* * *

「実はな、ユキ」
 着替えを終えて部室を出、校門をくぐって外に出たところで、ムツが普段のうるさい声からはまるで想像もつかないようなぼそぼそとした小さな声で、そう第一声を放った。
「俺はこの前、人助けをした」
「マジか」
「ああ。先週かな……部活終わって、電車に乗ってた時だ。あの日は俺、ちょっとした用事で部活早退して、その用事が終わって一人で帰っててさぁ。ユキも、当然メグとミキもいなかった時で、」
 その後、途中何度となく途切れながらムツの口から語られた話をまとめると、大体こんな話になる。
 十二月初めのとある寒い日、ムツが部活を早退し、用事を終えて一人で電車に乗っていた時、帰宅する通勤・通学客でそれなりに混み合っている車内でのことだ。
 町田に住むムツが残すところあと数駅になったところで、とある一人の中年男が車内に乗り込んできた。見たところ普通の、ごくごく一般的なサラリーマンである彼は、傍目から見てもかなり酒を飲んでおり――ムツ曰く「悪臭」を放ちながら、しかし最初は不機嫌そうに騒いでいただけだったそうだ。ムツと共にその車両に乗り合わせている人も、当然ムツも、単純にうるさいだけで特に迷惑でもなかったので、時々ちらりと変な視線を彼に送るだけで、特別気にかけることはしなかった。
 が、その「変な視線」が逆に彼の癇に障ってしまったらしい。多少迷惑に思っている感じは否めない視線を送っていた乗客の一人と目が合った彼は、「何か文句あんのか」などと罵声を上げながら、遂にその乗客に突っかかった。思わぬ災難に見舞われたその乗客は、しかしじっと黙っているしかできない様子で、またそれが彼を逆上させる。遂には、大きくなった騒ぎを遠巻きに見ていた他の乗客にまで絡み出してしまった。ムツはどうにかしたいとは思いつつも、結局何もできずにいた。
 そんな中、その騒ぎを多少気にしながらも、ドアのところで文庫本を読み続けていた、見たところムツ(ついでに俺)と同い年か一、二歳年上であろうという女子学生がいた。騒ぎの中心からさほど遠くないところにいた彼女も当然彼の目につく。「言いたいことがあるなら言ってみろや!」と怒声を上げられた彼女は、ほんの少し後ずさっただけでそれを回避し、読書の続きに戻ろうとしたが――それを彼が阻んだ。「電車内で本を読むとは何事か」「最近の若者は……」などと訳のわからないことを喚き出した彼は、なんと彼女の文庫本を叩き落すと、更に彼女の胸元に掴みかかったのだという。
 その一連を、彼女とは反対側のドアのところに立って見ていたムツは、とうとう我慢できなくなって、酔った中年男が相手ということに多少怖気づきながらも肩から下げていたエナメルの鞄を放り出して駆け寄り、乱暴に彼女を揺さぶっている彼の腕を掴んだ。ムツは彼に行動が他の乗客にとって迷惑であること、もしそれを続けるようなら車掌を呼ぶこと、何よりも彼女を解放するように告げたが、彼は彼女を解放する代わりに今度はムツに掴みかかった。
「怖かったぜ。酒は人を変えるんだなーと思った」
「それで?」
「それで、そうこうしている内に誰かが呼びに行ってくれたんだろうな――車掌が来て、そいつと、それから彼女と、俺と、他の乗客二人くらいが次の駅で降りることになって、」
 そこで中年男が無事警察に引き渡されるまで、ムツと彼女、他の乗客二人が状況を説明することになった。中年男が車内で騒いでいたこと、先に掴みかかったのがムツではなく中年男であること、ムツは中年男を止めようとしていたことは、彼女とその二人が証言してくれたそうだ。
 そうして全てが終わった後のことだった。
「助けてくれてありがとう、是非お礼したいから――って」
 声をかけてきたのが、ムツが助けた彼女だった。彼女は遠慮するムツにどうしてもと言って、ムツの名前を聞き、遂には携帯電話の番号とメールアドレスを赤外線で交換するに至った。絶対に連絡するからと宣言した彼女と、そこではそのまま別れたのだが――
「ついこの前だ。メールがきた」
 すなわち、会えないだろうかと。
 そうして彼女が指定してきたのが――よりによっての、十二月二十四日なのだと言うのだ。
「何だ、格好よくヒーローやってあげた時の彼女からデートに誘われたっていう、そういうことかよ。よかったじゃないか」
 ムツから全てを聞き終わって、俺は思ったところを素直に言ってやった。本気でいいことだと思う。一体何をそんな思い悩んだ顔をする必要があるのか、そっちの方を俺が思い悩んでしまうくらいだ。
「しかも、よりによってクリスマス・イブだろ? 相手の方からその日を指定してくるなんて、もしかしたら惚れられたんじゃないのか? 喜ぶべきことだろ、それは。……何をそんなに悩んでるんだ?」
 もしかして、相手の彼女がよっぽどムツの好みに合わないとかだろうか。だとしたら、まぁ納得できなくもない。が、それにしたって、異性に好意的に思われるのは悪く思われるよりはよっぽどいいだろう。
「そこなんだ、ユキ」
 ムツはうつむきがちだった顔を上げて、俺を見て悲愴そうな表情を浮かべた。
「俺だって、勇気を振り絞って助けた相手だ、そりゃあお礼したいなんて言われて嬉しいし、ましてや直接会って、なんてどうにかなりそうだよ。むしろ申し訳ない気がしてくる……しかしだな」
「何だ」
「問題がある」
「何だ」
 ムツが立ち止まったので、俺も歩みを止めた。静かな住宅地を抜けて、駅へと続く大通りの途中。ムツは悲しげにその端整な顔を歪めて言う。
「……彼女、美人なのだ」
「……いいじゃないか」
「しかも、背が高くてすらっとしているのだ」
「……いいじゃないか」
「しかも、お嬢様なのだ。女子校生なのだ」
 それに続いてムツが告げた学校名を聞いて、俺は柄にもなく驚いてしまった。それは、俺やムツのような首都圏民なら少なくとも一度は必ず耳にしたことがあるだろう超お嬢様学校。進学校としても上品な女子校としても一流である学校なのだ。
「……ますますいいじゃないか」
 しばらくびっくりしてやってから、俺は今度もまた素直に言った。
「美人で、背が高くてお嬢様なんだろ? いいじゃないか。何でお前が悩んでるんだかも、ますますわからないな。何、お前って美人嫌いだったっけ?」
「好きだよ! そこら辺の設定は変わってねぇ」
 じゃあ何をそんなに暗い顔をしているんだ。
 そう尋ねると、ムツはまるでお前はわかってないなと言わんばかりにため息をついた。
「ユキ。お前は今年映画・ドラマ化されて流行った某インターネット掲示板に綴られたヲタク青年の恋愛ストーリーを知っているか」
 何だそれは。
 某インターネット掲示板? ヲタク青年の恋愛ストーリー、今年映画・ドラマ化……
「電車男か」
 ヲタクである青年が、電車内で助けた女性を好きになり、2ちゃんねる掲示板の住人達に力を借りつつ奮闘、最後には彼女と結ばれるという、まるで恋愛小説かドラマか映画みたいな実話。流石に知っている、何せ今年の夏大流行りしたからな。
 ……ん?
 電車内で女性を助ける……?
「……ちょっと待て。ムツ、それって、」
「そうなんだ。この一件、『電車男』とかなり似てるんだよ」
 言ってムツは、ますます暗い顔になった。
「俺はそれが怖い。……確かに彼女は美人だし、背も高くてすらっとしてるし、お嬢様だし、多分文句のつけどころがないような人だ。美人が嫌い? 彼女の前でそんなこと言ったらぶっ飛ばされるだろ。つか、ぶっちゃけて言うと滅茶苦茶俺の好みだし……正直、すげー気になってる」
「……」
「でもな。俺は正直、その気になっているっていうのが本気で彼女を好きだっていうことかっていうと、それは違う気がしてるんだ……何ていうんだろ。何つーか、『電車男』のせいで、こういうシチュエーション、つまり『電車内で美人さんを助けてしまう』っていう恋愛的な運命が魅力的に思えてるだけで、彼女を好きな訳じゃないんじゃないか、って」
「……」
「彼女じゃなくて、彼女と出会ったその『出会い方』に惹かれてるだけじゃないかって」
 例えば。
 街中ですれ違っただけの女性と、ぶつかって互いに荷物を拾い合った女性とでは、どちらの方が魅力的に思えるだろうか。後者なんじゃないかと俺は思う。何せ「ぶつかった」、何万分、あるいは何億分の一の確率でしか起こり得ない運命的な出会い方じゃないか。人間っていうのは大方、その本人の魅力も然ることながら、その人の持つ、あるいはその人と自分の持つ「雰囲気」や「運命」に魅力を感じるものである。すなわち、運命的な出会い方をした人間には惹かれやすい。
 ムツが言いたいのは、自分が惹かれているのは「運命的に出会った女性」ではなく、「彼女との運命的な出会い」なのではないかと――そういうことだ。  彼女のことが気になっているが、それは彼女自身ではなく、彼女とであった、それこそ「電車男」――ドラマか映画か恋愛小説みたいな状況なのではないか。
「流石、ユキ。言いたいことをずばり言葉にすることに関しては天才だな」
 褒めても何も出ないぞ。
 そんな気持ちを込めて肩をすくめてやると、ムツも同じように肩をすくめた。
「俺はそんな半端な気持ちで彼女と二人だけで会うのは気が引けるんだ。彼女がわざわざ会いたいなんて言うのは、ついでにそれがクリスマス・イブなのは、もしかしたら俺が彼女を気にしているのと同じで、彼女も俺のことが気になってるからじゃないかって、思わなくもないんだけどさ……だったら尚更にな。もしも彼女を今回、俺の軽い――そこまでじゃない気持ちからの付き合いで、本気にさせちまったら? 俺は彼女に対して責任を取れる自信がない」
「……」
「俺は確かに彼女のことが気になってるけど、でも、それは『彼女』のことが気になってるんじゃないのかも知れなくて……だから、彼女が俺に対して本気になっちまった時、真剣に応えられないかも知れなくて。それが俺は、申し訳ないんだ」
「……」
「ま、彼女が俺のことを好きになるだなんて、んなん思い上がりだっつーのは、わかってるけどさ」
 ムツは。
 ムツは、見た目こそ今時のイケメン面で、軟派で身持ちの軽い奴に見られがちだが――ついでに本人も、日頃そんなキャラを演出しているが。
 実際のところ人間関係、特に恋愛関係に関しては、その見た目とは対照的にかなり情に厚く、また誠実であろうとする面があるのだ。俺はこれまで何度となくムツの口から女性関係の話、例えば小学校の同窓会で元クラスメイトの女子何人かに告白されただとか、近くの女子校の生徒に見初められただとか、街中を歩いていて急に声をかけられただとか、を聞いたことがあるが――聞くだけじゃない、実際にその場に居合わせたことだってある――ムツはその度に、相手がどこの誰であろうと真剣に考えていた。少しは力を抜けと言いたくなるくらい、真剣に……告白された数など尋常ではないのに、今まで誰とも付き合ったことがない身持ちの固さがいい証明だ。とにかくムツは、遊びや気安い気持ちで恋愛ができるような奴じゃないのである。
 何が「思い上がり」だ。
 イケメン的面構えで極上のルックス、ハンサムすぎて時々いらつくほどの笑顔、プチモデルみたいな脚の長い体型、裏のないポジティブな性格、情に厚い誠実のかたまりのような人間性、博愛主義に近い振舞い――電車内で人助けをしてしまうような、最強お人好し。
 そんなんだから、クリスマス・イブデートに誘われるんだってーの。
「で、雪が降ればいい、なんて言った訳。……そんな胡散臭いまでにロマンチックなことの一つでも起これば、俺も本気になれっかなー、なんて……本心は、ただ豪雪で電車止まらないかな、みたいな。それで会えないことになれば、色々悩まなくて済むかな、とかさ」
 お前みたいな男に愛される女の子は幸せだな。いや、変な意味じゃなくて。……ここまで真剣に思い悩んでもらえるなんて、聖なる夜にそっと肩を抱いてくれる恋人(と書いてサンタと読む)を求めている乙女達からすれば本望だろう。俺が女子なら本望だな。いや、だから変な意味じゃなくて。
 たかが一人の女子学生のために悲しげに歪められる、ウザいくらいに端整なムツの顔。
 ……正直俺はこの時、その滅多に見られないムツの表情に、少しだけ、本当に少しだけ――変な意味じゃなく、見とれてしまっていた。要は気を取られてしまっていた。よって、そうでなければ予測できたはずのムツの次の台詞から逃げることができなかった。
「ユキ」
 ムツの口が開かれる。
 綺麗な褐色をたたえる双眸が、俺を捉えた。
「頼みがある」
 ……嫌な予感。
 それは、本来の俺なら、こんな脳内が蕩けるような話をされた時点で感じられたはずのものだった。
「……何だ」
 そう聞いてやりながら、俺はまずいことになったと心の底から思い、あるはずもない逃げ道をほとんどその全神経を挙げて探していた。いつの間にかムツは俺に正面から向かい合い、その手が俺の肩に乗せられている。ど、どこだ。どこに逃げればいい。お巡りさん、お願いですから道を教えてください。
「一生のお願いだ、十二月二十四日! 俺と一緒に来てくれ! 頼む、ユキ!!」
 嫌だ!
 できることなら叫びたかった。
「……何で俺なんだよ」
 それをぐっと堪えて、しかしせめてもの反抗で聞くと、ムツはすがりつくような顔をして言う。
「こういうことはお前じゃないと頼めないんだよ! お前しかいないんだ!」
「メグやミキでもいいだろ、別に」
「だってメグじゃいざって時に頼りないし、ミキじゃ変な風に勘違いされっかもだし……」
 駄目だこれは。滅茶好みな美人で背の高いお嬢様とのクリスマス・イブデートに、完全に腰が引けてしまっている。じゃなきゃ、「当日一緒に来てくれ」なんて口が裂けても言えないだろう。俺が一緒に行ったところでどうにかなるとも思えないんだけどな。ムツは行動がいちいち大胆なくせに、変なところでこういうちょっと奥手な一面がある。
「俺一人だと本気かもわかんねぇ気持ちで突っ走って迷惑かけちまうかも知れないし、行きすぎて何しでかすかわかんねーし、そんなことになったら申し訳ないし、それで悪い印象持たれたら嫌だし、かといって好印象とかになっちゃっても困るし……とにかく! 俺一人じゃ駄目なんだ色々と! 俺の首に首輪をつけて制御してくれる人が必要なんだよ!」
 奥手というか、臆病というか……。
「どうせお前、クリスマスに特別な用事なんてねぇだろ? サンタクロース信じてないくらいだしさぁ! なぁ、頼むって、一緒に来てくれよ。一人でクリスマスなんかつまんないしさ、だったらいいだろ? 本当、マジで頼むよ!」
 サンタクロースを信じていないのはそうだが、それで何故俺がクリスマスを予定の何一つなく一人で過ごすと決まっているんだ。……まぁ、確かに何の予定もないけれど。だからって、ホストのなり損ないみたいなお前と超絶美人とのデートを一人指をくわえて一歩離れたところから見ていなきゃならない理由はないだろう。
 俺は無言でムツを睨んだ。睨まれたムツは、飼い主に捨てられて途方にくれている子犬のように俺を見つめ返している。そんな顔をしても拾ってやらんぞ。
 俺と、俺より五センチくらい身長の高いムツは、そうして数十秒の間、大通りの歩道上で無言で見つめ合うことになった。俺は何も言ってやらない。ムツも何も言わない。ただし、すがりつくような目で俺を見ている。
 おいおい……
 何て顔してんだよ。
「……わかったよ……」
 しばしの沈黙を超えて、俺は遂にそう言ってしまった。あんな顔をされてはもう仕方ない、良心の呵責とかいうやつだ。俺の心の中にあるいい人の部分が、最終的に悲鳴を上げた。
 ムツがきょとんとした顔をして、え、と聞き返してくる。一回で聞き取れよ、もう二度と言ってやらないぞ。
「わかったっつったんだよ。一緒に言ってやる。……たく……やれや、」
 れ、と言おうとして、その続きは言えなかった。言うことを妨害されたからだ。しかも、言わせた本人に、オーバーすぎるまでのボディアタックで。
「サンキュー、ユキーっ!」
 喜びのあまりか飛びついてきたムツは、俺の背中にがばっと手を回しぎゅうっと音が鳴りそうなくらい抱き締めながら、耳元でそう叫んだ。うるさい。ついでに苦しい。
「お前のそういうところが好きだよ! うわぁっ、マジありがとう! あー、良かったぁっ……」
 さっきまでの思い悩んでいるような表情は何だったのか、そうやけに元気のいいいつもの馬鹿でかい声で言いつつ、ムツは更に激しく俺を抱き締めてくる。肺が潰れかかる音を聞いた気がした。
「本当、本当、ユキがいてくれて良かったよなぁ……超ありがとう。やばい嬉しいし」
「それは良かったな……」
「うん」
「それはそうとムツ」
「うん? 何だ?」
「…………男二人はエイズを心配されるぞ」
 人は少ないが駅まで続く大通り、やはり人通りは全くない訳ではない。車ならさっきから車道を幾度となく通過しているし、歩道を歩いている人もちらほらであれどいる。側を自転車で走っていった見たところ中学生の少女が、俺達を奇妙な目で見た。中二病じゃないのか、あんた。
「……何でエイズ?」
「……知らないならいい」
 ちょっと遠回しに言い過ぎたか。
 ムツの腕の中で、俺は小さくため息をつく。
「学校ならまだいいけど……この体勢は、ここではちょっと通行人様の視線が痛い」
「……あ。悪い」
 と言いつつも、すぐには離れようとしないムツ。こいつのスキンシップ好きすぎも時と場合によっては考え物だな。TPOをわきまえようぜ、TPOを。  まだもう少し緩む気配のないムツの腕の中で、俺はさっき言いそびれた「やれやれ」を小さく呟いた。
 前言撤回。
 何でこんなのがそんなにモテるんだかね。

 かくして、俺のクリスマス・イブの日には、予定が一つ書き加えられた――


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