* * *

 俺が呼んできた保健の先生やらその他大げさな人数の教師によって保健室に運ばれたシズが告げられた病名は、何というかまぁ、単純に気を失っただけだった。貧血もどきと思ってくれたらいい。
 普通な病名だったのでほっとする。これがクモ膜下出血とか脳溢血とかやばい病気だったら、倒れた瞬間傍にいた俺としてはいかにも寝覚めが悪いからな。倒れられるだけならまだいいが、妙な後遺症が残ったり最悪死んでしまったりした場合には、俺はシズに対して常に影を帯びた思いを抱いて生きなければならなくなる。平穏無事で真っ当な人生を送りたいと思っている俺は、当然そんな羽目にはなりたくない。ともあれ俺が言いたいのは、シズがその後大事を取って早退したこと、そうして早退できるくらいには無事で何より、ということだ。少し休めばあっという間によくなるらしいので、一安心である。
 が――奴が倒れたまさにその時傍にいた俺としては、その一安心は本当の安堵からは程遠い。
 六時間目が終了し、部活の時間。
 練習中、バレー部の活動場所たる体育館で、セッター・ムツがネット際に上げた相変わらず変なタイミングのトスを打ち続けながら、俺はずっとそのことを考えていた。
 シズが最後、うわ言のように呼んだ名前はミナ、堺湊のもので間違いない。同時に奴が最後の最後に心配していたのは、自分の発表会のことではなく――自分にとっては二の次なはずの、自分のバレーチームのことだった。何故? 疑問に思うのは、シズが倒れるまでピアノの練習を重ねていた、その理由だ。
 俺はこれまで、シズが根を詰めて音楽室に足を運ぶのは、自分のピアノ曲を発表会に間に合わせんがためだと思っていた。今でもそう思っている。だって、年にそうたくさんはない発表会に曲が間に合わなかったら、そりゃあ大ごとだろう? もう十年も習い続けているというシズへの期待は大きなものだろうし、それに応えるためにも、未完成ですすいませんでは到底許されないはずだ。
 けれど……倒れる寸前、果たしてシズは何と言った?
「早く仕上げて、部活に出ないと」。
 俺の聴覚が変になっていなければ、シズはそう言った。「幻想」は暗譜もでき、あとは「革命」を仕上げるのみ。そうして早くに曲を仕上げたい理由に、あいつは――自身の発表会ではなく、部活を挙げたのだ。
「……なぁ、ムツ」
「あん? 何だい、相棒?」
 声をかけると、ネット際をDクイックトスを上げる左端へ移動しつつムツは普段通りの間抜けな声で返してきた。
「お前、水泳を習ってたんだろ」
「んー、そうだな。それが?」
「それをだな、仮に今もお前が習い続けていたとする。その上で、バレー部にも所属しているんだと仮定してだ――近い内に水泳のでかい大会があって、それで好成績を残すためにも、部活を休んで水泳の方の練習に行くよな?」
「仮定形ばっかりの話だな、おい。……まぁ、多分行くだろうな」
「それで、早くにいいタイムを出せるようになりたいって、根を詰めて練習に通って体調を崩す理由があるとすれば、それは何になる?」
「そりゃあ、いいタイムを出すためだろ?」
 いまいち俺の言いたいことがわからないらしいムツは、バックトスを上げつつ語尾にクエスチョンマークを付属した。あのな。俺は本来ネットの向こうに打ち込むべきそのボールを、ムツの背中に向かって叩きつける。
「痛ぇーっ! てめぇっ、何しやがるっ」
「俺が聞きたいのはそういうことじゃない。……そうして、身体を壊す危険性を孕んでまで一生懸命に練習して、いいタイムを出す、その目的だ」
「えぇ? 普通に考えて、大会でぶっちぎり優勝するためだろ?」
 普通そうなるよな。俺もそう思う。
「ん……ん・んー、いや。違うな」
 ところが、一人で納得しかけうなずいていた俺の向こうで、ムツが床にボールを転がしたまま考え込むようなポーズをしてそう呟いた。軽く首をひねり、否定に値する言葉を放ってくる。
「違う。ユキ、さっきのは撤回だ。今の俺なら、優勝のためだけにはそこまで頑張らねぇと思う」
「……どういうことだ?」
「例えばだ。まー、ちょっとばかし自惚れた台詞になるけどさ? 俺がその水泳の練習に出るためにこっち、バレー部に来なくなったら、お前等正直困るだろ?」
 何せチームに一人しかいないセッターな訳だから。
 というムツの台詞は、確かに普段なら何自惚れてやがると頭の一つでもはたくところだが、奴の顔があまりにも真剣だから、俺はそれすらもできなくなる。
「つーのは、俺がチームにとって有能だからとかそういう話じゃなくて……例えばそう、メグだ。あいつ、このチームで全国に行きたがってるだろ? 練習を休むっつーんは、それを粗方裏切ることになる。そりゃ、Aチームの奴等くらい俺達が優秀なら、何の問題も異常発生しねーよ? だけど、どうよ。俺達Cチーム如きの実力じゃ、練習もろくにできないようなら全国のコートなんて夢のまた夢だろ」
「……まぁ、そうだな」
「俺は正直、バレーが面白くて部にいるお前等が好きだから、ここに入部届出してるだけだよ。全国なんて行けなくたって困らないどころか、ぶっちゃけあんな面倒くさいそうなところは願い下げな部分もある。……でもメグは違うだろ? ついでにミキも、それからお前もな。みんな、本気でこそなくても、少しくらいは全国のレギュラーにって思ってるはずだ。違うか?」
 違うと言ったら嘘になる。
 行けなくても困らないが、折角毎日時間を割いて練習しているんだ。成果として、なれるものなら全国大会行きのレギュラーになりたい。
「だろ。……俺が長い期間、所詮は自分の都合の水泳で休んで、お前等の練習を阻害、でもってお前等のそんな『夢』を壊すなんて、俺は絶対に嫌な訳。ちゃんと、お前等の『夢』を実現するためにも、バレーの練習に出たいって思うんだよ。そうなれば、あとはえーっと……四段小龍包?」
 自信ないが、それはもしかして三段論法と言いたいのか?
「そうそれ。……バレーの練習に出たい、でも水泳でいいタイムを出せるようにならないとバレーはできない、よってバレーやるためにも無理してまで水泳でいいタイムを出す。……今の俺に、躍起になっていいタイムを出そうとする理由があるんなら、多分それだろうな。ぶっちぎり優勝は二の次だ」
「――そうか」
 シズは――
 自分の小学校からの友人にして、親友であるミナに、ミナがやりたいと言い出したバレーで全国大会に行かせてやりたいのだ。そのための練習を、自分一人の都合で滅茶苦茶にしたくないんである。
 Dチーム全体は、はっきり言って俺達一年生の中で最も全国のレギュラーに遠いチームだ。そこにただ所属している限り、ミナが全国への切符を手にすることはまずないだろう。
 中学に入って、バレーをやりたいとシズに言ったミナ。
 罪滅ぼしだ、とシズは言っていた。
 今度はシズの番なのだ。
 それまで、自分のこと・ピアノに否が応でも付き合わせてきた、ミナに対する――償い。
 ミナに付き合って、ミナのやりたいことをやりたいように、やらせる。
 願わくば、全国へ。
「で……そういう感じの理由なんじゃねーの? シズが無茶してる理由」
 そう声がして、俺はムツを振り返った。ボールを拾い上げたイケメン面は何でもないような平然とした顔をしている。
「……知ってるのか?」
「シズが部活に来てないのはな。で、お前がそんな話するから。それってシズのことだろ? 水泳はピアノ、バレーはそのまんま。そうやって考えりゃ、何となくわかる」
「……」
「シズの奴、どうしたんだ?」
「倒れた」
 ここまできてしまえば、ムツにはどんな言い訳も通用しない。俺は正直に話すことにした。
「体調を崩してな。今日の昼休み、音楽室で。……保健室に運ばれた後、早退した。大事には至らなかったけど」
「そりゃあ……まぁ……」
 驚いたのか、ムツが目を丸くする。そしてすぐに、目つきは険しくなった。
 ムツがこんな顔をした時の次の台詞は大体わかる。多分――
「ユキ。これまでのこと、全部話せ」
 ほらな。こいつなら、そうくると思ったんだ。
 俺はうなずいて、休憩に入ろうとコートを先に出た。


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