* * *

 ここで少々、思い出話をさせていただこう。
 思い出話というか、まぁ、この友情の話と同じような感じの他愛もない昔話なのだが……遡ればそれはそれは丁度、この時系列から半年ほど前のことになる。夏休み明けの九月、まだ日差しに夏の名残が残っていて、それが部活の外練で体育館の周りをジョギングしていた俺の肌をじりじりと焦がしていた頃、俺と俺の一友人は昼休みの音楽室で、美しいピアノの旋律と花の咲いたような友情に出会った。
 これもまた、日記帳に「きょうもたのしかったです」のお決まりの文句を最後にくっつけて語れるような能天気な話ではなかったのだが――そう、昔話でありながらちょっとした「事件」だったといえよう――その話の登場人物が、それから俺が音楽室へ訪ねに行った友人約二名である。
 二人共、俺やアキやカナと同じバレー部の同輩でDチームに所属しており、とある事情からバレー部の練習には参加しないことが多いのだが、その事情とやらは音楽室の分厚く重い防音扉を開いて彼等が奏でている見事なピアノの音色を聴けば、きっと理解していただけることだろう。
「……やぁ、誰かと思ったら君か。随分と久しぶりだね」
「よ、シズ。……と、ミナ。って言っても、一応部活の休日練で会ってるだろ?」
 音楽室の前面、黒板の前に荘厳な雰囲気で鎮座している漆黒のグランドピアノに向かっている、二重の厚ぼったい瞼と艶のある黒髪が特徴の美少年――大橋静流、通称・シズは、いかにも生真面目そうな顔立ちに澄ました表情を浮かべて声をかけてきた。
 それにそう答えてやりながら、そんなシズの傍に椅子を出して座っているもう一人が俺をじぃっと見つめたまま一言も喋らないことは、最早あまり気にしていない。こいつはそういう奴なのだ――堺湊、通称・ミナという男は。
「……」
「……何か喋れよ、お前は。三点リーダ以外の台詞パターンをもう少し考えようぜ」
 カナは寡黙とはいっても、あのお喋りで能天気なアキと幼馴染というだけあって、いざ喋るとなったらさっきみたいにそれなりに喋るが、このふわふわ天然パーマの茶髪が特徴的な同輩はほぼ全くといっていいほど口を開かない。
 また、カナが無表情なりに何を考えているかある程度わかるのに対し、ミナの無表情はどこまでも透明で、考えていることが一切読み取れないといういらない特徴がある。こいつも笑えばそれなりに様になると思うのだが、生憎俺はミナが笑っているところというのを未だかつて見たことがない。
 そして、そんなミナの笑顔を唯一見たことがあるだろう人間こそ――ついさっきまでグランドピアノの鍵盤に向かいショパンの「別れの曲」を鮮やかな指捌きで奏でていた黒髪の美少年・シズなのだ。
 カナとアキが幼馴染なら、シズとミナは唯一無二の親友である。
 付き合いとしては、丁度小学校に入学した頃かららしい――こちらもカナとアキとどっこいどっこいの仲良しっぷりだが、それは友達になってから初めの四年とここ半年くらいのことで、それ以外の約二年半はずっとすれ違った状態だった。
 そのきっかけは些細なことで。
 仲直りのきっかけも、微細なことだったけれど。
 ……それがつまり、さっき俺がさせてもらった思い出話に当たる訳だが、それについては是非とも別に語っているのでそちらを参照していただきたいと思う。
「別に、会うのが久しぶりと言っている訳ではないよ」
 俺の鎌かけに対してミナは一言も答えないので(これだから何を考えているのかわからない不思議系だというのだ)、代わりにシズが会話を続けてきた。
「そうじゃなくて、ユキがここを訪ねてくるのが久しぶりなんじゃないか、って言っているんだ」
「ああ……」
 確かに二人の関係に纏わる事件があって以来こっち、音楽室へは数回しか足を運んでいない。記憶が正しければ最後に来たのは去年の年末だったと思うが、いかんせん俺の記憶ほど頼りにならないものはないので、俺としてはどうにも判断しようがなかった。
 もっともその記憶が正しかったところで、シズとミナのいる第一音楽室に来るのは久しぶりになるんだけど。
「何かあったのかい」
 グランドピアノの譜面台に載せていた楽譜を一度閉じて、シズはその名に「静」の文字を冠する者らしく、静かな口調で尋ねてきた。俺が音楽室にやって来るなんてよっぽどのことだろうと、どうやら察しがついたらしいな。
「別に大したことじゃないんだけどな……ちょっと二人の意見が聞きたくてさ。でもいいのか? その様子だと、また近々発表会とかあるんじゃないのかよ」
 ご覧の通り、シズは幼い頃からピアノを習っている。中学一年生にしてショパンやリストの難曲を弾きこなす凄腕の持ち主だが、その練習が割かしハードである故、こうしてバレー部の放課後練には出られないことが多い。また、それを監督とも話し合った上でバレー部に籍を置いている。
 ろくに練習できもしないのにバレー部に所属しているのには、それはまたミナが関わっているのだけれど……その話も今は割愛だ。
「いいや、大丈夫だよ。次の発表会は年度明けの四月でまだまだ余裕があるからね。話を聞くくらいの時間なら取れる。もちろん、僕と湊で聞けるような話であれば、だけど」
 言ってちらりとミナを横目で窺うシズ。ミナは相変わらずぴくりともしない。同じ無表情でも、喋ってくれる分まだカナの方が対処の仕様もあろうというものだ。
 そのミナが、シズにくいっと顎で指示されると唐突にすっくと立ち上がったので俺は驚いてしまった。ミナはまるでロボットのような必要最低限の動きで椅子を引っ張ってくると、丁度シズとミナに向き合える場所に置いてくれる。座れってことらしい。
「……」
 それから俺とアイコンタクトを取るだけ取って、また元のように椅子に腰掛けた。そのアイコンタクトだって、本当に「どうぞ座ってくれ」の意味なのか判断できないくらい何の思惑も読み取れない。こいつに比べれば言葉を覚えたてのオウムの方がまだ喋るだろうし、冬眠中の蛙だってもっと動くだろう。
 まぁ、ありがたく座っておくが。
「それで、話っていうのは?」
「……いや。ご丁寧に椅子まで用意してもらったところ申し訳ないんだけど、そんな改まって話すようなことでもないんだ」
 優雅に脚を組むシズに促され、そんな前置きをしてから俺は本題に入ることにした。
「その、な……例えばなんだけど。もしお前等二人がひょんなことから喧嘩――そんな殴り合いとかの大げさなのじゃなくて、口論くらいの軽い喧嘩をしたりなんかしてさ。ちょっとお互い気まずくなっちまった時とかって、どうやって、」
 こういうストレートな表現は少しばかり恥ずかしいのだが。
「……仲直り、すんの?」
 カナとアキのことだとはぼかしてアウトラインだけをざっと説明し問いかけると、シズはぎゅっと眉根を寄せて怪訝そうな顔をした。
 思いっきり嫌そうな表情だが、そんなことを言ったらシズは普段からこんな不機嫌フェイスである。本当に不機嫌なこともあれば実は照れ隠しだったりすることもあるので、そこら辺の判断は非常に難しいんだが。
「何だい、ユキ、ムツと喧嘩でもしたのか?」
「っはあぁ?」
 一体どんな厳しい答えが返ってくるのか――例えば、そんなの本人達が考えろ! とか、表情的にそういう返答をされると思っていたので、シズのその切り返しは俺にとって予想外もいいところだった。思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。ちょっと恥ずかしい。
「違うのかい」
「ち……違う違う。俺じゃねぇよ、的外れもいいところだろ」
 つーか、俺のことだったところでどうしてそこで相手がムツだと限定されてしまうのか、そっちの訳を知りたい。
「だって、ユキと一番仲がいいのはムツじゃないか」
「……」
 やはり、傍目からはそう見えるんだろうか。だとしたら俺としてはかなり不本意な見え方なのだけれど。
 俺と一番仲がいいのがあんな奴だなんて……まぁ、確かに日頃からつるんでいるのだから、丸っきり外れって訳でもないのだが、だからってよりによってムツかよ。
 あのウザい熱血暴走野郎・生きた迷惑行為防止条例違反と比べて、メグとかミキとかの名前が全然出ないのが何だか哀しい。
「でも、ユキとムツじゃないっていうなら、それは一体誰のことだい?」
「……、匿名希望ってことで」
 別に口止めされている訳でも何でもないが(むしろ話を打ち明けられたのだから、名前を出してしまっても揉めごとにはならないはずだ)、だからといって進んで知られたいことでもないだろうと俺は勝手に判断し、そう曖昧にごまかすことにした。
「まぁ、どうしてもっていうなら……そうだな、仮にA君とY君としておくか」
「随分と具体的だね」
 そりゃ、ただのイニシャルだからな。
 AKIRA君と、YOICHI君である。
「今日、ちょっとその片方から相談を受けてさ。きっかけが何なのかはどうしても口を割ってくれなかったんだけど、とにかく何かつまらない喧嘩になったらしいんだよ。で、殴り合いにならない内にその場はお互いさくっと引いたらしいんだが……」
「わだかまりが残った、と」
「そういうことだ。……もっとも、わだかまってると思ってるのはA君の方だけみたいなんだけどな。何だか話しかけづらい、とか言ってY君と不自然に距離を置いちまってる状態……一方のY君の方は、さほどその口論のことは気にしてない」
「なるほど。そこまで聞いて判断する限り、ユキに相談してきたのはA君の方だな」
「……うん。まぁ」
 カナとアキのことだと隠し切れる自信が、今のシズの台詞でなくなった。
 こいつ、鈍感なようで意外と鋭い。
 つーか俺の口が必要以上にすべっちまっているのかも知れないが。
「聞いてみるとむしろ、Y君としてはいつも仲良しこよしのA君が自分から距離を置こうとしているのを、どこか肯定的な目で見てたみたいなんだな。いつまでも二人べったりじゃ将来的に困るだろう、みたいに。……一応、そんなことはないって伝えておきはしたけど」
「ふむ……」
「多分これで、普通にいけば上手く収まってくれるとは思うんだけどさ。何か心配で」
「それで、僕達のところに相談に来た、と」
「うん、まぁ」
「なるほどね……」
 シズは言って短く吐息をつくと、組んでいた脚を組み替えて瞑想でもするかのように目を閉じた。俺が話した内容を頭の中で整理しているらしい。
「そんな風に喧嘩してお互い気まずくなった時、二人ならどうするかと思ってさ」
「……うん。話は大体わかった」
 やがて瞼を開いて、シズは浅くうなずく。
 それから、
「……申し訳ないけど、この話、僕達じゃ力になれそうもないな」
 と、言った。
「……力になれない?」
「うん」
「どうして」
「だって僕達は、喧嘩したことなんてないからさ」
 この言葉だけ見てもらえれば、もしかしたらそれは一度も喧嘩したことがないくらい仲がいいと、そんな意味に取られるかも知れない。
 が、その台詞を口にしたシズの表情は、少なくともそういった自信めいたものではなかった。どころかどことなく寂しそうにすら見える。
 その表情のまま、一瞬だけミナを横目で振り返るシズ。
「僕達がしていたのは、ただのすれ違いだよ。……それはユキが一番よく知ってるだろう」
「……まぁな。でもさ、」
 ここであっさり引いてしまうのでは折角音楽室に足を運んだ意味がない。俺はもう少しだけ粘ってみることにした。
「喧嘩だろうとすれ違いだろうと、その後が気まずい状況であることに変わりはないだろ。そういう観点で、どうにかならないか」
「ならないね」
 はっきりとシズは首を横に振った。
 取りつく島もない。
「喧嘩っていうのは、お互いがぶつかり合ってするものだ。すれ違いはお互いが触れ合わない結果だよ。同じように気まずくても――その気まずさは、はっきり言って質が違うと思う」
「……質が違う?」
「お互いの主義や主張、意見や価値観を戦わせる分、ひょっとするとすれ違っているよりも性質が悪いかも知れないよね、喧嘩っていうのはさ。よくわからないけど」
「……」
 一つ一つの言葉が、何だか重いように思う。
「すれ違ってるだけならお互いに歩み寄ればいいかも知れないけど――お互いのことを散々傷つけ合った上で元に戻ろうっていうなら、歩み寄るだけじゃ多分済まないんじゃないかと思うよ。それは多分、相手の主義や主張、意見や価値観っていう、一度は思い切り否定したものを、受け入れなきゃいけないってことだからね」
「……受け入れる、か」
「あるいは、自分の主義主張・意見に価値を、犠牲にしなきゃいけないってことだ。……もっとも、相手と自分のプライドとどっちが大事かなんて、本当にその相手が大切なら、比べるまでもないことだと思うけどね」
 俺がアキに言ったのと丁度同じようなことを、シズは言った。
 やはり誰が考えてもそういう結論に落ち着くのだろうか。だとしたら、相手と自分のプライドを天秤にかけて、自尊心の方が重い俺っていうのは、一体――
「しかし、喧嘩、ね」
 俺が相談した内容に何か考えるところがあるようで、再びシズはその目を閉じた。
「そうやって諍いをすることができるっていうのは、ある意味幸せなことなのかも知れないよ。少なくとも僕はそう思う」
「……喧嘩できることのどこが幸せなんだ?」
 来る日も来る日もいがみ合ってばかりなんて、幸せどころか悪夢でしかないように思えるが。
「喧嘩するってことはさ。さっきも言ったけど、お互いの主義主張、意見や価値観を戦わせるってことだろう? 心のぶつかり合いだ。それは、ぶつかり合えるほど互いの心が近寄ることが許される――と、そういうことだと思うんだよね」
「……」
 それは、親友であるミナとはすれ違ってばかりで、喧嘩なんて一度もしたことがないという――そんなシズならではの意見かも知れなかった。
「ユキはこんな話を聞いたことがあるかな? 二人の人間がそこにいて、その距離が限りなく近い時……その関係は二つのパターンに絞られるって。つまり、密着するほど仲がいいか、互いの顔を至近距離で睨み合うほど仲が悪いか……どちらかと言えば、仲がいい方がより間隔が狭いらしいけどね」
「……」
「あるいは、『喧嘩するほど仲がいい』のことわざを引っ張ってくればわかりやすいかも知れないな。……よそよそしかったり距離があったりすれば、相手に遠慮して深入りしないようにするだろ。一線引くって言ったらいいか――そんな状態じゃ、喧嘩しようにもできない。逆に、相手の言動をいちいち気にしなければいられないほど距離が近ければ、どんなに仲が良くたって喧嘩になるさ」
「心の……ぶつかり合いか」
「半径三メートル以内に二人の人間がいれば、仲良くすることができる。これが半径一メートルになると、途端に喧嘩を始める。……まさにそんな感じだと思わないかい? 人間関係っていうのは」
 一体どの偉人の名言を引っ張ってきたつもりなのかわからないが、もしこれがシズ独自の台詞だというのなら、どんな知識人にも負けず劣らずの名言だと思った。
「まぁ、そういう前提に基づいて考えるなら、僕と湊はカナとアキほど仲がいいとは言えないことになる訳だけどね。それに関して、湊はどう思う?」
「……」
「やっぱり無言か。こんな時こそ、互いの主張を基に徹底的に議論し合って、その結果喧嘩になってもいいと思うんだけどな。まぁいいや」
「……僕は、」
 それまで沈黙を守り通していたミナの口元が、ここに至って数ミリ動いた。
「僕は、意見を持たない」
 そして、たったそれだけ言ったきりまた口を閉ざしてしまう。
「……そうかい」
 そんなミナに、シズも短く鼻で笑うだけなのだった。
「その意見を持たないっていうのが、意見であり価値観であり、また主義主張でもあると僕は思うんだけどね……それに関してはまた、別の機会にじっくり言い合いすることにでもしようか。今の湊の答えを聞くと、どうしてなかなか面白い口論ができそうだよ」
「……」
 どこか皮肉めいた口調でシズにそう言われても、ミナはもう何も言い返さなかった。半年前のあの時に喋るべき一生分は全部喋り切った、もうお前に言うことは何もないと言わんばかりの態度だ。
 そんなでも、やっぱりシズとミナは――友達同士なんだよな。
 親友、ね。
「とまぁ、そんな感じで僕のターンは終わりになる訳だけど、どうかな、少しは参考になったかい」
「少しどころじゃなく、かなり参考になったよ。脳の面積が当社比五割増しになった感じだ」
 さんきゅな、と短くだが礼を告げると、シズはふいっと俺から視線を逸らした。
 そのタイミングがあまりにも不自然だったのでどうしたんだろうと首を傾げたが、丁度その時、
「……礼ならいいよ。こういう議論は、僕も、そう、別に嫌いじゃないから」
 と必要以上にぶっきらぼうな口調で言われて、何だいつものパターンか、と俺は微かに苦笑した。
 あの迷惑千万なハイテンションの化身であるあいつは、俺のことをよくツンデレだとか表現するけれど、どうだろう、俺なんかに比べてもよっぽどシズはツンデレだと思うのだが。
 嫌いじゃない、とかさ。
 頬をうっすらと赤らめちゃって、まぁ。
「ともあれっ。……機会があったら、カナとアキによろしく伝えてくれ」
「……そういえばそれ、さっき突っ込み忘れたけど、カナとアキのことだってわかったのな、お前」
 折角仮名にしておいたのに、これでは苦労が水の泡というか何というか。
「あー……で、あいつらのことだってわかったんなら、お願いしたいことがあるんだけどさ。別に口止めされてる訳でも何でもないんだけど、一応、この話はあっちこっちで気安く喋らないようにしてくれるか」
「お安い御用だよ」
 譜面を広げ、再び鍵盤に向かいながらシズは浅くうなずいた。
「自分達の抱えている問題が知らない内に色んな人間に知られていて、決していい気はしないだろうからね」

 早く練習に出ておいでよ、とシズに促され、俺は音楽室を後にする。
 重い防音扉を開いたところで振り返ったが、さっき一言だけ意味深長なことを言ったミナは、目が合っても再び口を開いてくれることはなかった。
 別に期待はしていなかったけれど。


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