* * *

 翌日。
 先生に聞いた話では、シズは今日も大事を取って休んでいるそうだ。昼休みに行くところをなくした俺は、久々に午後のひとときを教室で過ごすことになった。
 文庫本のページをめくっていても、何故か心が嫌に騒ぐ。ムツもそんな俺の背中にはくっつかず、隣の席で眉をひそめた似合いもしない表情を整った顔に浮かべており、メグはその後ろの席で目を伏せながら机に頬杖をついて黙っている。どうにも落ち着かない――それは俺から全ての話を聞き出したムツとメグも同じようだった。

 その日の放課後。足取り重く教室を出た時のことだ。
「……あ」
 メグのそんな感嘆符で、俺とムツは自然廊下の床を見つめてしまっていた目を上げた。見ると俺達の先で、E組の教室からミナが出てくるところだ。俺達と同じように肩からエナメルのスポーツバッグを下げたミナは、一歩を踏み出したところでふとこちらを振り返る。ゆるくウェーブのかかった茶髪が揺れた。俺達の視線に気がついたらしい。
「……ムツか」
 そう先に声をかけたのはミナの方だった。いつもならそんな口を開くことさえ珍しいミナの傍には必ずシズがいるのに、そのシズがいないだけでこんなにも違って見えるものなんだな。
 しかし、そうしてミナが発した言葉はそれだけだった。次の瞬間には俺達に軽く手を振り、部室へ向かうつもりか階段の方へと歩き出す。
「ってめぇっ」
 そんなミナを、走っていって引き止めたのは、やっぱりというか、ムツだった。
「てめぇ……ふざけた真似晒してんじゃねーぞっ!」
 ムツはミナの胸倉を掴むと、唐突にそう怒鳴った。乱暴にミナを揺さぶる。いきなり掴まれたミナとしては何が起こったのかわからないらしく、何を考えているのかわからない瞳に余裕のなさそうな表情を見せた。
「全部! 全部全部ぜーんぶっ! お前のせいだ! お前のせいで……お前のせいで、シズは……っ!」
 感情が暴走しているのか刹那的に言葉をぶちまける、そのムツの言葉の一部に、ミナはその目を大きく見開いた。滅多に開かないその口から、小さな疑問符が零れる。
「静流が……?」
「とぼけんなっ!」
 そんなミナにも、ムツは容赦なく怒鳴り散らした。
「あいつがっ……あいつがどんな思いでピアノ弾いているか、知りもしないで! そいでいてのうのうと無表情こいてんじゃねぇ! 苦労して、努力して、倒れるまで! そうまでしてシズが、お前を全国に行かしてやろうとしてるのを――知らないとは言わせねぇからな! おい、聞いてるか!」
「……」
「みんな! みんな、お前の台詞でおかしくなったんだよ! 『自分の前ではピアノを弾くな』だぁ? 何様のつもりだ! 神様仏様、湊様か! 聞いてるこっちが赤面すらぁ! ……あいつはお前の言う『あれごとき』に色んなもんを賭けてるんだよ――お前の全国行きすらもな!」
 ムツは――
 もう、猛烈に怒っていた。
 そのあまりの勢いに、止めようとしたのを忘れてしまう。
「何を勘違いしてやがったんだよ昔のお前は! 何だ? シズのピアノはあいつが自分でやりたくてやってるだけの自己満足か? そうとしか思わないか? とんでもない耳障りか? ああそうかよ! ……ふざけんなっ! マジモンの阿呆かこの野郎っ!」
「……」
「んな酷いこと言ってのけたお前なんかのためにな、シズは倒れるまで努力してたんだよ! あいつが自分のピアノのことで部活休んだら! そしたらお前がろくな練習できなくなるから! ……全国に行きたがってるお前にとって、練習できないことがどれだけつらいか、わかってるから! 早く曲仕上げて、部活に出るためにも! だから、間違って身体壊しちまうまで根詰めてたんだよっ!」
「……」
「お前だってあいつと伊達に六年付き合ってる訳じゃねーだろうがっ! あいつの目元に隈ができてたことくらい気づけ、そして察しろ、察して止めろ! 自分のことをそれ以上なく思ってくれてる奴のことくらい労われ! 自分は関係ないみたいな顔してんじゃねぇぞ!」
「……」
「『自分の前ではピアノを弾くな』とか抜かして、シズのこと傷つけて、それなのに自分のためにあいつが努力してんのも知らないで、罪滅ぼしだって自分のことを責めてるのにも気づかないで、倒れそうなの見ても関係ないみたいな顔して! それで友達? 笑わせんなっ! 相手の優しさに気がつけないで、何が友達だ! 相手に優しさわけてやれないで何が親友だ! ……甘えてんじゃねぇっ!」
「……静流がそう言ったのか?」
 ムツが台詞を切った一瞬の隙を突くように、やっとのことでそうミナは喉から声を零した。
「そうだよっ」
「静流は、ピアノの練習のし過ぎで体調を崩して、倒れたのか」
「知らなかったとか言うんじゃないだろうな!」
「先生からは、体調不良だとしか聞いていなかった」
 すっ――と。
 ムツの顔から、一切の表情が抜け落ちる。もはやどんな感情もピークに達して消え失せたらしい。俺は、こんな顔をした時のムツが一番恐ろしいことを、これまでの共同生活でよく知っている。
「……もういい。お前に説教の一つでもここうとした俺が馬鹿だった」
 言ってムツは、またも乱暴にミナを突き放した。唐突に解放されたミナはよろめいてから、背中をしたたかに壁に打ちつける。
 そんなミナに向けられたムツの表情は、酷く冷たかった。
「人間の血が流れてるかも怪しいお前なんかもう知らん。勝手に一人で生きてろ。俺達は、これからシズんとこに行く」
「……」
「せいぜい監督に、俺達が三人そろってサボったって伝えとけ。じゃな」
 ムツは吐き捨てるようにそう言うと、先頭を切って階段を降りていってしまった。俺はミナを気にしつつもそれに続き、その後ろからメグもついてくる。
 ミナは、ついてこなかった。
「……のやろぉ」
 忌々しげに呟きながら、ムツは歩く速度を速める。とりあえず、そうして急いで行く行き先は決まっているらしいな。


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