* * *

 当然、シズの自宅だった。
 ムツは俺から全てを聞いた時には既にこうするつもりでいたらしく、シズのクラス・E組の担任から聞き出した住所が記された紙を手に、迷いのない足取りで学校を出た。駅まで行ってそこから電車。シズの最寄はJR中央線の吉祥寺駅だ。
「ここだ」
 電車を降りて十数分、「大橋」と表札のかかった一軒の家の前へたどり着くと、ムツはそう言って紙をポケットにしまった。
 そうして押したインターホン越しに事情を話せば、シズの母親と思しき上品な声の女性は二つ返事で俺達を家に上げてくれた。玄関が開いていらっしゃいと言われ、二階へ通されてシズの自室だという部屋まで案内される。それにしたって広い家だな。もしかしたらシズの家系は意外にも金持ちだったりするのかも知れない。……場違いにそんなことを考える俺だった。
「……やぁ」
 お友達よ、と声をかけた母親に続いて部屋へ入ると、シズが多少驚いたような顔をしつつもそう軽く手を上げてくれた。もう大分いいのか、ベッドの上に座っている状態だ。顔色も倒れた瞬間に比べたら別人のようによくなっていて、それでも貧弱そうな印象を与えるのはやはり本調子ではないからなんだろうな。
「大丈夫か、シズ?」
 お茶を用意するわね、いえお構いなく、という会話を交わしているシズママとメグを差し置いて、ムツはベッドの縁に腰掛けるとぱすぱすとシズの頭を軽く叩いた。撫でているつもりなのか何なのか知らんが、シズは迷惑そうな顔だ。それでも不思議と嫌悪という感じの表情ではなかった。
「もう心配ない。明日からは、普通に学校に行くよ」
「学校来ても、今までみたいな無茶するんじゃねーぞ? また倒れたら洒落にならんだろ」
「今回のこれは、ただの偶然だよ。少し疲れが重なっただけさ。身体が弱ったのかな……受験生だった時は、これくらい無理してもなんてことなかったのにね」
「……。つまり、全く反省してない訳だ?」
「反省してないとは人聞きが悪いな……大丈夫、もっと気を遣うよ」
 言ってからシズは、急に静かなため息をついた。微笑を浮かべていた顔が、疲れたように落ち込んだ表情を作る。
「……早く部活に行けるようにするために、遅くまで頑張ったのにね。結局は、部活に行ける日をまた一日、削ってしまった」
「……」
「情けないな、僕は。……チームのみんなはどうしてる?」
 シズの質問には、この三人の中で一番真面目に部活に参加しているメグが少々曖昧な笑みで応答した。
「うん、頑張ってるみたい。『三人しかいないから大変だ』ってミズがぼやいてたよ。マネージャーがいなくても平気って思ってたのに、結構つらいってさ。でも、つらいなりには練習も色々工夫してるし。……シズがいないとどうにもうだうだしちゃうのは、変わってないけどね」
「ははは。相変わらず駄目な奴等……」
 乾いた声で笑ってから。
 シズは再び、沈んだ表情になる。
「……早く、行かないとな。僕のせいで練習に支障が出るなんて、湊に申し訳が立た――」

「――ふざけるな」

 と。
 凛と、あまり聞きなれない声が、背後から響く。
 少し息切れしているようだ。呼吸は荒く、けれど無駄に棒読みに聞こえるその口調に、俺達は聞き覚えがあった。
 ベッドの上のシズが驚いた顔をしている。
「ふざけるな。静流のせいなんかじゃ、ない」
「……湊」
 俺が振り返った先、部屋の入り口で肩を上下させつつ立っていた奴が、この際誰だか言わずともわかるだろう?
 ミナだった。
 感情を読み取ることができない眠そうな無表情は、しかしその呼吸の荒さからここまで猛スピードでやってきたのだということがわかる。ミナを見たムツがひゅう、と口笛を吹いた。
「どうして……部活は?」
「出られなくてもこの際問題はない」
 唖然として問うシズの前で、ミナはシズとも床とも空中とも取れないところを焦点が合っているかわからない目で見ながら言った。
「……静流の、そういうところが嫌いなんだ」
「え」
「どうでもいいくだらないことで、一生懸命になる。力を入れすぎる。締めなくても自分の首を、自分で締める。静流のそういうところが、昔から嫌いだった」
 ミナは、珍しく長い台詞を吐いていた。
「静流はどんなことにも真剣だ。それは構わない。僕が文句を言えることじゃない。でも、そうして頑張りすぎてしまう故に、静流が苦しい思いをするのを僕は嫌というほど見てきた。その内の多くが、ピアノの発表会の直前」
 感情があるのか不明な、棒読みに近い喋り方で。
「先生に言われた特別好きでもない曲を、間に合わせなければならないと、目の下に隈を作るまで努力して苦しむ静流を見るのは、凄くつらかった。そんな血の滲む思いをしてやっと仕上げた曲を、大して楽しそうにでもなく弾く静流を見るのは、もっとつらかった」
「……湊?」

「ピアノを弾く最近の静流は、いつも哀しそうな顔をしている」

 シズだけでなく、話を聞いている俺達も唖然としてしまう。
 何も考えていないような顔しやがって、ミナは日頃そんな思いを、シズに対して抱いていたっていうのか?
「昔、小二の頃くらいの静流は、もっと楽しそうにピアノを弾いていた。僕もよく聴かせてもらった。僕は楽しかったし、静流も楽しそうだった。でも、曲の難易度が上がれば上がるほど、好きな曲じゃなくなればなくなるほど、そんな表情は見られなくなった」
「……」
「僕は静流の、苦しんでいるところなんて見たくはない。静流が、死にそうな思いをしてまで仕上げた曲なんて聴きたくはない。だんだん静流がピアノを弾くのを見るのが苦痛になった」
 だからあの時、とミナは言葉を繋げる。
「だからあの時、僕の前ではピアノを弾くな、と言った。つらそうにしている静流が嫌だったから。……あれは決して、静流の弾くピアノが嫌いになったという意味じゃない」
「……お前は言葉数が少なすぎるんだ」
 呻くような口調で、シズはミナから視線を逸らして言った。
「だったら最初からそう言え」
「ごめん」
 そう謝る声さえ俺達からすれば棒読み上等だが、けれどシズにはそれで充分だったらしい。ミナの方もシズにちゃんと伝わったとわかったのか、それ以上謝罪を口にすることはなかった。
「静流は、見失っている」
「何を?」
「色々と」
 代わりに出てきた言葉は、今日初めてのしっかりとした響きを従えていた。
「静流は、無理をしすぎる癖がある。やらなければいけないこと、やった方がいいこと、やりたいと思うこと。全てに力を注ぎすぎる。そこまで全力を注がなくても、静流なら、きっと手にしたいものを手にできるのに。万が一手にできずとも、それは全く困ることではないのに」
 はっとしたようにシズは表情を固まらせるが、俺達には今ひとつわからない。ミナの傍ではその典型として、メグが目をぱちくりさせていた。
「確かに、発表会の曲を完成させなかったら、先生は怒るだろうし観客は失望するかもしれない。でも、それは静流から何かを奪うものではない。逆に、例えば完璧に曲を仕上げても、静流は静流のためになる何かを得ることはできない」
 ミナは言う。

「そんなに身体を壊すまで、好きでも何でもない曲を弾いても。虚しいだけ」

「……む、虚しい、」
「そう。技術が向上しても、静流の中には何も残らない。一時だけの賞賛が手に入るだけ。そうして弾いた曲は、静流にとって苦痛ですらなくなる。そこに残るものがあるとすればただの虚無」
「……」
「静流が昔、好きだって言って楽しそうに弾いていた曲は、どんなに下手くそでも、きっと静流の中に消えない何かを残した。例えば楽しみ。例えば嬉しみ。例えば喜び。時に悲しみを伴い。それは全て、静流を構成する大切な思い出になった。静流の、かけがえのない糧になった」
「……糧」
「でも、今の静流にはそれがない。今の静流は、先生に言われたことをがむしゃらにこなすだけのロボットも同然。今の静流が弾く曲は、どこの誰でも同じように奏でられるだけの価値しかない」
 淡々と、反省文を読み上げるかの如くに単調に告げられるからこそ、それは心に突き刺さる、そんなミナの口調。

「弾いて楽しくもない、それのどこが音『楽』なのか、僕はわからない。静流には静流にしか弾けない曲があるはずなのに。そして昔は、確かにあったはずなのに」

「僕にしか……」
「僕のためとか。部活のためとか。罪滅ぼしだとか。そういうことをして欲しいんじゃない。僕は静流に気づいて欲しい。静流にとってのピアノが、昔どういうものだったのか。がむしゃらになるその理由が、どんなものであるべきなのか。静流にとっての『おんがく』がどういうものなのか、ちゃんと思い出して欲しい」
 長い台詞を言い終わると、ミナは俺の脇を抜け、それまでずっと手に持っていた薄い冊子をシズに突き出した。
「……っこれ……」
 受け取って表紙に書いてある文字を見たシズの顔が、歪められる。



「これ……」


「花の歌」。
 某出版社から出されたピアノピースにはそう、記されている。
「探すのに手間取った」
 ミナは無感動な口調のままそう言った。そのミナの透明な視線を浴びながら、シズがゆっくりと震える指先で楽譜を開く。
 何の変哲もないただの五線譜と音符。けれどそれを見たシズの顔は更に歪んだ。
「……そういえば、お前にやったんだっけ」
 呟いてシズが指先で撫でる五線譜に、幾重にも書き込みがされているのが見える。多分シズが言っていた「書き込みだらけ」を構成するペンだ。丸とチェックと文字が、ところどころ指示が読めなくなるくらいに踊っていた。
 そこには――何としてもその曲を弾きたいという思いが、こっちの胸を圧倒してくるくらいに溢れていて。
「静流」
「……何だ」
「僕やバレーのことは、この際どうでもいい」
 ミナは、シズに向かってはっきりとそう言い切る。
「どうでもいいから、静流は静流のやりたい曲を、やりたいように弾け。つらい時は僕に言ってくれていいから。……ムツに怒鳴られて目が覚めた。僕も、逃げてた。苦しんでる静流を見たくないからって理由で、静流から逃げてた。でも、それはもうやめる」
「湊……」
「静流一人で苦しんでるよりはマシだ。わかち合えるものじゃないんだから、どうしても生まれてしまう苦しみなら、二倍あればいい。ただし、静流も、苦しまないように努力はして欲しい。静流がつらいと、静流だけじゃなくて見ている僕もつらいから」
「……」
「だから、」
 ミナは淡々とした口調でこう告げ、長い台詞を語り終える。

「静流にしか弾けない曲を、静流が弾け。僕がそれを聴くから」

「……っ約束はできないな」
 まっすぐと、でもやっぱり焦点の定まっていなさそうな目で見つめられて、シズはさっと視線を逸らしてぶっきらぼうにそう言った。そのやりとりを目の前で見ていたムツが、馬鹿、とため息をつく。
「わかったって言やぁいいんだ、わかったって!」
「でも、」
 そんなムツの台詞を聞いていたのかいないのか、シズは若干顔を赤らめながら、ミナにこう返事を返した。
「努力はする」
「それでいい」
 ミナもそう言って、かっくんと出来のいまいちなロボットのような動きでうなずいた。

 かくして。
 ずっとすれ違ったままだった親友同士は、やっと、元あるべき関係へと回帰したのだった。
 全くやれやれだね。俺も今回ばかりはちょっと疲れた感じだ。
 でも、それは不思議と肩に心地の良い疲れだった。


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