* * *

 けれど人生、山があれば天国の谷があるもんだ。
 俺がそれを感じたのは、それから数日後のある放課後のことだった。正規部員となった俺と野瀬はその時、入部するか迷っている様子の仮入部者相手にまだまだ忙しそうな先輩達を横目に、たまにバレーの基本技術をその他の新入部員達と一緒に教わりながらだらだらのんびりしていた。比率的にはだらだらの方が高かったように思うけどどうなんだろうな。本来なら先輩達も注意すべきだと思うんだが、更なる部員獲得のためそれどころじゃなさそうだった。全国に行くには新人の教育よりもまず人員確保が優先らしい。
 逆にいえば、新人教育を後回しにしても全国の常連になれるっていうんだから、日頃はよっぽど密度の高い練習をしているんだろう。
「……ちゃんと入部した俺達より、まだ入部決めてない仮入の奴等の方が優先かよー。こんな調子で全国なんか行ってるのか?」
 体育館の壁にもたれかかり休憩時間を満喫していると、隣で野瀬が仮入の奴等を軽く睨んでそんなことを言った。どうやら同じことを考えていたらしい。
 ……俺の思考はこのハイテンション馬鹿と同程度かよ。
 考えて憂鬱になり、野瀬には聞かれないように小さくため息をついた――その時だった。
「遅くなってごめーんっ!」
 聞きなれた優等生的ボイスが鼓膜を揺さぶってきた。声のした方・体育館の入り口を見れば、思った通り浜野がその優男顔に微笑を浮かべて俺達に手を振っている。隣で野瀬が「ごめんじゃねぇよ、悪く思ってんなら早く来いよ、こっちは退屈してるってのに」と笑いながら軽く悪態をつくのが聞こえた。お前はどうせ浜野をいじって遊びたいだけだろ。
 と、突っ込みの一つでも入れてやろうとしたのだが――俺のそんな考えは、浜野の後ろからやってきたとある小柄な人影を目にした途端、宇宙のどこか遠いところまで吹っ飛んでしまう。
「本当にごめんね。でも、ほら、マネージャー候補を連れてきたよ!」
 そう言って浜野に紹介されたそいつは、俺達とは違ってジャージには着替えておらず制服姿のままだった。その制服を見れば、そいつが「彼女」ではなく俺達と同じ「彼」、すなわち男子なのだと知れる。けれど、そうでなくあって欲しいと思わず思ってしまうくらいに――「彼」はとてつもなく可憐な外見をしていた。
「初めまして、」
 長い髪。長い、肩下から胸元にかけて伸ばされた、細い茶髪。野瀬ほどではないにせよ、午後の日差しを反射して輝く一本一本は日本人離れしてとても色素が薄く、そのハーフアップに纏め上げられた髪型と合わせてどうしても俺に美少女をイメージさせる。白い肌、けれど健康そうに赤みの差した頬と、野瀬とは逆ベクトルで整った綺麗な面立ちは、絵本の中からシンデレラが制服姿で飛び出してきたかのような印象だ。そして何より、その少女めいた顔立ちを決定的にしている――大きな目。高価な宝石の如く煌めく淡い色合いの瞳は、瞬きによって長い睫毛が上下する度に光の欠片となって零れ落ちてきそうだった。
 ……一瞬マジで、ここが男子校だということを忘れた。
「俺は、」
「彼」は唖然とする俺と野瀬の前で、その可愛らしい容姿に対し万人が抱く期待通りだろう声変わりしきっていない澄んだ幼い声で、そう第一声を放った。
「服部実紀。『みき』って書いて、『さねのり』なっ」
「……」
 俺と野瀬はしばらくの間呆然と服部を眺めた後、次にその隣に立っている浜野を眺め、続いてお互いの顔を確認し、それから再び服部に視線を戻した。
「あの、失礼ですが、」
 野瀬が口を開く。
 俺もその先の台詞を野瀬と異口同音に言った。
 ……小指だけを立てた右手を差し出して。

「浜野の『コレ』で?」

 * * *

 もちろん違った。
 当然だ。字面の割に「さねのり」なんて固そうな名前を持ち男子校の制服に身を包んだ奴が、例えこちらの下半身が骨抜きになりそうな可憐な外見をしていようとも少女である訳がない。いや、そうでも構わないが……キュートな美女が性別を偽り男子校に潜入なんて、決して嫌いなネタじゃないんだけどな。
「あははっ、俺のことを彼女にしようなんざ百億光年早いぜ〜っ?」
 浜野に言われて部室でジャージに着替えて再登場した服部は、俺達の台詞に対して外見とはそぐわない豪快な笑い声を上げてそう笑った。折角美人なのにもったいないとも思ったが、なのにその笑顔を見てると癒されるような気がしてくるのは神様これは一体どういう仕組みなんですか?
 服部は俺や野瀬・浜野の隣のクラスに所属しているらしい。これは後で知ったことだが、組織の雑用管理や事務仕事が好きで、入学当初は生徒会本部の書記会計を希望していたとか。図書館で出会った浜野が、その能力とやる気を見てスカウトしたんだそうだ。しかしまた浜野は図書館で部員を引っ掛けたのか。いっそキャッチセールスにでもなったらどうかと思わなくもない。
 ……ところで実紀君、百億光年は時間ではなく距離です。
「で、どうする? バレー部入る?」
 その日の活動を一通り終えて、すなわち服部の仮入部が終わって着替えるために部室に戻る際、後ろをぴょこぴょこと愛らしい動きでついてくる服部に浜野が尋ねた。服部はこれまた可愛らしい仕草で小首をひねると、それから満面の笑みになって大きくうなずく。
「うんっ、まだ一年じゃマネージャーやろうって奴はいないんだろっ? だったら勢いで入っちゃおうかなっ。それに、」
 それに何だ?
「面白そうな奴等もいるし! 決めた! 俺マネージャーやるよっ」
 素晴らしい即決具合だった。ここまでさっぱりとしていると、こっちの気分まで晴れ晴れと爽やかになってくるから不思議だな。
「そっか! また一人仲間が増えたな! ……んじゃ、お前は『実紀』だから『ミキ』ってこって!」
「うわー、お前ヤな愛称つけやがんなーっ!」
 野瀬がまた訳のわからないことを言って、服部はそれに笑いながら突っ込み。そうこうしている間に俺達は部室へと辿り着き、早く帰路につくためにも中に入って早速制服に着替え始める。登下校中はいかなる事情があろうとも必ず制服を着用するようにという校則があるからだ。
「俺はムツで浜野はメグで、そんでこいつはユキで、……」
「お前のネーミングセンスって実は単純っ?」
 無駄としか思えないことをべらべらと話しながらワイシャツを羽織る野瀬の隣で、服部も着替え始める。ジャージを脱ぎ、活動中は浜野同様ポニーテールにして上げていた髪を解き、そして、体操服のTシャツを脱ぎ捨てた。
「……っ」
 その下から現れたのは、当たり前なのか残念なのか不明だが、やっぱりというか意外というか、真っ白でしなやか、肉つきがあからさまに薄くほっそりとした、そして胸囲に特別なふくらみのない、けれどどこか扇情的な――矮躯だった。細い肩にさらりとかかる長い髪が、部室の照明を受けて妖艶に光っている。
「ユキ? ……どうした? 顔赤くなってんぞー?」
 ほっとけ野瀬。
 そして服部よ、……すまん。

 俺の学校生活に潤いの追加が約束された日。
 それが、服部実紀――通称・ミキとの出会いの日だ。


←Back Next→



home

inserted by FC2 system