* * *

 が、翌日になると、そんな殺伐としていながらもどこか平和的な音楽室の雰囲気に暗雲が立ち込めるようになった。
「よう」
 昼休みになって、飯を食い終わった俺は文庫本をお供に今日も音楽室まで足を運んだ。しかし、中にいるだろう人物に向けてそんな軽い挨拶をかけつつドアを開けようとすると、そこには錠が施されている。すなわち中には誰もいないということだ。珍しいことがあったもんだな。シズは大抵、俺が昼食を終えて来る頃には楽譜と対決を繰り広げている。
 まぁ、その内来るだろ。
 特に気にせず、防音性のドアの脇で立ったまま読書を開始した。俺は基本、観光バス以外ならどんなシチュエーションでも本を読むことができる。どうして観光バスが駄目かって言えば、そりゃ当然、酔うから。ちなみに雨や雪や暴風の中は論外だ、読める読めないの問題じゃない。本が傷むから、良い子のみんなは読んじゃいかん。
 ……いい感じに本の中の世界に入りかけた頃だった。
「やぁ。お待たせ……」
 かかった声に顔を上げると、シズだ。特徴的な少年らしい艶を持った声はそれなりに耳につくからすぐわかる。俺は本を閉じて、先ほど音楽室に入ろうとした時には受取人不在だった「よう」を改めて届けた。シズは心なしかおぼつかない足取りでこちらに歩いてくる。
「遅かったな」
「監督ともめてね」
 鍵を開けつつ、シズは疲れたように短く嘆息した。
「昼休みに来るように、って朝のホームで言われて何かと思って出向いたら、チームリーダーを変えろ、だってさ。今更何を言っているんだろうね」
 シズは小柄な体格ながら、Dチームで立派にチームリーダーを務めている。その几帳面な性格を買われたんだろうが、それが今、発表会直前になって問題になっているらしいな。
「僕が発表会前は練習に出られないって、最初から知ってたはずなのにね……困ったもんさ。あの監督はバレー技術は流石、部を全国に行かせてるだけあって一流だけど、人間性は中学生よりも劣ってるんじゃないか」
「それで? どうなった」
「僕がいない間のチームは、他の三人で何とかしてくれてる。マネージャーがいないから大変みたいだけどね。だから、その三人が変えようって言い出すまでは必要ないだろうって、言っておいた」
 Dチームは、他に三つある一年生のチームと違ってマネージャーが存在しないチームだ。五月初めのチーム決めの際に一年のマネージャー人員が三人しかいなかったからだが、それ故本来マネージャーがやるべき仕事をチームリーダーを始めとして普通の選手がやらなきゃいけない、とか。
「だからこそ、本来は僕がこんなんじゃいけないんだけどね……」
 シズは音楽室へ入ると窓を開け、風を入れたところでいつものようにピアノの準備にかかる。今日は時間も残り少ないからか、天板は開けないようだ。一度手をかけて持ち上げようとしてから、シズはそれを断念した。
「もっと練習に出て、みんなといた方がいいんだけど。僕もそうしようと努力はしてるけどね。難しい」
「……。なぁ、シズ」
 俺は前々から気になっていたことを聞いてみることにした。何となく、今なら聞けそうな感じだ。
「何でお前、バレー始めたんだ?」
「……何でって?」
「だってお前、ピアノ習ってるし、忙しいだろ。それはもう昔からのことで……こういう風になることなんか、わかってたんじゃないか? 何で無理矢理、自分の首を更に締めるようなことしてるんだよ」
「……首を締めてまでは、いないと思うけど」
 シズは複雑そうな顔を作り、譜面台に楽譜を広げてから椅子に座って、しばしの沈黙の後にぽつりと呟いた。
「せめてもの罪滅ぼしかな」
「罪滅ぼし?」
「湊にだよ」
 窓から吹き込んできた風が前髪を揺らして、シズの目元を隠す。
「そもそも、バレーをやりたいって言い出したのは湊なんだ。昔、散々僕のやりたいことに無理に付き合わせてきたからね……今度は僕の番。湊のやりたいことに、いくらでも付き合うことにした。それだけだよ」
「……そうだったのか」
「それでもこんな状況で、一緒に練習さえできないっていうんだから、世話ないけどね」
 それよりも。
 そう言って、シズは視線を上げた。落ちてきていた前髪が払われて、目元が露わになる。
 今日になっては初めて見た、シズの目。
 いつも通り厳しいその目つきは変わらないが――そこに黒々とした隈が刻まれているのを、俺は見逃さなかった。
「それよりも……どうしても弾けない部分があるんだよ。今はそれの方が問題だ……」
 ぶつぶつと呟きながら鍵盤に手を乗せるシズは、悪夢でも見ているかのような顔をしていた。

 その暗雲が嵐に変わったのは、更にその翌日のことだ。
 一昨日の放課後に借りた五冊を読み終わってしまい、返却と新しい本の貸し出しで図書館まで出向いていた俺は、いつもより少し遅い時間に音楽室に向かった。ついでに購買でコロネの購入もしてきた俺は、何なら今度シズに好きなパンでも聞いて買ってきてやるか、などと考えつつ、ドアのノブに手をかける。
 ドアが開かなかった。鍵がかかっている。
「……おかしいな」
 昨日のようなことがない限りは、シズはこの時間にはもう来ているはずだ。もう一度だけドアを開けようと試みるが、結果は同じことだった。開かない。
 本当にいないのか?
 ドアに耳を押し当てた。ピアノの音がする――「革命」だ。
「馬鹿が」
 いるじゃねぇか。まさか鍵をかけて練習しているとはな。折角ここまで来たのを教室に直帰では来た甲斐がないので、俺はドアを何度か強く叩く。ドアを開けようとする音よりは、わかりやすいだろう。
 案の定、しばらくしてドアが開いた。
「……ごめん、鍵、かけてた」
 が――そうして出てきたシズに、俺はかける声を失う。
 昨日よりも黒味を増した隈。一日しか経っていないにも関わらず、シズはあからさまにやつれたように見えた。顔は蒼白。表情はどこまでも虚ろで、瞳には明るさが一切存在していない。
「おい……大丈夫か?」
「何が……?」
「何がじゃないだろ。酷い顔してるぞ」
 指摘すると、シズはそこで初めて気がついたような顔をする。ああ、と言って、それから頼りない足取りで音楽室へと引っ込んだ。
「ここ五日間くらい、少し寝るのが遅くなってるからね……」
「少しってどれくらいだ」
「そうだな。昨日は、三時過ぎに寝た」
 遅い。
 はっきり言って遅すぎるだろ、それは。
「そんな遅い時間まで弾いてて平気なのか」
「平気だよ。うちのは電子ピアノだから……ヘッドホンで練習できる。近所迷惑には、なってないよ」
 違ぇ。こいつ、わかったような顔でうなずいておきながら本当は全然わかってない。俺が聞きたいのはお前の近所の騒音事情じゃなくて――
「『幻想』の暗譜は、何とかなった……あとは『革命』だけだな。早く、仕上げて……部活にもちゃんと出ないと、」
「おい……シズ?」
「部活に、出ないと……チームが、」
 ゆらりと――
 その小柄なワイシャツ姿が、揺れた気がする。
「チーム……が。みな――と」
 気がした瞬間には、もう、遅かった。
 シズの身体が大きく傾く。ぐらり、という大げさすぎる効果音が聞こえたように思えた。
 最初は世界が湾曲したか、さもなくば俺の視界が歪んだんだと思った。あの性格も佇まいもしっかりとしたシズが、そうも簡単に揺らぐはずがない。そうだろう? でも違った。全てがスローモーションのかかったように見えていた。一秒がこんなにも長い。そのあまりの長さに蜃気楼のような不快感さえ感じて、俺は思わず目を細めた。そんな俺の、本当に見ているのかわからないような目の先で、シズはそのまま、何かの名作ドラマにおいて気を失って倒れるヒロインのように――
 ぱたりと。
 あまりにも軽すぎる音が床を打ったところで、俺は我に返った。
 何が起こった?
 考えて直後、ざわざわと嫌な胸騒ぎがする。
「……シズ?」
 床に倒れている黒髪の美少年に、恐る恐る声をかけた。
 返事はない。
 返事はない。
 返事はない。
「おい――シズ!」

 大橋静流は、音楽室の床に、沈んだ。


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