* * *

 そんな百人一首漬けの日々が続いた冬休み、年の瀬が迫ったある日のことだった。
 その日俺は、ロックバンドブーム到来中の従兄弟の兄ちゃん(高校二年生)から「買って正月に会う時に持ってきてくれ」と言われて、格安のエフェクターを購入するべく御茶ノ水の楽器街へと出向いた。都内にある私立男子校に毎日通っている俺とは違って「しがない」一県立高校生である自分にとって東京は遠いのだ、というのがその言い分だが、要は年末にわざわざ御茶ノ水まで出張るのが面倒だったのだろう。俺も丁度、バレー部の練習が年末年始で休みになるのに合わせて神田にある古本屋街に行こうと思っていたところだったので、交通費も出してもらえることだし割と快く引き受けたのだった。
「ま、利害が一致したとでも言うのかな……」
 楽器街で中古の安いエフェクターを二個ほど購入した時には既に昼も大分過ぎていて、俺はのんびりしちゃいられないと途中ファストフード店で軽く昼飯を取った後、歩いて神田に向かった。目当ての古本屋街についてからはあっちの本屋こっちの本屋と縦横無尽に飛び回り、手ずれのした本を物色。俺が一番好きなのはライトノベルだが、だからといって普通の小説や新書が嫌いな訳じゃないし、読めと言われたら江戸時代の古書だって読む。面白そうな文庫本と新書を一冊ずつ購入決定し、更に百人一首かるた必勝法が書かれた本を発見した俺は、三時間という長い物色時間でかなりの戦利品を得られて上機嫌で店を後にした。
「あれ? ユキちゃん?」
 そうして店を出たところで、声をかけられた。
 聞き覚えのある声に振り返ると、そこには誰よりも目を引くセクシー且つゴージャスな美女が立っていた。面食いじゃなくてもこの世の男性が例外なく飛びつきそうな筋の通った綺麗な顔立ちに、思わずスリーサイズを測りたくなるほどのモデル体型――脚も細くて長く、全体的にすらりとした印象を受ける。恐らくは自然の色だろう、色素の薄い茶髪を胸の辺りまで伸ばしていて、それが丁寧にアイロンで巻かれていた。都会の風景にぴったり馴染むお洒落な服装に身を包んでいるが、特別気合を入れた訳ではあるまい。彼女はそういう人だ。
「あ……望さん。変なところで会いますね」
「だねー。久しぶり。っても、まだ一ヶ月経ってないかな?」
 彼女は野瀬望さん、何を隠そうあのムツの六歳年上――つまり大学一年生――の、実姉である。
「そうですね。テスト後のボウリングの時以来だから……三週間くらいですか」
「あははっ。じゃあ、全然久しぶりじゃないね」
 初めて会ったのは話の通り今月初めのことで、その時もこのあまりの美人っぷりにびっくりしたのだが、それを際立たせる明るい笑顔とお人柄にも何一つ変わりはないようだった。屈託なく笑うその笑顔は本当にムツとそっくりである。
 しかし、姉弟そろって美男美女ですか……
 神様って平等じゃないな。
「ん。それ、百人一首の?」
 店を出る直前に取り出していた俺の暗記カード帳を指差して望さんは言う。うなずくと、「そっか、頑張ってるんだね」と何故か嬉しそうに笑って、俺の方に手を差し出してきた。
「これから帰りだよね? 途中まで一緒に帰ろう! ……暗記、手伝ってあげる」
「あ……じゃあ、お願いします」
 望さんにありがたく暗記カード帳を渡して、俺は望さんと共に歩き出す。
「『声聞く時ぞ秋はかなしき』」
「『奥山に』。……そういえば、望さんはこんなところで何してたんですか?」
 望さんが読み上げる下の句に対して初句を答える。その後ふと気になって尋ねると、望さんはカードをめくりながらんー、と小首をかしげた。大人びた外見に似合わずやたらと可愛い仕草だ。
「大体ユキちゃんと同じ理由かな? 大学でレポート書くのに資料が欲しくて、初詣の下見で明治神宮に行ったついでで来たのよ。……『白きを見れば夜ぞふけにける』」
「『かささぎの』。……初詣の下見ですか?」
「うん。今までは鎌倉の八幡宮さんに行ってたんだけど、睦が来年は明治神宮がいい! って言ってたから、ちょっと試しに行ってみたの。……要はまぁ、ただ暇だったのよね。『花よりほかにしる人もなし』」
「へぇ……『もろともに』」
 あぁそういえば、と望さんは、そこでふと思い出したように呟いて、カードをめくりながらくすりと笑った。
「その睦だけどさ。睦も、百人一首頑張ってるよ。『三笠の山にいでし月かも』」
「『天の原』……え、ムツがですか?」
 確かに大会に対してやる気を見せていたムツではあるが、まさか練習に励んでいるとは思わなかった。ましてムツには勝たなければならない理由は――俺と違って――ない訳だし。
 練習ってどんな?
「ふふ、気になる? そうだよねぇ、今回ユキちゃんの一番の敵な訳だし。……『知るも知らぬもあふ坂の関』」
「まぁ……え、ていうか望さん、知ってるんですか? 今回の話……『これやこの』」
「知ってるよぉ」
 望さんはムツそっくりに豪快な笑顔を作った。
「睦がまた、ユキちゃんに変な話吹っかけたんでしょ? キスだってね、本当あいつ馬鹿だわー……そんで、ユキちゃんがやる気出してくれたみたいだから嬉しくって張り切ってんの。単純でしょ? 『人には告げよあまのつり舟』」
「……『わたの原 や』。どんな理由ですか、それは……」
 重々しい気持ちでため息をつくと、望さんはうん? と俺の顔を覗き込んできた。それから少し何か考え込むようにして、さっきとは違って真剣な感じの微笑をその整った顔に浮かべる。
「んー。睦はね。ユキちゃんが思ってるよりも、ユキちゃんのことが好きだよ」
 貴方までそんなことを言うんですか、望さん。
 複雑な気持ちがして顔を歪めそうになったが、実のお姉さんの手前、何も言わずに堪えた。
「何せ、中学に入って最初にできた友達……の、つもりらしいからね? とにかくお気に入りみたい。バレーやるなんて一言も言ってなかったのにいきなり部活も一緒にしちゃうくらいだし、本当に、あいつのユキちゃんへの執着は半端ないのよ。睦本人も、ユキちゃんがいなかったら中学生活駄目になってたかもー、なんて言うくらいだし。……『まつとし聞かば今帰り来む』」
「はぁ……『立ちわかれ』」
「逆にいえば、ユキちゃんはどう受け取ってるかわかんないけど、睦は睦なりにユキちゃんを大事にしてると思うのね? で、その大事にしてるユキちゃんが、自分はやる気の百人一首大会に対して全く無気力だったから、それが寂しかったんだと思うんだ。……『さしもしらじなもゆる思ひを』」
「……『かくとだに』」
 どう答えたらいいものかわからなかったので初句だけを答えると、望さんはわずかに笑みを深くして台詞を続けた。
「睦は多分、自分が大切に思ってるのと同じように、ユキちゃんにも、自分のことを大切な友達だって思って欲しいんじゃないかな? だから、一緒に盛り上がったりしたいんだと思うよ。それ故にユキちゃんのことを色々巻き込んで暴走するんだと思うけどね……今回の話も多分、同じ。挑発して、ユキちゃんが上手い具合に乗ってやる気出してくれれば最高! もしやる気になってくれなくても負けちゃったらキスできる。あ、何でキスしたいかはいいよね? ユキちゃんだったら知ってるでしょ、睦のスキンシップが激しすぎること」
「ええ……まぁ……」
「ちなみに睦のファーストキスの相手、私だからね」
「えっ……望さんですか?」
「うん。っても、睦が小二とかの話だけどさ? いきなりされたの」
「……」
 シスコンめ。
 まぁ、こんなお姉さんならシスコンになってもおかしくないけど。
「って訳で、とにかく睦はユキちゃんともっともっともーっと仲良しになりたくてしょうがない! ま、キスしたいかはともかくとして、睦はユキちゃんにどーしてもやる気になって欲しかったんだと思うよ? で、キス云々の台詞はその策略だったって訳。うふふ、ばっちり嵌められたね! ……『人しれずこそ思ひそめしか』」
「……『恋すてふ』……何ていうか……心の底から、迷惑ですね」
 再びため息をつくと、望さんは今度は苦笑して言った。
「ユキちゃんにとってはそうかもだよねぇ。……でも、わかってあげて欲しいな、睦のこと。あいつ、決して悪い子じゃないからさぁ。色々迷惑ではあるけど」
「それはまぁ、知ってますけど……」
「それに、睦がユキちゃんにこだわるのって半分近く私のせいでもあるし。……入学式の前日、『誰も知ってる人がいない私立で、ちゃんと誰かと友達になれるかな』ってあいつ、不安がっててさ? で、私がこう言っちゃったのよ――『教室で隣になった子とは絶対にその日の内に仲良くなって、ずっと大切にしなさい』。そうすれば上手くいくよって」
「……」
「それを、未だもって実行してるのよねぇ、睦は」
 そんなことがあったのか……
 ムツがやたらと俺に絡んでくる理由が判明した瞬間だった。
「だから、ね? ごめんしてやってね。悪気があってユキちゃんを振り回してるんじゃないと思うから。実際に、今睦は凄く幸せだと思うよ? それと、同じようにユキちゃんにも幸せに思って欲しいって思ってると思う。……睦と仲良くしてくれると嬉しいな。『昔は物を思はざりけり』」
「……『あひみての』」
 初句だけを答えてから、俺はしばし考えて、それから棒読みを装って望さんにこう告げた。
「まぁ、俺も……ムツが、あいつが悪気があって俺をつき合わせてるんじゃなくて、むしろ気に入ってくれてて、っていうのは感じてますし。俺から見ても、あいつは俺が中学に入って一番最初に仲良くなった奴ですし。……確かに迷惑ってば迷惑なんですけど、悪い奴じゃないし、仲良くしてもらって、あいつには感謝してますよ」
「……」
「迷惑ではあるけど、それはそれで楽しいことも多いですしね。俺は……あいつに振り回されるのが、そんなに嫌いではないと思います。だからって好きって訳じゃ、はっきり言って全然ないですけど」
「……」
「その程度には。その程度には、俺は……あいつと友達になれてよかったって。そう思ってます」
「……ふふ。ありがとう、ユキちゃん」
 望さんは、その大人びた顔立ちとは真逆の子供じみた笑みを浮かべると、しばらくの間そのままだった暗記カード帳をめくって言った。
「睦と中学で最初に友達になってくれた子が、ユキちゃんみたいな子でよかった。……ところで今の、睦に言ってもいい?」
「駄目です、絶対に言わないでくださいよ。……きっと調子に乗りますから」
「えー、きっと睦、喜ぶと思うんだけどなー」
「俺はできることなら、あいつを喜ばせたくはないですね」
「調子に乗るから?」
「はい」
「それが睦のいいところよ。……『恋ぞつもりて淵となりぬる』」
「『つくばねの』……まぁ、そうかも知れないですけどね」
 それから俺と望さんは、神田駅から中央線快速で新宿駅へと移動し、そこから小田急線に乗って望さんの(ついでにムツの)最寄駅である町田駅へ至るまで、百人一首の暗記をしながら他愛のない世間話をした。町田で電車を降りる際、望さんがあと四駅分電車旅を続ける俺に言ったのは、
「じゃあ、睦をよろしくね!」
 ……だった。
 ムツがシスコンなのと同じに、もしかしたら望さんもブラコンなのかもな。が、ブラコンでもそうじゃなくても、望さんがいい人なことに間違いはない。
 電車を降りる前に手渡された暗記カード帳の温もりを手に感じながら、自宅の最寄駅である南林間につくまでの間、俺はそんなことを考えていた。


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