* * *

 そこまで読まれればどの歌か確定できる部分をその歌の「決まり字」といい、中でも他にその音から始まる歌がない「決まり字」が一字の歌を「一字決まり」と呼ぶことを、俺は後になってやっぱりメグから教わった。
「全部で七首だね。『むすめふさほせ』だよ」
 テスト一週間前に突入する前の最後の土曜日、休日部活の後でメグの横浜にある自宅に招かれた俺は、マンションの十階にある故やたらと眺めがいいメグの自室で、向かい合わせに床に座らされてそんな説明を受けた。
「娘……房、干せ?」
「『むすめふさほせ』。これで始まる七首が、一字決まり。つまり、『む』とか『す』とかって聞こえたら、その一首を取っちゃっていい訳」
 メグはクローゼットの中から取り出してきた(ちなみにそこには数々のアナログゲームが押し込まれている。メグはアナログゲームが好きなのだ)百人一首のかるたの中から十四枚の札を取り出し、俺の目の前に並べる。十四枚の半分は白地に平仮名が旧仮名遣いで日本語を形成しており、残りの半分には古典風な人間の絵と和歌の全文が印刷されていた。平仮名オンリーが取り札、そうじゃない方が読み札だ。
「まずはここから覚えよう? えっと、覚え方はね、」
「丸暗記じゃないのか?」
「それでもいいんだけど、もっと効率的に覚える方法があるよ。……どの札でも『決まり字』は、初句――最初から五音から六音になってるから、その初句が聞こえたら、取り札を取ってしまっていいんだ。つまり、初句と、取り札に書かれてる下の句――五七五七七の、七七だけ覚えれば充分なんだよ。そうだな、例えばこれ」
 言って、メグは俺から見て一番右端に置いた読み札を指差した。「村雨の露もまだひぬまきの葉に霧たちのぼる秋の夕ぐれ」――寂蓮法師、と書かれており、坊主の絵が文字の下に陣取っている。……ふと、従兄弟の兄ちゃんと昔、正月に二回だけやった坊主めくりを思い出した。
「『村雨の露もまだひぬまきの葉に霧たちのぼる秋の夕ぐれ』。一字決まりの『む』だけど、これだとこうやって覚える。……『霧たちのぼる秋の夕ぐれ』、『村雨の』、『霧たちのぼる秋の夕ぐれ』」
「村雨の……」
「必ず下の句から言うのがコツかな? 下の句、初句、下の句だね。これで、初句が読まれたらすぐに下の句を思い出せるように練習するんだ。簡単でしょ?」
 確かに。これなら全暗記よりも楽そうだし、簡単に覚えられそうだ。
「でも、これを百個も覚えるとなるとな……」
「大丈夫! 確かに、定められた順番通りに覚えていこうとすると大変だけど、一字決まりみたいにその音から始まるものが二首、三首……しかないものから覚えていけば、効率よく覚えられるよ」
 メグは流れるように喋ると、更に手持ちの札から取り・読み合わせて八枚の札を選び出して俺の前に並べる。
「例えば、『う』と『し』。『う』も『し』も、これから始まる歌はそれぞれ二首ずつしかない。『し』だと……『しのぶれど色にいでにけりわが恋は物や思ふと人のとふまで』と『白露に風の吹きしく秋の野はつらぬきとめぬ玉ぞ散りける』の二首だけだね。つまり、『し』って読まれれば、もうこのどちらかだっていう風に見切りがつけられるんだ。こういう風に、数が少なくて覚えやすい、かつ取りやすいものから覚えていく」
「……それでもきりがなくないか?」
「それを言ったらお終いだよ、ユキ……でもさ、例えばだよ? 何の意味もないばらばらの順番で片っ端から覚えていくのと、ちょっと覚えればすぐに取れるようになるものから少しずつ確実に覚えていくのと、どっちが楽そう?」
「……そっか」
「でしょ」
 メグは得意そうにうなずいて微笑む。
「二首しかないのは、『う』『し』『つ』『も』『ゆ』で、全部で十首。……さっきの一字決まりと合わせて、これだけでもう十七首、全体の五分の一近くを覚えられる。しかも全部取りやすい札。どう?」
「三首も含めると?」
「三首は……『い』『き』『ち』『ひ』だから、全部で十二首かな? 合わせて、二十九首。全体の三分の一近くだね」
「そんなにか……」
「できそうな気がしてきた?」
「まぁな」
 よし、これならできそうだ。
 ようやく、俺の絶望に閉ざされかけていた前途にも光明が差してきた気がした。
「あ、もちろん、歌を覚えられているのと札を取れるのとは違うからね? 歌を覚えたら、ちゃんと覚えた中で札を取る練習をするのが大切だよ」
「結局は実際にゲームして何ぼってことか」
「まぁ、そういうことだね」
 ふむ。
 メグと並べられた札とを交互に眺めながら、俺は四つ年下の妹をどう言いくるめて練習につき合わせるかについて考えていた。

 こうして教わった、最初の一音が同じ「友札」同士で、その数が少ない音の歌から覚えていくという方法は思っていたよりもかなり有用で、二期期末テストと球技大会にスキー教室、それらに連なるあれやこれやが終わって一ヶ月経った頃――一年も残すところあと十日くらい、大会当日まで二十日と迫った頃――には、俺は九割近くの札をほぼ完璧に暗記するに至っていた。曖昧な暗記のものも含めていいなら百首全部を網羅したと思うから、いやはや人間やればできるもんだな。
 ただ一つ問題が残るのは、そうして完璧に覚えた歌を、数日空けてしまうとすっかり忘れてしまうということだった。毎日繰り返し暗記をしなければ、一字決まりすら曖昧になってしまう。歌の暗記が勝利への重要なポイントとなる百人一首では、正直これはつらい。
 その弱点を補うべく、俺はメグから教わった暗記法を発展させたものとして、百人一首の暗記カード帳なるものを用意した。単語カードと呼称される、小さなカードを金属製の輪で束ねたものをご存知だろうか? あれの、片面に下の句を、もう片面に初句を書き、下の句を見て初句を思い出す(あるいは初句を見て下の句を思い出す)という暗記を、俺は登下校中やその他空き時間を見つけては繰り返し行なった。何度も何度も。最初に大会の話を聞いた時と同じく俺は百人一首に対する努力を厭わしいと思っていたけれど、ムツから自分の唇を守るためだと思えば何だってできた。
「すっげぇ張り切ってるよね、ユキ」
 と、ある朝電車で乗り合わせたもう一人のチームメイトである服部実紀、通称・ミキは、暗記カード帳をめくる俺を見てそう言ってきた。女子にしか見えないそのキュートな容姿にぴったり過ぎる大きな瞳をくりくりさせながら、可愛らしく小首をかしげてハーフアップにまとめた長い茶髪を揺らす。
「……そうか?」
「うんっ。部活で練習の時とか、普段俺達とつるんでる時とは大違い。目の色が違うってこういうのを言うのかな? すげぇ真剣に頑張ってるユキって、あんまり見たことないから何か新鮮だよっ」
「……ふぅん」
 うっかり気を抜くとだらしなく頬が緩みそうになる笑みを向けてきたプリティーなチームマネージャーに答えながら、俺はこんなことを思った。
 ……人間、変われば変わるものだな。

 しかし、メグの言った通りで百人一首は札を取れなければ意味がない。いくら歌を暗記しても、それが札を取ることに繋がらなければ勝てない訳だ。そこで、俺は自室のクローゼットの奥底で四年も眠りについていた百人一首かるたを引っ張り出し、今宵小学三年生の小生意気な妹を無理矢理つき合わせて実際に札を取る練習もした。
 これがなかなか、思っていたよりも難しかった。バレー部でエースアタッカーをやっているくらいだから瞬発力と敏速性にはそれなりに自信があったのだけれど、いくら歌をしっかり暗記していようと、取れない札は上の句の中盤・二句から三句までが読まれないと取れない。この歌であの下の句だ、と頭でわかっていても、並べられている取り札のどこにその目当ての札があるか、探している内に時間が経過してしまうのだ。そのため、百人一首の競技かるたでは試合前に十五分間、札の配置を覚える時間が与えられている訳だが、これを知った時は正直助かったと思った。
 が、きちんと配置を覚えていたところで、取れない札はやっぱり取れない。特に俺にとって難しいのは「あ」で始まる友札で、これは全部で十七首もあるから、決まり字を判断するのに二、三音以上待たなくてはならず、それから更に場の「あ」の取り札の中から正確に在り処を思い出さねばならないことに、俺は酷くもどかしさを覚えた。
 冬休みが始まる数日前の夜、自室に妹を呼んで練習につき合わせていると、読み札を仏頂面で睨んでいた生意気な小娘はこう言った。
「お兄ちゃん、何ムキになってんの?」
「なってないだろ、別に」
「なってるって」
「なってねぇ」
「なってるよ!」
「じゃあそれでいいよ!」
 と、ムキになる俺だった。
 更にそれで妹を殴ってしまう辺り、俺はいいお兄ちゃん像からは程遠い。


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