* * *

 ……大失態だった。
 ムツの性格を考えれば、こういう挑発の仕方は充分にありえる話だった。どころか、いつもの俺なら普通に予測できたもののはずだ。なのにそのいつもの俺は一体どの辺りで眠っていたんだろう? ムツに与えなくていいヒントを与え、逃げる間もなくトンデモ発言を宣告されてしまう最悪の事態を招いてしまった。失態も失態、超大失態である。
「一敗でもしたら」。
 これすなわち、優勝をしなければ、ということだ。百人一首大会はトーナメントに似た方式で行なわれる。一敗もせずに大会を終えようと思ったら、優勝を目指さなくてはならない。
 これに対して、ムツの側は何敗してもいいことになっている。……と思う、奴はそう考えているだろう。奴は「俺に負けたら」と言ったんじゃない。「俺が一敗もしない」というのは、すなわち「ムツが負ける」ということではないのだ。トーナメント戦の別の組でムツが敗退しようとも、俺は何が何でも優勝しないといけないことになる。こいつは大きなハンデだ。
 まぁ、百万歩譲ってこれはいいとしよう。問題は、というか一番問題なのは、その次の発言だ。
「俺とキスだから」。
 中学一年生の俺、流石にキスの経験がない訳じゃない。心配せずとも重要なファーストキスはもう終了済みだ。けれど逆にそれが俺にとって最大の問題なのだった。何といっても――俺のその重要ファーストキスの相手は、他ならぬ野瀬睦なんである。それにはまた話せば長い聞けば涙の物語があるのだが、それは今は割愛するとして……今回ムツにまた唇を奪われるようなことがあれば、俺の人生は終わったも同然だ。
 一回目のアレは、事故同然だったからまぁいいと思える。
 けれど、もし二回目まで奪われるようなことがあれば――
 それは問題だ。
 問題も問題、俺の存在意義に関わる大問題である。
 しかもこの場合更に加えて問題なのは、ムツが「言ったからにはそういうことも平気でする」男であることだ。不可能を可能にする男、それが野瀬睦。有言実行でダイナマイトを路上爆破させるのが奴の生き様である。すなわち、自分でやると言ったことは、あいつは何が何でもやる。
 何をもってしても逃げることなどできない。
 俺にとって取れる道はたった一つだけ。

 真っ向堂々、正面から優勝目指して戦うことだけだ――

 してやられた。ということだった。

「……ユキ、大丈夫?」
 五時間目が終わって放課後、部活で練習合間の休憩時間に体育館で壁にもたれかかり天井を仰いでいたところを、見慣れたエセ優等生面が覗き込んできた。浜野恵、通称・メグ。眼鏡が似合う優男顔の長身は部活のチームメイトであるのと同時にクラスメイトでもあるのだが、今の俺にとってその肩書きは「どうして昼休みに教室にいてくれなかったんだ」という紫の鏡的恨みの呪い言葉に直結するだけだった。
「どうしたの、ぼーっと黙り込んじゃってさ。何か、明日恐怖の大王が降ってくるみたいな絶望的な顔してるけど」
 恐怖の大王か……ハルマゲドンっていえば、確かにこれはハルマゲドンだな。
 ポニーテールを揺らして小首を傾げる同級生を見て、俺は絶望に沈んだ頭でそんなことを考える。
「……ん?」
 俺は頭を起こしてメグに答えた。
「俺、今黙ってたか? おかしいな、ライトノベルと正義の関係性について熱く論じてたと思うんだけど」
「論じてないよ」
「いや、論じてた。俺はライトノベルを日本を代表する文学と主張する者として正義との関連について考えない訳にはいかないからな」
「え、論じてないって」
「論じてただろ!」
 後に退けなくなってしまった。情けない。
「全身タイツと正義の関係性については既に数々の理論により証明されてるけど、ライトノベルとはまだまだで、その証拠確立が急がれているんだ。それについて確かに俺は熱く論じてたんだよ。具体的にはジャ●プの法則を理由とした証明だな。知ってるか、ジャ●プの法則? そんな漫画的法則をも網羅するライトノベルが正義と無関係なはずがない訳で、」
「あ、ムツだろ。ムツだね、原因は」
 無駄に縷々と語る俺を無視しつつ考え込んだ後、あっさりとメグは原因を当ててきた。
 少し押し黙る俺。メグは何を納得したんだか、一人でうんうんと何度もうなずきながら言う。
「『大問題だ……』とか『最悪だ……』とかユキが無意識に言うほど衝撃を受ける相手なんか、そもそもムツくらいしかいないからね。それに、そのムツもやたらと上機嫌だったし。……スキップしながら自販に行ってたね」
「……完敗だ」
「何があったんだい?」
 尋ねられ、俺は尋ねられるままにメグに事のいきさつを話した。こうなればもうヤケだ、せめてこうして愚痴を言うことでストレス発散でもさせてもらおうじゃないか。そう思いながら話したので、この時の俺はいつもより数割増饒舌だった。メグは人の好さそうな笑みを浮かべて相槌を打ってくれる。こういう時、このお人好し優等生は便利だ。
「あはは。本当、ムツって面白いよね。ある意味尊敬しちゃうよ」
 全てを聞き終えた後で、メグは苦笑混じりに笑ってそう言った。
「……笑い事じゃねぇだろ」
「まぁ、所詮は他人事だからね。でも、自分のことだとしても僕なら笑っちゃうな」
「だから笑い事じゃないんだって。……同じ男の俺相手にキスとか、絶対頭おかしいだろ、あいつ」
 忌々しげに俺が嘆息しても、メグはくすくすと大層面白そうに笑うだけだった。ここまで楽観的に笑われると、ストレス発散のつもりがかえってムカつく。
 そうして顔をしかめる俺を差し置いて、メグはこんなことを言った。
「思うけどさ、ムツって本当にユキのことが好きだよね」
 気持ち悪いことを言うな。
「いや、実際凄く好かれてると思うよ。傍目から見てもムツのユキに対する執着、っていうかこだわりは半端じゃないからね」
「……だとしたらこれほど迷惑なこともないな」
「そうかな?」
「迷惑以外の何物でもないだろ」
 俺はいつになく重い気持ちを乗せた息を吐く。そんな俺にメグは不思議そうに目を瞬かせた後、でも、とさっきまでの笑みをより深くさせて、何がそんなに、と思うほどに嬉しそうな口調で言った。
「でも、ユキだってムツのこと好きだろ?」
「気持ち悪いことを言うな」
「じゃあ、嫌い?」
「……そこまでじゃないけど」
「だろ?」
 何故か得意げにうなずいて、メグは言う。
「だったら是非とも戦わなくっちゃ。折角ムツから持ちかけられた勝負だよ? 大丈夫、ユキならきっと優勝できるって。僕も札の暗記とか、できることは協力するからさ。努力すればユキは無敵だよ」
「……その努力をしたくないんだけどな……」
「『求めよ、さらば与えられん』だよ。あるいは『働かざる者食うべからず』かな……どっちみち、ムツにセカンドキスまで奪われたくなかったら、頑張って大会で優勝するか、さもなくば地獄の果てまで逃げるしかないだろ? どっちの方が楽だと思う? 地獄に辿り着くまでにムツに追いつかれない自信ある?」
 どうにもお前は俺とムツを戦わせたいみたいだな。
「うん、ぶっちゃけて言うとね。セッターのムツとエースアタッカーのユキ、言うなれば二人は普段常に協力し合う味方同士な訳だろう? その二人が戦うなんて、そりゃあ興味あるよ」
 ……やっぱり所詮は他人事か……。
「って言っても、」
 練習再開しようか、と言ってバレーボールを手に立ち上がりながら、メグは依然として楽しげな口調で最後にこう言った。
「トーナメント形式なんだっけ? だからムツと直接勝負にはならないかも知れないし。ユキは一敗もできないけどムツはそうじゃない、負けてもいいんだから、この勝負で戦うのはユキだけっていう考え方もできるし。何とも言えないけどね。……まぁ、ムツと戦うにせよ戦わないにせよ、百人一首は面白いと思うよ。まずは一字決まりから覚えてみたら?」


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