* * *

 そんな訳で、次に学校へ赴くことになった月曜日はとにかく寝不足だった。ムツと派手に言い合った土曜日当日が眠れないだけならいざ知らず、日曜の夜すら満足に睡眠を取れないとは、もしかしたらこのまま俺は不眠症になっちまうんじゃないかなんて漠然とした不安を抱く。
 電車の中で、ドアのガラスに映った自分の顔を見ると、目の下にくっきりと黒々とした隈が刻まれている。
「……酷ぇ顔」
 某ラノベのシリーズ十五冊を完徹して読んだ時だって、ここまでヤバい顔はしていなかったはずだ。今朝起きた時なんか、いつもは俺に暴言ばっかり吐いてくる失礼な妹が「お兄ちゃんどうしたの? 寝不足? 明日辺り死ぬ?」と心配(してるんだよな……そう思いたい)してきたくらいだから、傍目から見てもあからさまに酷い有様なのだろう、今の俺は。
「……頭痛ぇ……っくそ」
 正直今日だって、朝の自主練(テスト前一週間は放課後の練習が禁止されるが、その代わり朝の自主練は禁止されないのだ)さえなければ普段通りの朝五時半になんか起きたくなかったくらいだ。もっとも、そのまま布団でもぞもぞやっていたってどうせ眠れっこないのだが。しかしながら、横たわっていれば俺もまだ若いので肉体的な疲れくらいは取れる。
 精神的な疲労は、もうどうにもならないけど。
 こんな話をご存知だろうか? 人間は遥か古代に四足歩行の猿から二足歩行へと進化し、空いた前足を使うことで脳が発達した――が、それにより精神的な疲労が蓄積しやすくなり、その精神的疲労を癒すため十時間近くもの長い睡眠時間が必要なのだという。
 人間、七日間とか徹夜すると、精神的疲労が蓄積して死ぬらしいな。
 二日間ろくに睡眠を取っていない俺は、はっきり言っていつ幻覚が見えてもおかしくない。いや、実際に幻覚が見え始めるのは徹夜開始五日目くらいかららしいけど……。
「ですが……肉体的な疲労だけは取り除けてることなんて、俺が寝不足を押して朝練に参加する理由にはならないですよね」
 まさに、そこである。
 ……いつぶっ倒れてもおかしくない身体を叱咤してまで俺が朝の自主練に参加しようと思ったのは、実のところムツに会えるかも知れないからなのだった。日頃の朝練にだってほとんど来ないあいつが、テスト前の自主練に限って出てくるなんて到底思えないが――だけど、それで望みを捨て切るのはあまりにも気が短い。
 何せあのムツなのだ。野瀬睦なのである。言い合った当日こそマジで嫌われたのかと変にショックを受けはしたが、それにしたってあれほど俺にしつこく付き纏っていたのだ。たかが一回の「大嫌い」で全てが変わるほど、俺はあいつから伊達に「好き」だと何回も言われていない。
 あいつも……あいつも、俺と同じだというのなら。
 きっと自主練には来る。
 俺に、会いに来る。
 謝りに、絶対にやって来る。
 野瀬睦というのはそういう男だ。
「つまり俺は……俺は、あいつに、」
 ふらふらとした足取りで校門をくぐって昇降口を抜け、直接体育館へと向かう。時刻は朝七時過ぎ。この時間なら、ムツは、もうとっくに体育館で直上トスをしていてもおかしくなくて――
「あれ、ユキ。おはよう」
 入り口から体育館を覗いた丁度その時、背後から声をかけられた。弾かれたように振り向くと、そこには見慣れたチームメイトが立っている。
 俺より頭一つ分でかい長身に、ポニーテールと眼鏡が特徴的な優等生面。とっくにジャージに着替え終わっていて、自販に行ってきたばかりなのか手にはスポーツドリンクのペットボトルが握られている。
 ムツと同じ、部活のチームメイトにしてクラスメイト――浜野恵、通称・メグだった。
「あっ、本当だっ! おっはよーユキ♪」
 とても同じ男子校生とは思えない、小柄な矮躯に肩下まで伸ばされた栗色の茶髪と宝石のように輝く大きな瞳が特徴的な、少女めいた容姿のもう一人のチームメイト――服部実紀、通称・ミキもその後ろからひょっこりと顔を出す。
 ひょっとしたらその後ろからムツがいつものように飛び出してくるんじゃないかと俺は身構えたのだが……残念ながらそんなことはなかった。
「どうしたんだい? ユキが自主練にこんな早くから来るなんて珍しいね」
「ってか今、誰探してた訳っ? ムツ? ムツなら――」
「あー。いや」
 早速事情を説明しようとしたミキを、半ば無理矢理遮って俺は言った。
「別に、探してた訳じゃないんだけどさ。……ただ、俺達と違ってあいつはいつも自主練来ないだろ。今日もそうなら、いい加減絞ってやった方がいいかな、とか思って、」
 どうして素直に探してましたって言えないのかね、俺は。
 しかも、メグの言う通り、こんな早い時間から自主練に来ておいて。
「まぁ、来てないなら来てないで面倒な奴がいなくていいんだけどさ。でも、俺がいない方がいいと思ってたって、その……一応はチームリーダーな訳だし。他の平チームメンバーがちゃんと練習来てるのにあいつだけ来ないとか、そんなのはやっぱどうかと思うし。だから、」
 だからとか言っても、その先に続く言葉なんてない。しばらくその接続詞に続きそうな台詞を編み出そうと頭をフル回転させた俺だったが、結局口から出かかったのは今言ったのと同じような内容のことばかりで、最後には何も言えずに黙り込んでしまった。
「……、探してねぇよ」
 負け惜しみのようにそう付け加えた俺の前で、メグとミキは何故かお互いに顔を見合わせて苦笑する。何やら訳知り顔の二人を見て怪訝に思い眉を顰めた俺に、こう教えてくれたのはメグだった。
「今日さ。ムツ、学校に来ないんだよ」
「……何で?」
「風邪引いたんだってさーっ。わははっ、馬鹿は風邪を引かないって言うけどアレは嘘だったんだなっ」
 何がおかしいんだか無邪気に笑いながらミキが付け加えた説明に、俺は言葉を失う。
 何だって? 風邪を引いた?
 ……あいつが?
 どうしてまた、今日に限って。
「ほら、休日練の日さ。あの日は途中から雨が降っただろ? ムツ、傘持ってきてなかったらしいんだよね……それで、あの凄く寒い中を家までずぶ濡れで帰ったんだってさ。そりゃあ風邪も引くよね」
「携帯で親に電話してさ、傘持ってきてもらったり車で迎えに来てもらったりすれば良かったのになー。そこに思い至らないとか、そういう辺りムツって馬鹿だよなっ。……折角携帯持ってんのにそれ活用しないとか、あいつ文明人じゃないよっ」
 メグとミキによる追加のよくわかる解説を、けれど俺はほとんど右から左へ聞き流していた。
 やっぱり――あのまま一人で家に帰ったのか。
 傘なしで、あの寒い中を、ずぶ濡れになりながら。
「僕達には言ってなかったけど、ここずっと体調良くなかったみたいなんだよね、ムツの奴。……濡れて身体冷やしちゃったのが引き金になったんじゃないかな? 熱は大したことないんだけど、鼻水が止まらないんだってさ。今朝そうやってメールが来たんだよ」
「『半径二メートル以内には近寄らない方がいいぜ(笑)』だってさぁっ。本当、風邪引いたのにどんだけテンション高いんだよってな! あ、それともこれがいわゆるオーバーヒートってやつ? 実は熱大したことないってのは嘘で、あんまり熱が上がり過ぎて頭おかしくなっちゃったのかもっ」
「……あの馬鹿」
 ぽつりと。
 呟いた俺の声に、二人の流れるような台詞が止まった。
 どうしてメグとミキにはメールして、俺には連絡をくれなかったのかなんて――そんな理由は自分のことのようにわかり切っている。
 あいつは保留したのだ。
 俺とのことを。
「……悪ぃ、メグ、ミキ。俺も今日休むわ」
「え……?」「……はっ?」
 唐突過ぎる俺のサボり宣言に、二人そろって同じようなリアクションをしてくれた。
「休むって……ユキ、」
「っつっても、来てすぐに帰るのは何か癪だから放課後まで帰らないけどな。……それまで保健室で寝てるから、担任とかには体調不良だって伝えておいてくれ」
「た、体調不良っ?」
「寝不足なんだよ」
 二人の横を抜け、体育館棟から出て行こうとしたところで。
 何か悪いものでも食ったんじゃないかと言いたげな目で俺を見ているメグとミキを振り返って、あかんべをするみたいに右目の隈を指で押さえて引っ張った。
「この二日全然ちゃんと眠れてないんだ。……ちなみに不眠の原因はどっかのハイテンション馬鹿だ」
「げ……原因って、」
「じゃ、そういうことで。別に見舞いとかはいらねぇからな、頼むから俺に会いに保健室に来るんじゃねぇぞ。……メグ、悪いけど伝言よろしくな」
 言うだけ言って俺は早足で体育館棟を後にした。背後からミキの「えぇぇーっ!? ユキ、マジでサボんのっ? ずりぃーっ!」とかいうどこか的外れな絶叫が聞こえたが、構わず渡り廊下を走っていく。
 目指すは保健室。
 演技は苦手だが、ここはアカデミー助演男優賞も受賞できそうなくらいの演技でもって不調を訴えベッドで寝かせてもらおう。幸い、腹をくくった今となってはぐっすり眠ることができそうだ。放課後が来るまでの睡眠で、この真っ黒い隈が綺麗に消えてくれればいいんだけどね。
 そうして、放課後になったら学校を飛び出してまず真っ先に向かう先は決まっている。
 そのためにはまず、この寝不足を解消しなくては。

 リノリウムの床を蹴って俺は一心不乱に保健室へと駆けていった。


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