* * *

 そうこうしている内に迎えた定期試験は、散々な結果に終わった。
 無理もない。毎日学校が終わって帰ると一応は勉強しようと机に向かうものの、それはせいぜい一時間と少しが限度で、それまでの習慣からか気がつけば軽音備品のギターを弄っていたんだからな。特に酷かったのは社会と理科で、ああ自分は英国数の基本教科くらいにしか能がないんだなぁと悲しいまでに再認識した。テストの総合結果表は親に出すまでもなく即、家の資源ごみに突っ込んださ。
「……たりぃ」
 幸いなことに社会以外での赤点と追試は回避したが、それでもこれ以降のテスト結果によっては学年末の成績表において余裕で、「赤い水面に白鳥が泳いでいる図」――要するに十段階評価における2のこと。下に赤いラインが引かれるのでそう呼称される――を見られるであろう、人生最悪のテスト結果を頂戴した俺は、だらしなく自室のベッドに寝転がっていた。腹の上には例のレスポールスペシャルの国産コピーが乗っていて、左手が適当なコードを押さえては右手がストロークするという、ほとんど無意識下の音を奏でている。
 だって、ねぇ。
 今更勉強したところで、最悪なテスト結果はよくなったりしないし。
 いざとなれば俺だってできるんだよ。ただ、今回は忙しかったんだ。そんだけの話……
「……ったく。成績悪いから、何なんだよ」
 そうだ、何が悪いというんだ。
 ムツも言ってたじゃないか、勉強なんて俺達は四年後の大学受験までに何とかしておけばいいんだって。大学受験まで、あと何回定期試験がある? そこで取り返せばいいだろう、成績なんて。
 中高一貫校の強み。
 そのために中学受験、したんだし。
 あの時頑張ったじゃん、毎日夜遅くまで塾通ってさぁ。
 小四の頃から。
 今くらい、遊んだっていいだろ?
 それに、テスト結果悪いっていうなら、ムツなんかほとんど全教科赤点だったし。
 天井を見上げて、ぶつぶつと呟く。時間は休日の午後五時過ぎ、部屋は電気を消しているので薄暗い。
「……ユキ」
 部屋のドアが開いた。続いて電気がついて、眩しい、と思った時には誰かが入ってきている。
 誰か。
 母親だった。
「……、なんだよ」
「これは?」
 差し出されたのは、捨てたはずのテストの総合結果表だった。そう言えば昨日は資源ごみの日だったっけ。どうやらごみ出しの時に見つかったらしい。くそ、ちゃんと雑紙の間に挟んだのになぁ……受け取って、目を通す。それにしたって酷い数字が並べられていた。総合順位が学年百五十人中、百三十二位。
「……次は頑張る」
「同じことをこの前も言ったのよ。覚えてないの?」
 覚えてるかよ。
 そんなに悪い成績だったっけ、前回。
「学年順位、百十三位」
 どうして親っていうのは、こっちが覚えておいて欲しい肝心なことは忘れるくせに、忘れて欲しいことは覚えているかな。でも確かに、そうして順位を言われてみればそんなことを言ったような気もしてくる。
 百十三位か……。
 今回よりかは遥かにマシだな。
「忙しいんだよ。木之本に軽音の有志頼まれちゃったし」
「そんなのテスト前くらい練習しなくても何とかなるでしょ? それ以前に、引き受ける方が悪いんだから、」
 言い訳にはならない。
 わかってる。わかってるよ。
「……別にいいじゃん、俺、次は大学受験だろ? それまでには何とかするって」
「何とかできるの?」
 母は、いつになく強い物言いで俺に迫ってきた。
「ねぇユキ。中学入ってからテストの成績がどうなってきているか、知ってる? 軒並み右肩下がりなのよ。それで下がってきてるから注意しなさいって言っても、大学受験までに何とかする、何とかするって言うばっかり。……それで結果はどうなの? 何とかなんて、できてないじゃない」
 ……正論だ。
 反論の余地がない。
「ユキが頑張ればできるのはそりゃあ知ってるけど、あんた、頑張る目標が目の前にないと何にも頑張らないのよ。大学受験なんてまだまだ先で、大して切羽詰まってないから、こんな成績で」
 中高一貫になんて入れるんじゃなかった。
 母はそう続けた。
「あのね、わかってる? 私立にはお金がかかるのよ。それだけお金かけてるのに、その成績? 部活しかしてないじゃない。部活のための私立じゃないのよ、何のために余分にお金出して私立に通わせてると思ってるの」
 最終的に金かよ。
 でも、文句は言えない。私学に進学すると言い出したのは他の誰でもない俺だし、そのために金を出してくれてるのは親だ。大学受験まで一直線で楽だから。そう言って説得して、金出してもらって。
 なのに、結果は一直線どころか、中だるみして――遠回りに、なろうとしている。
「そんな調子で、このままで、大学受験まで。平気なの? 本当に――」
 本当に。
 母は言う。

「本当に、何とかなんてなるの?」

 大学受験まで、あと四年。
 四年後に頑張ればいいんだ。今が悪くても、四年後までに頑張れば、きっと何とかなる。
 そういう甘えが――成績を右肩下がりにさせていたのは、認めざるを得ない。
 中一の最初の頃は学年五十位以内に必ずいたのが、今では、百位以下。
 どんどん下がって。
 大学受験まで一直線だったはずが、中だるみ。
 あと四年。
 まだあと、四年ある。
 でも、この調子で。
 この中だるみに慣れた今の俺で、たったの、四年で。
 何とかなんて、なるのか?

 無理だ。
「……高校受験」
 その単語は、驚くくらいにすんなりと口から出た。
「する」
 それは、この前の定期試験で百位以下を二連続で取った時に、母から言われていた俺の成績改善策だった。
 目標がなくて中だるみするというのなら、目標を作ればいい。切羽詰まった状況がないと勉強しないというのなら、切羽詰まった状況を作ればいい。その目標や状況にあたるのが――俺の場合、あと一年半後に迫った高校受験だ。
 かなりの強攻手段だが、俺にとっては相当に効果のある手段である。
「してやるよ。成績、改善する」
 受験だけなら、中高一貫の今の学校に通いながらでもできる。受かっても受からなくても今の学校に通い続けることができるから、それでは安全な道でしかない、だから――
「受からなかった時は、今の学校をやめる」

「どの道やめるのよ」

 母の口から。
 衝撃を、聞いた。
「受験なんて塾に行かなきゃできないでしょ、あんたは。これまでの成績を見ていると、どうも勉強もそんなに理解してないみたいだし。ここまでわからなくなっちゃったら、もう自分ひとりの力だけじゃ受験なんて受かりっこない。だったらどの道、塾に通わなきゃ駄目」
「ちょっ……待、」
「うちには、私立に通わせながら塾も行かせる金銭的余裕はないから。高校受験するなら、塾に行くなら、私立はやめなきゃ駄目よ」
「――」
「どうするの? 今更、やめるとか言わないわよね」
 成績が下がるのは困る。
 よって、高校受験はしたい、しなくてはならない。
 でも、そのためには塾に通わなければならないようなところまで、今俺は落ちぶれていて。
 塾に通うためには、今の学校を、やめなければならない。
 やめる。
 やめない?
 やめたくない?
「……わかった」
 どうせ、大して未練のある学校じゃない。流石に大学受験に重きを置いた進学校だけあって授業は極端に早くて難しく、正直ついていけているとは言い難いし、バレー部も誘われて入っただけで公式試合のレギュラーにもなれないまま、やめたところで大して困らない。
 友達も。
 ……別に、あんな奴等、いなくてもいいし。
「公立の中学くらいは、いけるだろ?」
「行かなきゃ受験、できないでしょ」
「なら、いい」
 目は合わせないままでそう告げると、そう、と母はほんの少しだけ安堵したような口調でそう言った。あとでお父さんとも相談ね。と、そんなことも言って、俺の左手からテストの総合結果表を取って部屋を出て行く。
 電気は消してくれた。
「……高校受験、か」
 そして転校。
「……」
 腹の上のギターが、いつの間にか冷たく感じられていた。右手に持っていたピックも落ちかけている。おいおい、落ち込んでるのか? 別に平気だろ、転校なんて。
 未練のある学校じゃないだろ、あんなところ。
 しょうがないじゃん、成績下がってるんだからさ。
「……失敗しない 後悔しない 人生がいいな
 少し考えてみただけさ 有り得ないって解ってる……」
 最終的にステージ発表の曲として決まった「ホリデイ」を、ベッドに寝転がったままで歌ってみた。練習だ。学園祭までに俺が今の学校にいるかどうか解らないけれど、一応。
 声が震えた。
 気づかない振りをした。


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