* * *
それが、一月半ばのとある金曜日――三学期中間テスト週間が始まる直前の日のことであり、翌土曜日はテスト休みに入る前の最後の休日練習の日、俺は練習が始まる朝九時をめがけて学校までの道を歩んでいた。
その日は朝から曇天だった。雨が降れば間違いなく雪になるだろうってくらい厳しく冷え込んでいて、俺は首に巻いたマフラーに口元をうずめて歩く。実際に今日の天気予報は曇りのち雨、ところによっては一時雪が混じることもあるでしょう、であり、俺の手には秋口の台風で愛用の傘が派手にぶっ壊れて以来母親に与えられてマイ傘となったビニール傘が持たれている。
一応母親に持っていけとうるさく言われて持ってはきたが、できれば差さないまま家まで帰り着きたいもんだ……
そんなことを考えながら駅を出て十五分ほど歩いた角を曲がり、大通りから住宅地へと入っていく。いつもの通学路をゆっくりとした歩調で歩いていくと、まっすぐ行った先に見慣れた母校の校門が見えてきた。
「……?」
じっとしていれば袖口や裾から忍び込んでくる冷気で手足がかじかんで凍えそうな陽気だというのに、その校門のところに人影が一つ佇んでいるのが見えて、俺は寒空の下で眉を顰める。
あんなところで何をしているんだろう。まさかこのクソ寒い中で誰か人を待とうなんて酔狂な人はいないと思うのだが、校門をくぐって学校の敷地に入る様子もそこを立ち去る様子もない。
俺は最近落ち気味の視力を目を細めることで補い、呆然と突っ立っているその奇妙な人物が一体何者なのか見定めようと、して――
「……おい、」
もう十歩ほど校門に近づいたところで、俺はその人影が俺のよく知る友人であることに気がついた。
同時に、思わずアスファルトの地面を勢いよく蹴ってその人物へと駆け寄る。ブレザーの布を冬の凍てつくような風が通り抜けたけど、そんなことはそいつの尋常じゃない様子と比べたら全然大したことじゃなかった。
「アキ!」
「…………あ、」
普段なら声をかけた瞬間へにゃっと緩く笑うはずが、今日は反応がやたらと鈍い。
アキ――瀬田彰は、走ってくる俺に声をかけられてから五秒ほどしてやっと、伏せていた瞳を上げて俺の姿を捉えた。
そうして正面からその瞳を見て。
俺は言葉を失う。
「おはよ……ユキ」
「おはよじゃなくて、お前……おい。どうしたんだよ」
俺と同じ紺のダブルブレザーにスラックスという格好は、休日の部活等で登校する時でも登下校の際は必ず制服を着用するように、という校則に従っていて何もおかしくはない。ああ、何もおかしくないとも。この凍るような寒さにも関わらず、コートもマフラーも手袋も着用していないという点をおかしいとかいう気も毛頭ない。
外見こそいつも通り――しかしながら、アキの様子がおかしいことなんて一目見れば瞭然だ。
明らかにアキは憔悴していた。
俺を見る目に力がない。
へにゃっと普段の笑顔をなぞってみせた、その微笑も奇妙にぎこちなかった。
「部活は? ていうか、こんな寒いところで――」
顔は笑っているのに――俺を見る目の、その更に奥の心が泣いている。
ように、見えた。
「――何、してるんだよ」
「……ユキ、」
俺があともう一歩歩み寄れば。
アキは、今度こそ泣きそうな顔をした。
大きな猫目が見る見る潤んで、そしてすっかり冷えて赤くなった頬を一筋の涙が伝う。
「俺……俺……」
一粒零れ落ちたと思ったら、堰を切ったように次々に涙は零れ落ちていく。それを拭いもせずに、アキは言った側から消え入りそうな力ない声でこう訴えてきた。
「俺――要一と、すげぇ喧嘩しちゃった」
言ったと思った途端、崩れ落ちそうになったところを俺にしがみついてくる。
「お……おい、アキ? 大丈夫かよ? 喧嘩した、って」
突然のことに動揺が隠せず、しがみついてきたアキを何とか支えながら答えた声が震えた。アキは俺のブレザーの肩に目元を押しつけて、必死に涙を堪えているように見える。
俺の肩をハンカチ代わりにするんじゃないとか、頼むから鼻水は擦りつけないでくれよとか、そんなことを悠長に突っ込めるような雰囲気じゃ残念ながらなさそうだった。
「――一体いつ?」
「……たった今」
俺の問いに答えた声が震えている。
それから顔を上げたアキは、真っ赤にした目から次々に涙を零しながら、それでもどうにかして泣き声だけは殺そうと唇を固く噛み締めていた。
「こ、ここに来る途中で……頑張って、そういう話しようと、思、思って……」
そういう話というのは、俺が昨日の昼休みに図書館でアドバイスしたあのことについてで間違いはあるまい。
「それで……そしたら……俺っ……要一が……」
アキは完全に混乱しているらしい、噛み締めた唇を時々解放して放つ言葉は全く意味の繋がらない断片ばかりだ。が、ここでいきさつの詳細について説明を求めるのはあまりにも酷ってものだろう。
とにかく、わかったことは二つ。
アキがどうにかして関係を修復しようとカナに話を持ちかけたこと。
それを原因として、派手に喧嘩をやらかしたということだ。
「……カナは何て言ってたんだよ? つーか、どうしたらそんな……仲直りしようみたいな話で、そんな喧嘩になんかなれるんだ」
「知らないよ……要一が何であんなこと言ったのかとか……全然わかんねぇよっ。お、俺は。俺はただっ……要一が……」
要一要一と、しつこいくらい繰り返しカナの名を口にするアキ。
そして、ついに――アキは切れた。
爆発、した。
「――訳わかんないんだよっ! 距離、置こうとしてるならいいと思ったとか! 勝手な、すげぇ勝手なことばっか言って! お、俺が……俺が、どうしてああいうこと、言ったのか、知ってるくせに!」
思いの丈を全て吐き出すみたいに――
「他でも、ない、要一が一番よく知ってるはず、なのに何で――何であんな、あんなこと言えるんだよ……! 訳わかんねぇよ……要一の奴、滅茶苦茶残酷だよ!」
「あ――アキ、」
「本当、マジで信じらんねぇっ……馬鹿……本当に、一人で、一人でずっと悩んでた俺が、馬鹿みたいじゃん……つーか、俺、が、馬鹿だったのかな。勝手に……勝手に、本当に勝手にそうだって思い込んでた俺が、馬鹿だったんかな……」
「……」
泣き叫んだと思ったら、次の瞬間にはまた消え入りそうなすすり泣きでの台詞に戻っている。
感情の起伏が無駄に激しい。
完全に――取り乱している。
「……なぁ、ユキ。俺と、要一はさ……幼馴染だよな?」
涙を湛えた目で力なく見上げられそう無理矢理作った笑顔と共に尋ねられても、俺はアキに何も言ってやることができなかった。
「友達、だったよな」
「……アキ。落ち着けよ」
「親友、だった――よな」
それがどうしたとか。
言っていい雰囲気じゃない。
「でも……結局、そういうことか」
「そういうことって……」
「もういい」
あっさりと。
酷く冷めた――褪めた口調で、アキはぽつりとそうとだけ呟いた。
「も……もういいって」
「どうでもいいってこと。……ごめんな、ユキ。勝手に一人で泣いて、勝手にキレて、勝手に落ち込んで。俺が言ってること……ぶっちゃけ全然わかんないだろ」
「……正直わかんねぇけど。でも、落ち着いたんなら、話くらいならきいてやれ――」
「悪い。最初はそういうつもりでいたけど――やっぱやめるわ」
まるで感情のこもっていない、完全完璧な棒読みだった。
表情もまた、一切の感情を窺い知ることのできない――無表情。
それは、相方であるカナの特徴であったはずなのに。
「こんなこと、ユキに話してわかってもらえるだなんて思えないし。……本当のこと言うとわかって欲しくもねー」
「……」
「昨日ああやって相談までしておいてその態度はどうなんだ、とか言いたいのはもっともだと思うよ。だから……マジでごめん、ユキ。でも、これはやっぱ俺達の問題なんだよな――ユキに話しても、しょうがないことなんだよな」
しょうがないことなんだ。
まるで呪いの呪文でも唱えるみたいに、ぶつぶつとそう繰り返すアキ。
けれどこの時の俺は、一日前に同じように「言ったってしょうがない」と言われた時に思ったように「だったら俺に相談するな」とはとてもじゃないが思えなかったし、言えなかった。
「その『俺達』の中で、片方の要一が駄目なんじゃな……一人だけで延々悩んでるとか、自分で自分が馬鹿に思えてくるよ。まぁ、そもそもそこまでいい頭じゃねぇけどさ」
「……お前等、」
俺は言った。
唸るような声で尋ねた。
「一体、何が原因でそんな最初、口論なんかになったんだよ」
「――悪ぃ。ユキ」
俺の問いに、アキはゆるゆると首を左右に振って平坦な声で謝る。
「もう、そんなのも――どうでもいいんだよ。俺にとっては、もう」
「……んな……どうでもいい訳、ないだろ」
「本当、馬鹿みてー。よくよく考えると超笑えるな」
相変わらず会話が全然噛み合わない。
濡れた瞳とは裏腹の乾いた声で笑って、アキは曇天の空を仰いだ。
「相手は全然気にしてなかったのに、こっちは滅茶苦茶悩んでうんうん唸ってたとか。勝手に力んで、あれこれいらないこと考えてさ。こっちはマジで色々悩んでたのに――向こうは何も考えてなんかいなかったんだ。勝手に一人で悩んで。馬鹿みたい……だな」
「アキ、」
「だから、さ。俺ももうやめるよ。要一のことで悩むのは。そんなことしたって全部無駄だもんな」
無駄だった。
何もかも。
だからどうでもいいよ。
アキは繰り返し、その言葉を白い息に乗せる。
そして。
「要一なんか――もう、知らない」
言ったきり、俺の横をすり抜けて駅方面へと歩いていこうとするアキを、俺はかなりの時間が経つまで引き止めようという考えに至らなかった。
それくらい衝撃的な一言だったのだ。
要一なんかもう知らない――という、そのアキの言葉は。
「っおい、アキ!」
未だかつて、俺はアキとカナの二人が気まずそうにしているところなんて見たことがない。
全く誇張なく、生まれた時からの幼馴染で。
すぐ傍にいるのがデフォルト。
本当、異性に生まれていたら恋愛シュミレーションゲームや何かの幼馴染王道パターンの如く、将来的には結婚までしたんじゃないかと思えるくらい、二人はいつだってべったりと寄り添っていて。
それが――もう知らない、だなんて。
「待てよ! お前……お前、部活は?」
もう十メートルほども向こうへ行ってしまったアキは、俺の呼び止める声に首だけで振り返って答えた。
「休む。……悪いけど、監督にそう伝えておいてくんない? とてもじゃないけどさ、こんな調子じゃバレーなんてできねぇよ」
「それは……そうかも知れないけど」
「体育館には要一もいるしな。あんだけ派手に色々言い合った後で一緒のコートでいつも通りに練習できる自信とか、俺にはないよ」
冷え切った冬の風に晒されて赤くなった頬に、涙の跡が一筋だけ残っていた。
「……じゃ、」
それを拭って消そうともせずに、アキはそう一方的に俺に告げたかと思うと住宅地の中に伸びる一本道をとぼとぼとした足取りで駅方面へと去っていく。俺は校門の前でただ一人その場に取り残されて、どんどん小さくなっていくアキの背中を打ちのめされたような気分で呆然と見つめていた。
そして。
その後ろ姿と、途中ですれ違う――見慣れたハンサムフェイス。
アキが遠ざかっていくのとは対照的にどんどん近づいてきたそいつは、たまに後ろのアキをちらちらと振り返って気にしながら、やがて俺の目の前まで歩いてきて、そこで立ち止まる。
「……おいおいユキ。もしかして可愛い可愛いアキ嬢ちゃんのことを、俺様の知らぬ間にうっかり泣かせたりとかしちゃったのかい? お前は男の風上にも置けない奴だなー、この野郎」
面食い女子が刹那も置かずに飛びつきそうな極上のルックス。
胴が短く脚が長い完璧モデル体型、真冬の陽気であるにも関わらず今日も常夏の輝きを放つ太陽のような笑みが特徴の、困った暴走癖を持った熱血気味なポジティブハイテンション同級生――でもあり、部活の同輩、兼チームメイトでもある。
紺ブレザーの下にグレーの厚手のパーカーを着込んで堂々と校則に違反した、忌々しいイケメン面。
「もしも万が一そうやってアキちゃんを泣かせちゃったんだとしたら――いっくら愛しい俺のユキ嬢ちゃんであろーと、悪いけど容赦しないぜ?」
野瀬睦。
通称・ムツ――だった。
「……今の見てて、どうして俺がアキを泣かしたっていうのに直結するんだよ。その謎過ぎるウザい思考回路をどうにかしろ、お前は。あとユキ嬢ちゃんって呼ぶな。愛しいとも言うな、気持ち悪い。死ね。地獄に落ちろ」
にやにやと。
見ているだけで胃の辺りがむかむかしてくるような、腹立たしいニヤケ顔で仁王立ちし俺を見据えている我がCチームのセッターに、俺はいつものように眉を顰めて地を這うような低い声で答える。
いつもこうだ。
こいつはここぞっていう場面を逃さない。
騒ぎのあるところに奴の姿あり。
台風の中心たる手に負えない暴風雨、吹き渡る烈風の化身。
古今東西に並ぶ者なき、ご意見無用で問答無用。
天上天下唯我独尊に喧嘩上等天下無敵の――究極のトラブルメーカー。
「あれ? ユキが泣かせたんじゃねーの? 俺ってばてっきり、お前がまたいつもの皮肉と毒舌とを披露して、アキのピュアでイノセントなガラスのハートをぐさっと一突きやったもんだと思ったんだけどよ。……俺に今言ったみたいに、死ねだの地獄に落ちろだの、可愛い顔できっついことずばずばと言っちゃってさ」
「俺が毒舌家で皮肉屋なのは認めないでもないが、残念ながら泣かしたのは俺じゃねぇよ。……カナだ。詳しいことはわからんけど、些細なことで口論になってそれが原因で今朝大喧嘩したらしい」
「カナが?」
俺の答えが意外だったのか、ムツは目を見開いて驚いたような顔をする。すぐにその形のいい眉は下がって、目は細められて眉間に深い皺が刻まれた。
険しい表情。
「ふーん、カナがなぁ……ふん。口論になった、か」
口論ねぇ、と。
何か考えるところでもあるかのように、もっともらしくムツは腕を組む。しばらくそのポーズを維持した後で「まぁいっか」とやけにあっさりと思考することを放棄すると、それから俺の肩にぽんと手を置いた。
こんな時こいつは次に何と言うのか、俺は嫌というほどわかり切っている。多分――
「詳しいことは後で昼飯でも食いながらじっくりと聞いてやんよ。……ひとまずは部活だ。あんまり遅くなるとメグに怒られちまうぜ」
その手にこめられた力が不穏な感じに強いことに、俺はとっくのとうに気がついている。それが意味していることを考えると、俺の心にはこの灰色の空と同じように一面に暗雲が立ち込めたのだった。
わかっていることは後にも先にも二つ。
俺の肩をがっしりと掴んで離さないこいつが、他でもないあの野瀬睦だということと。
そうして肩を掴まれた俺に逃げ場なんかないということだった。
アキの台詞を借りるつもりは毛頭ないが――
朝っぱらからこんなことになって普段通りに部活に参加できる自信なんて俺にはなかったのだが、そんなことはこのムカつくイケメン面には全く何の問題にも該当しないようだった。
ついたため息が、白い帯となって俺の口から凍てついた空へと立ち昇った。
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