続いて舞台に上がった。
「続きまして、出場ナンバー七番! 予定していた出場者が出られなくなってしまい、急遽代理出場の――」

 会場が――どよめきに包まれる。

 舞台の中央まで歩み出る俺。

 身を包んでいるのは――白雪姫の衣装。



嗚呼、どうしてこんなことに。


 水色のパフスリーブの袖が特徴的な青い上着に白い襟、レモンイエローというべきサテン生地の黄色が眩しいフレアのロングスカート。手には美術室からパクってきたデッサン用の林檎、頭にはでかい赤色のリボンつきカチューシャ。
 例えばこの場にいる全員の頭の中身をシャッフルしてランダムに一人を選び出したところで、この衣装を見てそいつの口から飛び出す答えはただ一つ、白雪姫だ。
 それはさかのぼること四十五分前のことになる――
「やべ。このままだと、出場者に穴が開いちまう」
 そう言ったムツが俺の手首を無駄に強い力で引っつかんで連行したのは、特別教室棟の片隅に位置する視聴覚室だった。本日学園祭二日目、その視聴覚室では成瀬理音の所属する演劇部が絶賛公演中であり、そこは俺にとって忌々しい思い出がつい一日前刻まれた場所でもあり、つまり何が言いたいかっていえば、
「理音! 緊急事態だ、手を貸してくれ!」
 公演途中の薄暗い視聴覚室から、連結している放送室へムツは俺を連れて飛び込んだのだった。
 学園祭に関する各公演の控室として機能している放送室で、演出担当の一年生代表・成瀬理音は退屈そうな顔で台本に目を通していたのだが、いきなり飛び込んできた俺達を見ると、さして大きくもない目を丸くして驚いた顔をした。
「手を貸してくれって、一体どんな風にさ、あっくん?」
 応援を要請されて、理由ではなくこれからどうすればいいか――手段を尋ねるところが、変人故に友達が決して多くはないムツと仲良くやっていけているこいつのらしいところだ。
 しかしながら、何故かとても嫌な予感がする。
 その理由。
 一。ムツが連れてきたのはメグではなく、俺です。
 二。ムツが俺を連れて行った先は演劇部です。
 三。演劇部にはムツの協力者・成瀬理音がいます。
 四。昨日俺は、その理音とムツの陰謀によりある格好をさせられました。
「衣装、去年使ったヤツとかで倉庫に腐ってるのがいくつかあるだろ?」
 と、ムツは言った。
「今年の春先、仮入中にお前と一緒に倉庫を探検した俺の記憶が正しけりゃ――確かその中に、白雪姫の衣装があったよな」
「うん、まぁ、あったけど。つーかあるけど?」
 ……ビンゴだ。
 さっと顔の青ざめた俺の手首をしっかりと掴んだまま――それはまるで俺の逃亡を絶対に許さないという意思の現れのようだった――ムツは理音に言った。
「そいつをユキに着せてやってくれ。俺はちょっくら用事があるからこの後すぐここを出て行くけど――だから、ヘアメイクも含めてメイク、全面的によろしく」
「何だかよくわからないけど、わかったよ」
 わからないのなら是非とも引き受けて欲しくないのだが、そんな俺の願いが通じるような人格を理音はしていない。理由は聞かずとも友人の頼みとあらば必ず引き受ける――それが、ムツと理音の間にある友情の形なんである。理音にとって大事なのは、ムツが頼みごとをしたその理由ではなく、ムツに頼みごとをされたという事実の方なのだった。
「後でメグに迎えに来させるから。そこんとこ、よろしく」
「はいはいはい。よろしくされたよぅ」
「ユキ」
「……何だ」
「愛してるぜ」
 余計なお世話だ、馬鹿野郎……!
 と、俺が怒りを込めた鉄拳を脳天にお見舞いするよりも早く、ムツは俺の手首を離し放送室を飛び出していってしまった。理音と共に取り残された俺はただ茫然と立ち尽くすしかなく、そんな俺に理音は一言、
「……さて、ユキぴー。それじゃあお姫様再来といこうか?」
「いきたくねぇぇぇぇッ!」
 久しぶりにアクティブに突っ込んだ俺に対するギャラはなかった。
 代わりに――
 こうして、女装させられた、という訳である。
「…………」
 仏頂面のままスカートをちょいと摘まんで少しお辞儀をしてやれば、客席は異常なまでに盛り上がった。歓声やら悲鳴やら絶叫やら。この程度で興奮しちまうんだから、全く男子校というのは色々飢えているに違いない。だんだん客席の彼等がかわいそうになってくる。
 その中にはもちろん、近所の女子校の生徒である同い年くらいの女の子達もちらほら……いや、嘘をついてはいけないな、かなりの数混ざっていたのだが、彼女達が黄色い声を上げているのには見てみぬフリをする俺である。
 畜生。
 ……畜生!
 やっぱり数年の内は彼女を作るのは諦めなければならないか!
 昨日もムツ(と理音)の陰謀により、演劇部の劇で似たような格好をさせられている俺である。
 そして、人のことは言えない、男子校生でやっぱりちょっと飢えている俺である。
 ……ここまで来ると拷問というよりももはや刑罰に近かった。
 俺の後から、更に何人かミスコン出場者が入場してくる。入場が終わった後、出場者達は一人ずつマイクを向けられて司会者との問答を強要されるのだった。
「さて、七番の白雪姫ちゃんは、予定の出場者に代わっての代理出場ってことらしいけど、どうなんですか?」
「あはは……林檎を喉に詰まらせて死にそうな私を放り出してどっかに行っちゃった王子様のことを、今すぐこの毒林檎で撲殺したいです」
 刑罰の内容は市中引き回しの刑だった。
 あるいは晒し首とか。
 ちなみに俺的この台詞の面白いところは、毒林檎なのに毒殺ではなく撲殺なのかよってところである。しかし客席は、そんな俺のネタなんかより俺がいかにもぶりっ子的な女言葉を話している方に奇声を発していた。最悪だ! 折角こんな格好して舞台に上がってやってんだから渾身のギャグぐらい理解しやがれよ!
 ……もはやテンションがおかしくなりすぎてキャラ崩壊してきた俺だった。
 そんな感じで、いっそ吉●興業にでも行って芸人になる道を模索しようかなぁあっはっはーなんて脳みそがイカれちまってるとしか思えないことまで俺が考え始めた、その時である。
「  !」
 誰かにそう、呼ばれた気がした。慌てて左右を見るが、絶賛ミスコンの最中である今、舞台上に女装して立っている奴で俺に話し掛けるような奴はいない。いるとしたらそれはさっき俺に一芸を要求した司会者くらいなものだが、そいつは只今出場ナンバー九番のメイドさんに「お帰りなさいませご主人様」と言わせている真っ最中だ。
「つまり……」
 一つの結論を頭の中で出し、俺はこっそりと背後を振り返った。赤いカーテンのかかった入場口から、きらきらと何かが太陽光を反射しているのが見える。俺の予想は当たったようだ。
「メグか」
「ユキ、」
 カーテンの隙間からこっちを覗いている眼鏡レンズの正体は、声を潜めて、けれど最低限俺に届くような大きさの声でこう言った。
「ユキ、ミキが……見つかった!」

 ――――。

「さて、それではそろそろ審査に入りたいと思いまーす。その間は、ちょっと客席の意見とかも聞いちゃおうかな? じゃあ、そこの髪を縦ロールにした可愛い彼女! どうですか?」
「七番の白雪姫ちゃんが凄ぉく、可愛いと思いますわ。女装といえば、女子の目線からすると大事なのは似合っていることと、それ以上に恥らっていたり嫌がっていたりすることなんですけどぉ、彼女は本当に嫌そうな顔をしてますわよねー? あの表情がかなりいいですわ」
「ということですけど、七番白雪姫ちゃん、いかがでしょう? やっぱりミスコン出場には抵抗とかありました?」
 客席にいた近所の女子校の子から意見を聞いて戻ってきてマイクを向けてきた司会者を、俺はぎろりと睨みつけた。終始笑顔を絶やすことのなかったおちゃらけたその顔が、引き攣ったように奇妙に歪むのを見逃さない。俺は元の目つきがお世辞にもよくはない――どころかただ視線を向けているだけで睨んでいると勘違いされるくらいには悪いので、こうしてマジで睨んでやればかなりの恐怖感を相手に与えられるのだということを経験上、よく知っているのだ。
「え、えっと……どうかしましたー?」
 向けられたマイクに向かって、息を吹き込んだ。
「――緊急事態だ。ちょっと抜けさせてもらいます」
 高等部三年生と思しき気の良さそうな兄ちゃんは、マイクを向けたままぽかーんという間の抜けた顔をした。俺の台詞はそうさせるだけの意味不明さと唐突さを持ち合わせていたと思うし、仕方のないことだろう。
 一瞬俺が何と言ったのか理解できていなかった客席が、ようやくのことぴんときたのか、ざわざわと騒がしくなり始める。が、すまんが貴方達に構っている暇はないんだ。
「皆さんすいません! ちょっとよんどころない事情があるので抜けますっ!」
 俺は一言客席に向かって言い放つと、最後にお詫びとして手にしていた林檎の模型を空へ思いっきり投げ上げた。ある程度のところまで飛んで自由落下を開始したそれは、運がよければ客席の誰かが拾うだろう。
 が、それが俺の知るところとなることはない。
 林檎が誰かお客の頭に激突するよりも早く、俺はメグの眼鏡が覗いている入場口のカーテンまで引き返して舞台を出、危く正面から激突するところだったメグと共にミスコン会場から駆け出した。
 優先すべきはミスコンよりもミキの無事だ。
 そして――ムツの暴走の阻止だ。
「それでメグ、ミキはどこに?」
「数学準備室!」
 俺の横を走りながら、メグは携帯電話の画面を突き出してきた。
「すうがくじゅんびしつ」。
 平仮名でたったそれだけ入力されたメール画面が開いている。
「それで、ムツは!?」
「わからない! 準備室にいるのか、それとも……」
 それとも……もしかして、何だっていうのか。
 そんなのは他でもない俺が一番よくわかっている。あいつに縦横無尽、自由奔放、気の向くままの暴走を幾度となく許してきてしまった俺が、だ。
 中等部教室棟から校舎に入って、すぐそこにあった階段を一段抜かしで一気に駆け上る。
 目指すはこの棟の四階、数学準備室だ。
 ここのところ朝練のみならず放課後の練習まで部活をサボっていたのがいけなかったのかも知れない、運動不足故に酷く心臓を暴れさせ、息を切らしながら階段を上がっていく。その途中、何人もの来場客が驚いたように俺達を振り返ったのが視界の片隅に映った。多分その大多数が「どうして白雪姫が?」的なことを思っているに違いなく、そうして必要以上に目立ってしまっていることは俺にとって心を痛めるべき事態だったが、それには構っていられないくらい、今の俺は急いでいた。
 早くムツを見つけ出さなくては。
 そのためには、まずミキを助けることだ。
 中等部教室棟の片隅、特別教室棟との連結部近くでドアが開け放たれたままになっている数学準備室へ、勢いよく飛び込む。
 そして、
「う、ううっ……!」
 暗幕がかけられて薄暗くなっている教室の奥に、可憐なアリスの格好のまま、ミキがうずくまっていた。
「ミキ! ミキ、大丈夫か!?」
 馬鹿みたいに何度も無事を確認しながら、駆け寄った俺はミキの口にがっちりと貼り付けられていたガムテープをはがす。幼気なアリスの衣装に身を包んでいるが故に、その拘束された様は少女誘拐事件みたいで本当に犯罪じみていた。くそ、ミキにこんなことしやがって。
 はがしたテープを丸めながら苛立たしく思っている俺だが、そんな俺をミキは驚いた顔で見て、
「ユキ、その格好はっ?」
「詳しい話は後だ」
 それこそ火曜水曜夜九時枠サスペンスドラマみたいにロープで拘束されているミキを解放してやりながら、俺は早口に言った。
「それよりムツは?」
「ムツはっ……わかんない。俺を捕まえてここに連行してきた奴等が逃げたのを追いかけて、どっか行っちまったよっ!」
「っくそっ」
 思わず悪態がつく。
 そうして俺が縄を解くのに手間取っていると、そこへ遅れてメグが飛び込んできた。ミキを拘束している縄に手をかけて、
「ユキ、中等校舎の一階がっ……おかしい!」
「おかしいって何だよ!」
「騒がしいんだ」
 瞬間、俺はミキの縄から手を離していた。間違いない。騒ぎのあるところに奴の姿あり。台風の中心たる手に負えない暴風雨、吹き渡る烈風の化身――
 古今東西に並ぶ者なき、ご意見無用で問答無用。
 天上天下唯我独尊に喧嘩上等天下無敵のトラブルメーカー。
「メグ、ミキのことを頼んだ」
「ちょっ、どこに行く――」
 このままだと拙い。
 俺は勢いよくリノリウムの廊下を蹴って走り出した。階段を駆け下るのにフレアスカートの裾が爪先に掛かって走りにくい。三階の踊り場まで降りたところで形振り構わずそのスカートをたくし上げ、更に階下を目指した。一階へ辿り着き人波を掻き分けて進む途中、頭からリボンつきの赤いカチューシャが落ちた。
 慌てて拾い上げた時だ。
 特別教室棟の向こう、体育館へと繋がる渡り廊下の方から悲鳴の混ざったどよめきが聞こえてくる。同時に何人かがどたばたとアスファルトの教室棟裏を駆け回る音も。
「……!」
 カチューシャを握り締め、一気に渡り廊下から校舎裏へと飛び出す。
 そこに――
「――……止まれえぇぇぇこの野郎おぉぉぉッ!!」
 ――弓道場の方へと逃げていく、中等部三年生か高等部一年生と思われる男子生徒五人ほどを、怒号を飛ばしながら追いかけているムツの姿があった。
 手にしていたコーラの缶を振りかぶり、ムツは力任せに投擲する。見事な放物線を描いて一直線に飛んだコーラの缶は、背中を向けて逃げていた奴等の一人の後頭部にクリーンヒットした。当たりどころが悪かったのかそいつは頭を押さえてその場にしゃがみ込んでしまう。更に吹っ飛んだ缶はもう一人の仲間の丁度目頭に命中した後、衝撃で中身のコーラが噴射した。
 熱せられたアスファルトの上に、場違いな炭酸飲料の香りが広がった。
「止まれっつってんのがわかんねぇのかあぁぁぁッ!」
 全部で六人の仲間の内、二人が足止めされ全員の動きが止まったところをムツは見逃さなかった。ぱっと見でも軽く十メートルは離れていた距離を一気に詰めて、その間隔が四メートルほどになった時にアスファルトを踏み切った。
 ぐぐっ――と足に力がかかる音がしたように思う。
 バネのように身体をしならせて跳躍したムツは、空中へと華麗に飛び上がった。まるで世界陸上の幅跳びでも見ているかのように圧巻だった。軽く俺の背ほどは高く跳んだんじゃないだろうか。
 一番高く跳び上がったところで長すぎる脚をぐわんと突き出して。
「どおぉぉぉぉりゃあぁぁぁぁッ! ――……ライダァァァキィィックッ!」
 それはもう完璧な……ドロップキックだった。
 コーラの缶の衝撃を頭に喰らったばかりの相手がまさか疾風怒濤の如く襲いかかってきたキックを避けられる訳もなく、丁度背骨の芯にムツの上履きが刺さる。呻き声に近い断末魔を上げると彼はアスファルトの上を無様に転がり、コーラの撒き散らされたそこへ黄色い嘔吐物をぶちまけた。汚ねぇな。
 しかしながら、そんなもので動きの止まるようなムツじゃない。
 吐くものを吐いて気を失った様子の最初の犠牲者脇にひらりと降り立って、一瞬の内に体勢を立て直す。
「う、うわあぁぁぁぁぁ」
 二瞬、相手側の一人が右腕を振りかざして襲いかかったが、それは勇敢な攻撃でこそあれど、懸命な行動ではなかった。既に体勢を立て直し終わっているムツはいとも簡単にその右フックをかわし、代わりに鳩尾へとストレート・パンチを繰り出す。攻撃をかわすために軽くしゃがみ込んだ、そこから全身の力を込めて放たれた強烈な一撃……だっただろう。
 ムツよりも十センチ近く背の高そうな身体が、木の葉みたいに軽く吹っ飛んだ。
 二メートル半は――飛んだはずだ。
 続いて背後から襲ってきたもう一人に、ムツは全く無駄のない動きで肘鉄をお見舞いする。胸板の中央に鋭い一発を喰らったそいつがひるんだ隙をついて一気に身を翻すと、それより更に数倍鋭い手刀で喉を貫いた。呼吸器官に重大な損傷を受けたそいつは何度も咳をしながら、地面にがっくりと膝を突いてしまう。
 これで三人。
「ぐ」
「う、うぅ」
 残りの三人は完全にひるんでしまっていた。振り返ったムツに睨みつけられ、いずれも二、三歩後ずさりする。蹴落とされていた。
 そんな奴等から少し離れたところに人だかりができ始めている。校舎裏の騒ぎを聞きつけて野次馬共がすっ飛んできたのだ。たくさんの人に囲まれて、もう奴等は逃げ場がないも同然だった。
 距離を置かれた分だけ、ムツが一歩、進み出る。
「何だよ、もう終わりか、えぇ? 折角だ、この俺様に喧嘩売るくらいだったらよぉ――もっと、もっともっともっともっと――もっと、楽しませろや」
 ムツの目はもう何も見ていない。
 相手の姿を捉えているようで、何も見えてなんかいない。
「何だよ、来ねぇのか? つまんねぇなぁ……全然、全然つまらねぇ。あんた等から来る気がないってんなら――容赦の欠片もなく、手加減の微塵もなく、憐憫の断片もなく、同情の余地もなく、こっちから行かせてもらうぜ」
 ムツがもう一歩、進み出た。
 奴等は更に二歩、後ずさりする。
 背中が体育館棟の壁にぶつかった。
「お――おおおおおおッ!」
 窮鼠猫を噛む、とでもいったところだろうか。逃げ場をなくした彼等にできることといえば、後はほんのわずかに残った勇気を振り絞ってムツに立ち向かうことだけだった。当然、それは正しい選択じゃない。
 だって、そうして立ち向かってくることこそ――奴等を挑発したムツの、他でもない狙いなのだから。
 何も見えなくなるほどに熱くなってしまったが故の、真っ白な冷静さ。
 計算された無意識の戦闘行為。
「――」
 二人目と同じように右腕を振りかぶってきた四人目の、その腕をがっしりと受け止め、突撃の勢いをそのまま利用して脇へ投げ捨てる。その隙を突いて逃げようとしたところを見逃さず、背後からヘッドバッドを喰らわせて五人目。
 最後の一人がムツの顔面を狙って、ストレート・パンチを繰り出してくる。
 ヘッドバッドから体勢を立て直したばかりのムツが、そんな彼に見舞ったのは――軸足を中心に竜巻の如く繰り出した、渾身の回し蹴りだった。
 ハイキック気味に、まずは膝を曲げた状態で、回転脚に勢いをつける。
 ムツの脚ははっきり言って規格外に長い。相手の腕よりも短いことはましてない訳であり――相手の拳がムツの顔面にヒットするよりもずっと前に、膝先が最高のタイミングで伸ばされ、上履きの爪先が彼の顎先を捉えていた。
 勝負は一瞬。
 顎を鋭く蹴り上げられ、真後ろへぶっ倒れたそいつへとムツはわずかの間も置かずに馬乗りになった。
「――……なろおぉぉぉぉぉッ!」
 とどめを刺そうと、右腕を思い切り振り上げる。
 周囲の人だかりがざわついていた。制止を求める先生の怒声も響いていた。それでもムツは止まらない。俺の後ろから、いつの間に来たのかメグとミキが息を呑んで場を見守っている。
 駄目だ。このままじゃ駄目だ。
 こうなったらもう誰にもムツは止められない。
 止められるのは――
「――もう――」
 気がつけば俺は叫んでいた。
「もうやめろ――」
 深く息を吸い込んだ後、校舎裏に響き渡るような腹式呼吸での声で。
 そして何より――白雪姫の格好で。

「――もうやめろ、ムツっ!」

「――」
 振りかぶっていた右腕が、止まった。
 恐怖に目を見開いた相手の鼻先で拳が停止した。
 激怒に燃え上がっていた両目から徐々に闘志が抜け落ちていくのが窺える。奴の目に感情に沿った色があるんだとしたら、それはまさに、赤から青へと静まっていく感じだったと思う。
 そしてムツの歳相応にまだ幼さも残っている無駄に整った顔から、一切の表情が抜け落ちた。
 感情の欠落した顔で、止まった拳を力なく元に戻す。
「……あ、」
 何も見ていない目で何メートルも離れたところに立ち尽くしている俺を、ムツは振り返った。
「ユキ、」
 能面のように無表情だった顔に、いつものにへらっとした緩い微笑が灯る。
 一言も発することなく自分を睨んでいる俺に、ムツは何事もなかったかのような実にふざけた口調で、こんなことを言った。

「その格好、すっごく似合ってるぞ」


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