* * *

 気だるい授業が四時間終わっての昼休みは、俺の場合教室でムツを背中に引っつけながら(当然俺がつけたくてつけている訳ではない、奴が勝手にくっついてくるのだ)読書をするか、さもなくば図書館をうろついて本を探すかのどちらかで、最近に限っては後者の手段で食後の二十分を過ごすことが多い。たまにムツとメグもついてくるがそれは本当にまれなことで、よって俺の行く先が図書館から音楽室に変わっても大した問題にはならなかった。まして俺は図書館に行くのと同じに文庫本を五冊抱えて教室を出て行くのだから、ひょっとしたら二人とも俺の行く先が変わったのを知らない可能性もある。
 そうして赴いた音楽室で、シズのピアノ演奏をBGMに読書をするのが、俺の新たな昼休みの過ごし方になった。

 午後になりたての日差しが眩しい音楽室には、滅多に台詞は響かない。代わりに響くのはピアノの音――俺が座って読書する前でシズは「革命」「幻想」の楽譜と終わりなき睨めっこをし、俺は時にそれを観察しながら文庫本を斜め読みするといった具合だ。
 シズのピアノは毎日聴いていると、だんだんと完成していくのがよくわかる。前弾けなかったフレーズがすんなりと出るようになった時には俺も自分のことのように満足感を抱くし、その日も弾けずに終わってしまうフレーズがあったりすると同じようにがっかりと思う訳だ。そんな弾けない部分が日に日に減っていくのを聴きながらの読書は、どうしてなかなか悪くない。
 ……選曲が選曲だから、どうしてもおどろおどろしい雰囲気のある曲ばかりが流れるのは仕方ないけどな。それでも「幻想」には穏やかなラルゴ・モデラートカンタービレが存在するし、上手いピアノはいかに激しかろうとも聴いていてさほど毒にはならない。苦にはなるがそれは曲の性質上、不可抗力だ。
 これすなわち、シズのピアノは「E級も満足に弾けない落ちこぼれ」なんて割には上手いということである。
「……『革命』、それに『幻想』、ねぇ」
 某楽譜出版社が半ば勝手にランクづけした曲の難易度、それぞれF級とE級。
 F級は最上級の上級上、E級はそれに次ぐ上級に位置づけられているから、それを見てもシズは相当な難易度の曲を弾いていることになる。どちらも「ピアノの詩人」と呼ばれるショパンの代名詞たる曲だ、あるいはその難易度は当然か。
「ショパンの書いた曲が、旋律といい曲想といい構成といい、ずば抜けて素晴らしいのは認めるよ」
 これについてシズは、憮然とした表情で先日俺にこう言っていた。
「だけど……ピアノが歌える最大限を基準に書いてあるから、そもそも並みの人間が弾けるようにはなっていないんだ。練習曲といいつつも彼の曲は練習と呼ぶには難しすぎる。『革命』や『黒鍵』を含む作品十番・十二のエチュードは、どんな曲も大抵は初見で弾けたっていうピアノの天才・リストですら、初見で弾けなかった」
「……へぇ」
「それが悔しくて、彼はしばらく猛練習した後にショパンの前で十二曲全てを完璧に弾いてみせたらしいけどね。でも、僕は残念なことにリストじゃない」
 最後の台詞には痛烈な皮肉がこもっているような気がして、俺はその時肩をすくめ無理に流してしまったのだが。
 ふむ。
 常人なら心が屈折した末後退を始めるようなんな曲を二曲も、よくも毎日音楽室で一人黙々と練習できるもんだな。
 ……ん?
「一人」?
「おい、シズ。そういえばお前、ミナはどうしたんだ?」
 気になった直後、丁度シズのピアノが止まったので久方ぶりに会話を試みた。ミナ、堺湊は曰くシズの小学校からの友人だ。エレメンタリー入学当初からずっと同じクラスだったという二人は今現在もクラスとバレー部の所属チームが同じなため、日頃よく一緒にいるのを観察できる。真面目で妥協を許さないシズと何を考えているかわからない不思議系のミナのコンビは俺達にどこかちぐはぐな印象を与えるが、不思議と馬が合うらしい。
 そのシズの相方たるふわふわした茶髪を、思えばずっと見ていない。
「来てないよ。今は多分、教室で購買のパンでもかじってるんじゃないかな」
「……そりゃ、まぁ」
 ここにいないんだからそうなんだろうっていうのは、いくら何でもわかる。確かに社会のテストは常に赤点ぎりぎりを低空飛行しているが、だからってそこまで馬鹿な脳みそじゃないぞ、シズ。
「そうじゃなくて。お前等、基本いつも一緒にいるだろ。どうしてミナに教室で一人パンをかじらせてるんだ?」
「湊は来たくないから来ていないんだ」
「……何で来たくない訳?」
「僕の弾くピアノが嫌いだから」

 ――――。

 シズのどこか憂鬱色をした返答は、あまりにも簡潔だった。
 簡潔だったからこそ、俺は面食らう。何だって、シズのピアノが嫌い? あのミナがそう言ったのか?
「まぁ、初めて会った時からずっと、大して上手くもないどころか下手くそなピアノを聴かされ続けてきたんだから、当然と言えば当然だけどね」
 シズは冷めた口調でそう言うが、どうにも納得いかないな。
「ミナがそう言ったのか?」
「ああ。小四の時かな……受験を始める前だから、そうだね。湊に直接『自分の前ではピアノを弾くな』って言われた時から、練習であろうと発表会であろうと、聴かせてないよ」
「どうして? 仲いいんだろ、お前等」
「この際仲のよさは関係ないんだ」
 シズの台詞には、何か悟りきったような、一種諦めの混じった冷たい響きがあった。
「問題は僕のピアノが湊にとって聴くに耐えないか否か、それだけだよ。湊は僕のピアノは一時たりとも聴いていられないって言うんだ。……嫌なものを聴かせてもしょうがないから、こうやって一人で練習しているのさ」
 シズは小さく吐息を零す。どことなく疲れているかのような印象をこちらに抱かせる、短いため息だった。その後で、シズは鍵盤に指を乗せると、おもむろに奏で始める。
 ゆったりとした曲想の、けれどしっかりと華やかさを味わわせる旋律の曲だった。アルペジオがそこかしこにちりばめられているその曲は、シズからすれば大した難易度の曲ではあるまい。六分の八拍子のリズムは曲想によって雰囲気を変え作曲者の才能の非凡さをうかがわせるが、俺は知らない曲だった。さほど有名ではないんじゃないだろうか。が、表情豊かに演奏するシズの様子は、その曲が彼にとって弾き慣れたものであることを示している。
 ふわりとした印象のフレーズをリピートした後、どことなく悲愴的なものを思わせるスタッカート交じりのフォルテへ進み、また最初のフレーズが再現される。そこに続いて現れる高らかなユニゾン――最後には再び最初のフレーズが繰り返され、たくさんのアルペジオが微かにリタルダンドして緩やかに、フェルマータで曲は終わった。
「……いい曲だな」
 思ったところを素直に述べてやる。シズは微かにうなずいた。
「ランゲの代表作、『花の歌』だよ」
 告げられた曲名はやっぱり俺の知らないものだった。というか、ぶっちゃけていえば作曲者の名前すら知らない。ランゲさんには大変申し訳ないが、あまり有名な人じゃないんじゃないか?
「そうだね……確かに有名どころからは遠い人だろう」
「他に代表作は?」
「『アルプスの山小舎にて』とか、あとは……そうだな。『荒野のバラ』とかいう曲があったはずだ。セレナーデも書いていたと思う」
「知らんな」
「そうだろうね」
 シズは相変わらずのぶすっとした表情で言うと、ピアノの向こうにある本棚を指差した。そこには楽譜と思しき、俺にはあまり縁のなさそうな書籍が並んでいる。
「そこに、ピアノピースのベスト版で『花の歌』っていう楽譜集があるだろう? それに載っているよ」
「これか?」
 言われた楽譜集を見つけ手にとって目次をめくると、わかりやすいことにも一番初めにその曲名が記されていた。楽譜集の題名になっているような作品なのだから当然という考え方もあるが、とりあえずすぐ見つかったのはありがたい。
「……ん?」
 開いた「花の歌」の楽譜は、俺が予想していたよりもはるかに簡単な楽譜だった。
 シの音がフラットで長調だから、すなわちヘ長調。レント・緩やかに――六分の八拍子は右手のアウフタクトから曲が始まっており、エスプレッシーヴォ・表情豊かにというまさにシズが従っていた指示が施されていた。一オクターブを弾く中盤に苦労はするだろうが、全体はさほど難しくないだろう。
「お前にしては随分簡単な曲だな」
「B級だからね。今となってはそりゃあ、簡単だよ」
 ピアノのところまで楽譜を持ち帰りつつ言うと、シズは黒い髪をさらりと揺らす。
「昔、『エリーゼのために』がやっと弾けるようになった頃くらいに、教室の同級生が弾いているのを聴いてね、好きになったんだ。そりゃあ猛練習したさ……探せば楽譜が残ってるんじゃないかな。どうしても弾けるようになりたくて、書き込みだらけにした楽譜がね」
 ピースが並べられている上から楽譜を置いてやると、シズはその最上段に目をやってから、五線上の音符を追いかけつつ再びピアノを奏でた。華やかな空気が再度、音楽室に満ちる。
「……湊の奴が、好きでね。よくせがまれた」
 一番目のテンポプリモ・最初の速度で演奏するようにとの指示の直前まで弾いてから、シズはその指を止めてぽつりと呟いた。
「僕も何となく、雰囲気がね、湊らしい気がして……何かにつけて弾いてたな。B級の頃だから、もう小二かそこらの話になる訳だけど……今でも、気がつけばクセで弾いてる」
「思い出の曲な訳だ?」
「そんな感じさ」
 もう一度譜面を目で追ってみる。その内じっとしていられなくなった俺は、シズが陣取っている中央から右寄り、すなわち高音部の鍵盤に右手を置いた。思えば触るのも随分久しぶりだな。多少震える手を叱咤しつつ、主旋律を弾いてみる。
「……弾けるのか、ユキ?」
「『エリーゼ』くらいまでならな。それこそ小四の時に受験がきっかけでやめた」
 秘密だぜ。大したことない技量なもんだから、恥ずかしくて誰にも言えないんだ。ムツやメグにも話したことはない。話したとしても、それはずっと先のことになるだろう。
「……。道理で、やたらとわかったように聴いてると思ったんだ」
「バレてたか」
「知識の有無を見れば、少なくともやっていたかいなかったかくらいはわかる」
 敵わんな。そんな思いを込めて肩をすくめると、シズは椅子の上を若干左へずれて俺に中央を譲ってくれた。ありがたく長い椅子の隣に座らせてもらって、左手も鍵盤に乗せる。シズに比べるとあからさまにつたない、自分でも嘆きたくなるような指さばきで鍵盤を叩くと、叩いた通りにぎこちなく弦が音を立てた。両手を合わせて弾くのはかなり久しぶりだ。
「なかなか上手いじゃないか。ユキは筋がいいな」
「そりゃどうも。先生にはついに一回も言われなかった台詞だ」
「そうかな?」
 ああ、言われたことないね。これほど飲み込みの悪い生徒も初めてだと言われたことはあるがな。小一なんてかなり遅い時期から始めたんだし仕方ないと思うんだが。
 一小節弾いては止まるを繰り返しながらそう言うと、隣からくすりと笑い声が聞こえた。手を止めて見ると、シズが頑なだったその顔に珍しく苦笑を浮かべている。
「結構無茶を言う人だったのか?」
「まぁな。ここの和音は指が届かないって文句言ったら、じゃあ指伸ばせって言うくらいには無茶苦茶な人だった」
「ああ……それって、もしかしてこうやって?」
 言うとシズは、右手の親指を自分の顎に引っ掛けて、手を大きく広げた上に左手で小指を掴んで下に引っ張るようにした。そう、それだ。俺も同じように左手を広げながらうなずく。
「そうそう。風呂の中でな」
「僕も言われたよ。『トルコ行進曲』弾くためにどうしてもオクターブ届く必要があって、そうやって教えられてね。必死こいて毎日やってたな」
「俺も悔しくて、言われた日からムキになってやってた」
「あっははっ」
 音楽室に思いもしなかったシズの明るい笑い声が響いたので、俺は柄にもなく驚いてしまった。そういえばシズの弾けた笑顔というのは出会ってこの方見たことがない。つまりこれは、実質俺が初めて見たシズのはっきりとした笑顔だった。
 ていうか。
 あのお堅いシズも、いざとなればこんな風に笑うのか……
「……お前らしいな」
「え?」
「そうやって楽しそうにしている方が、シズらしいと思う」
「……っ」
 指摘すると、何が気に喰わなかったのかその笑みを追いやって、元の気を張ったシズにすっと切り替わってしまった。素で笑ったのが恥ずかしかったのか? 顔に赤みが差してるってことは、多分そうなんだろうな。
「……大体、僕らしいって何なんだよ」
 拗ねたような口調で、シズは「花の歌」の楽譜を押しのけ、ついでに隣の俺も椅子から軽く押し出す。
「能天気に好きな曲ばっかり弾いて、馬鹿みたいに笑ってればそれが僕なのか? ……もう、わかんないや」
 その不機嫌さながらの口調は作り物だろうが――
 何となく、最後の台詞とため息だけは他でもないシズの本音であるように聞こえて、俺は顔をしかめた。
「花の歌」……か。
 譜面台の上の閉じられた楽譜集が風で開き、シズが苛立たしげにそれを押さえつけた。


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