* * *
いつから自分がこんな人間になってしまったのかはわからない。
至極ありふれた俺のルーツの話をさせていただこう――それは俺が幼稚園という、物心ついて間もない脳みそ不足のガキんちょ共を保護と銘打って監禁する施設に入れられてすぐの頃のことだ。その頃の俺は、常に施設の片隅で絵本を広げて過ごし、クラスメイトがどこでどんな遊びをしていようがまるでお構いなく空想の世界に一人でどっぷり浸かっている、そんな痛い子供だった。
どうしても無理だったのだ。
少し離れた場所で、鬼ごっこやかくれんぼをしたり、園庭を縦横無尽に駆け回って遊具から遊具へと飛び回る同い年の子供達を、まるで他人事のようにしか見ることができなかった。幼稚園の先生達に誘われて、お遊戯や歌や何かで盛り上がる場に呼ばれても、一緒になって盛り上がることができなかった。
俺を取り巻く喧騒が、酷く遠い場所で起こっていることとしか思えなかったのだ。
スクリーン上で繰り広げられる世界など所詮はフィクションでしかない、と、冷めた目で映画を見るように。
……周囲と同じ感覚で物事を見ることができない。
幼心ながら、そのことに気がついた時は足元がぐらつくような恐怖に襲われた。このままじゃいけないと、かなり真剣に悩んだ。もしもばれてしまったら。俺がこんな、人の気持ちに共鳴することが少しもできない人間失格野郎なのだということが知れてしまったら。
――それでなくてもどこか軽蔑の念が含まれた俺に向けられる視線は、更に尋常でなく、冷たいものになるのではないかと。
そう、背筋の冷える思いだった。
だからこそ、小学四年生で太宰治の「人間失格」に出会った時は、らしくもなく共感して涙まで流してしまったのだけれど――そうして、物語の中に描かれるえげつない主人公に共感できてしまうくらいには。
俺は、常識を軽々と逸した子供だったと思う。
だからせめて、俺は常識的でいたかった。人と同じようなことで笑い、泣き、怒り。そんな、人間らしいデフォルトでありきたりな人間でいたがった。
そして俺は道化となった。上手く笑えないから。上手く泣けないから。怒ることさえろくにできないから――他人の真似をして、せめて曖昧に微笑み、適当に咽び泣き、いい加減に怒り狂った。
何もかも中途半端で。
本気になって感情をほとばしらせたことなんて、ない。
そんな、嫌な子供だった。
無駄に大人びていた本当に嫌な子供だったと、自分でそう思う。そしてそんな嫌な子供だった自分を、俺は捨て去ろうと必死になってこれまで生きていた。
実際、俺は変わったと思う。
だけど――本当は、変われていない。
全てがあの時のままなんだと思う。
月に一度の誕生日会の席で、同じ月生まれのクラスメイト達と一緒に教室の前に立たされて、お決まりのあの歌を歌われながらただ漠然と目の前の顔・顔・顔の波を恐怖の念で見つめることしかできなかったあの時から――けれどそれを悟られないように、曖昧に微笑んでみせていたあの時から、俺は実のところ、ちっとも変われてなんかいないんだろう。
いい加減で適当で、曖昧ではっきりとしない、何よりも中途半端な――俺。
そんな、嫌な子供のままなんだろう。
ムツに大嫌いだと言われたってしょうがないのだろうと思う。
それでも俺は、悔しかった。
ムツにそれを指摘されたことがじゃない。
俺が、未だにそんなことを指摘される類の人種であったことが、だ。
あの頃の自分は当に捨て去れたものだと思っていた。いい加減で適当で曖昧ではっきりとしない、中途半端な俺は幼稚園卒園と共に卒業できたと思っていた。
あの頃真剣に悩み、恐れおののいていたことが、十年近くの時を経て今、現実となったのだ。
人の気持ちに共感できない人間失格野郎であり。
それを曖昧な微笑で、適当な嗚咽で、いい加減な絶叫で中途半端にごまかしていたことを――知られてしまった。
そして嫌われた。
大嫌いだと、面と向かって言われた。
そうして嫌いだと――思いっ切り言い切られた最初の相手が、まさかムツになるだなんて。
俺はそれがショックだった。
自惚れていたつもりはない。けれどどこかで俺は、こいつだけは絶対に俺のことを嫌ったりなんかしないだろうと、そんな生っちょろい考えを持っていた。入学式のあった初日、ホームルーム中であるにも関わらず隣の席から「おい、お前」と小さな声で呼びかけてきたムツ。始終俺に付き纏い、同じ部活に入部した挙句どんな超能力を使ったのかチームメイトにまでなって。それ以来ずっと、俺を勝手気ままに振り回してきたムカつく同級生。
俺の右手首を掴んでいたのはいつだってあいつだった。
今日だって。
マックの駅前店舗に着くまでは、一つの傘の下で、あいつはべったり俺に寄り添っていたのだ。
俺の手を握って、お前の手は冷たいな、なんてけらけらと笑って。
ウザいくらいにずっと俺に引っ付いて回っていたくせに――
あっさりと。
本当にあっさりと、俺のことを嫌いだと言った。
ショックだった。
好きだと言われたことは何度もある。抱き締められたこともたくさんある。可愛いとは何十回と言われた。キスだって二回もされた。
そこまでして俺にこだわり続けてきた野瀬睦。
あんなに好きだって言っていた――こんな俺を必要以上に好いていてくれていた奴にまで、嫌われるとは、我ながら随分と……大したもん、だよな。
その日の夜は眠れなかった。
ベッドに横になり、暗い部屋の中で一人目を閉じれば、あの時俺を大嫌いだと言い放ったあいつの顔が瞼の裏側に浮かんで俺の睡眠の邪魔をした。
窓の外からは雨の音がした。
あの後ムツは、どうやって家まで帰ったんだろうか。駅までの道が何とかなれば、後は家の人が――あいつがこれまたウザいくらいにべったり纏わりついている姉辺りが、傘を持って迎えに来てくれたりもしたかも知れない。俺なんかが心配することじゃない。そんなことに意味はない。わかってる。
それでも俺は、道路を雨が静かに打つ音を聞いては、ムツがあの寒い中を無事に自宅まで帰りつくことができたのかどうかを思った。
時折ベッドから机に手を伸ばして携帯電話を手にとっては、メールが来ていないかセンターに問い合わせた。
メールは来なかった。
いつもだったら夜遅く、何だってこんな時間にと思うような頃合を見計らってどうでもいい電話をかけてくるくせに。
いつまで経っても携帯電話は沈黙を守っていた。
諦めて目を閉じた。
俺は疲れていた。
猛烈に眠くて、それなのに眠れなかった。気がつけばあいつのことばかりを考えていた。あんなに鬱陶しく思っていたのに。あれほどウザいと思っていたのに。黙れ、死ね、失せろ消えろ、殺す、地獄に落ちろ、ありったけの罵詈雑言をぶつけるほど嫌いだったはずなのに。
いざ離れられた途端――どうしてこんなに、あいつの忌々しいイケメン面が脳裏に浮かぶのか。
俺はショックだった。
あいつを嫌いだったはずなのに、いつの間にかこんなにも取り込まれてしまっていた自分が、ショックだった。
そうしてショックに思っていながら――謝罪のメール一つも打てない自分が、一番ショックだった。
俺は静かに泣いた。
号泣した。
黙っていても朝が来ることがこれほど残酷なことだとは、思いもしなかった。
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