* * *

 そして驚くほど熟睡してしまった。
「……うわーお」
 あの後、保健室に辿り着いて不調を訴えれば、十二月の球技大会以来仲良くなった保健の泉川先生はあっさりベッドを貸してくれた。
 ありがたく布団に包まった瞬間即座に眠りの世界へ落ちた俺が次に目を覚ましたのは五時間目終了の二十分前で、それまでやたら楽しい夢を見ていたような気がするがそんなことはどうでもいい。俺はいそいそとベッドを降りると窓ガラスに映して軽く髪を直してから、泉川先生に礼を言って保健室を出た。
「ヤバいな。少し急ぐか」
 これから早退、である。
 昼飯を食い損ねた俺は、持参した弁当の他に電車内でも食えそうな腹ふさぎを買おうと購買に立ち寄った。幸いチョココロネが売れ残っていたので即購入決定し、それ以外にもいくつかパンを買ってから学校を出る。
 収穫物の入った紙袋をエナメルのスポーツバッグに詰め込んで歩く、頭の上の空はすっかり晴れ渡っている。一昨日の冷たい雨が嘘のようだった。
 全く見事な冬晴れ――である。
 駅に着いたら既にホームに停まっていた電車に飛び乗って、青空の下目指すは忌々しいニヤケハンサムフェイスの同級生の家。
 窓に映った俺の顔からは、あの深く刻まれていた真っ黒な隈はすっかり消え去っていた。

 町田駅で下車し、去年の夏休みの終わりには宿題大写し大会も開かれたムツの自宅までの道を、迷いのない足取りで俺は歩く。
 駅前の繁華街を抜けて十分ほども行くと住宅地が見えてくる。その住宅地の少し奥まったところ、向こうにあいつが通っていたのだろう小学校が見える辺りにある、上品な佇まいの一軒家が野瀬家だ。
「……」
 自宅の前までは惑うことなく来られたというのに、いざインターホンを押す番になって急に俺は躊躇いを覚えた。「野瀬」という表札の下にあるこのインターホンを押すのだって初めてじゃないのに、やけに緊張するのはどうしてなんだろう。
 とくとくと。
 早いリズムで心臓が波打つ。
 落ちつけ、いつも冷静で無表情、取り乱すことが決してないのが俺の数少ない個性だろ、落ちつけ。
「……よし」
 人んちの前でたっぷり五分くらいは挙動不審をやってから、俺はようやくのこと意を決してインターホンを押した。ぴーんぽーん、というありきたりな呼び出しベルの音が鳴り響いた後で、がちゃりと受話器の取られる音がする。
「はーい。どちら様でしょうか?」
 どこかで聞いたことのある、若い女性の声。
「あの……」
「ん。その声はユキちゃんだね」
 聞いていて思わずうっとりしてしまうような美声で、親しげにそう俺に呼びかけてくるのにも覚えがあった。声の主は「ちょっと待ってて」と言って通話を切ったかと思うと、すぐにドアを開けて俺の前に姿を現す。
「……望さん」
「やっほー、ユキちゃん。いらっしゃい。待ってたよ」
 声のみならず、その佇まいすらうっとり見蕩れてしまいそうになる。
 面食いじゃなくてもこの世の男性が例外なく飛びつきそうな筋の通った綺麗な顔立ちに、思わずスリーサイズを測りたくなるほどのモデル体型。脚が細くて長く、全体的にすらりとした印象を受ける。染めていない茶髪を胸の辺りまで伸ばし、丁寧にアイロンで巻いているのは前に会った時と同じだ。
 誰よりも目を引くセクシー且つゴージャスな美女。
 彼女こそ、ムツの実姉である野瀬望さん――大学一年生、である。
「どうぞどうぞ。上がって♪」
「あ……っと。どうも、お邪魔します」
 俺を呼ぶ時の屈託ない笑顔がムツとそっくりだ。姉弟そろって美男美女とは、神様ってヤツはつくづく平等じゃないと、望さんに会う度に俺はそう思う。
 門を開けて出迎えられ、望さんに続いて上がらせてもらった。ローファーを脱いだ俺を先導して迷いなく家の奥へと歩きながら、望さんはくすりと笑って言う。
「もしかしたら来ないかも知れないなーなんて思ってたけど、杞憂だったみたい。やっぱり来てくれたね、ユキちゃんは」
「……はぁ。えっと。その、望さん、今日学校は?」
「んー? うふふ、休んじゃった。睦が心配でね……っていうのは嘘だけどさ? 今日はお父さん仕事だし、お母さんは友達と遊びに行く約束がって言うしでね。そしたら睦が『一人はやだよー。頼むよねーちゃん、一緒にいてよ〜』なぁんて甘ったれたこと言うから、弟に甘いお姉ちゃんは泣く泣く大学を休んだ訳なのです」
「……なのですか」
「そうなのです」
「……本当にムツってシスコンですよね」
「そうね。でも、私もブラコンっぽいし、お互い様じゃないかな?」
 言って望さんはひょいっと肩をすくめた。大人びた外見をしているのに、こういうちょっとした仕草は驚くほど可愛らしいから参ってしまう。
 こんなお姉さんなら、そりゃあシスコンにもなるよなぁ……。
 短くため息をつきながら、俺は案内されて階段を上る。
「大丈夫大丈夫。私ならまだ一年生だし、一個くらい単位落としちゃっても何とかなるから。……それに、それを言うならユキちゃんだって私と同じでしょ?」
 含みを持たせた微笑を俺に向ける望さん。
「……同じって?」
「この時間にうちに来たってことは。学校、早退してきたんじゃないの」
「……」
「隠さなくってもいいんだよ。別に恥ずかしいことじゃないんだから」
「……そうですかね」
 何故だかはわからないけど、どうにも望さんには敵わないところがあるな、と思う。
 何でもお見通しっていうか。
 さっきの「待ってたよ」――といい。
「……睦と喧嘩したんだって?」
 階段を上りきったところで立ち止まり、俺を振り返らないまま望さんは薄く微笑みながら静かな声で尋ねてきた。
 尋ねられた俺は、唐突ながらいきなり核心に触れてきた望さんの問いに一瞬押し黙り、何と答えるか五秒ほど悩んだ後で、若干しどろもどろになりながら言う。
「……ええ。まぁ、そんなところです。でもどうして……? あいつがそう言ったんですか?」
「んーん。言ってなかったけど。でも、風邪で弱ってるってだけじゃなく、本気で睦落ち込んじゃってるから何かあったんじゃないかなって。それに、お見舞いに来たユキちゃんも少し様子が変だし」
「……そうですか」
「ていうか、直接喧嘩したって言われなくたって、熱にうなされて寝言で『ユキ〜、ユキ〜』って唸られたら嫌でも気がつくでしょ。全くあの子はさ……」
 望さんはここに至って俺を振り返ると、ムツと似て形のいい眉を下げて呆れたように笑った。
「昔から何も変わってなくって。参っちゃう」
「変わってない……ですか?」
「変わってないわ。小さい頃からああなのよ、あいつは」
 苦笑しながら、望さんは廊下のどことも取れぬどこか一点を遠い目で見て懐かしそうに話し出す。
「学校で一番仲のいい友達と喧嘩なんか派手ーにやらかしちゃうとさ、会うと気まずいからって、どうにかして学校休もうとするの。仮病使おうとしてみたり、学校行く振りして公園で一日サボったり……そんなことして怒られたとなったら、それこそ今回みたいに雨の中傘も差さずにずーっとうろうろして、無理矢理風邪引こうとしたりね。……階段から飛び降りて骨の一本や二本折ろうとしたこともあったっけ。あの時は流石に肝が冷えたわよ」
「そんなことしてたんですか、あいつ……」
 どんだけ無茶な小学生だったんだよ。
 呆れてため息も出ない。
「もっとも、上手くいったことなんて一回もなかったんだけどね。だけど、今回はよっぽど学校に行きたくなかったみたい。……夜、六時過ぎにずぶ濡れで帰ってきたところを玄関で聞いてびっくりよ。部活が終わってお昼ご飯食べて、こっちに帰ってきてから何時間もずーっとそこの公園で雨に打たれてたって言うんだからさ」
「……」
「呆れてるでしょ」
「……ええ。まぁ」
 何と答えたらいいものかわからずつい曖昧な返事をすると、望さんはその微笑にどこか真剣そうなものを滲ませた。
「で、馬鹿だから本当に風邪引いちゃったの。元々最近あんまり体調良くなかったみたいなのに、そんなんで寒い中濡れ鼠になったら、そりゃあいくら睦でも風邪引くわよねぇ。本当、馬鹿なんだから」
「……どうなんですか、あいつの具合は」
 鼻水が凄い割に熱は大したことないって聞いてるんですけど、とメグとミキから教えてもらった前情報を告げると、望さんはんー、と小首をかしげた。
「鼻水が酷いっていうのは合ってるけど、熱が大したことないっていうのは思うに睦の嘘じゃないかな。熱、今朝の時点で三十八度一分だもの」
「余裕でインフルエンザ級じゃないですか!」
 何が大したことないだ、あの馬鹿!
 来るんじゃなかった。移ったらどうするんだ。いくらここ数年発熱知らずだとはいっても、流石に俺もインフルエンザに対する耐性は人並みだと思うぞ……。
「うん、だからね。本当を言うと、睦の部屋にはユキちゃんも含めて誰であろうとあんまり通したくないの」
 望さんはそう言ってわずかに表情を曇らせた。
 それから妙に確信めいた表情で、
「でも。……それでもユキちゃんは、睦に会っていくでしょ? まさかここまで来て、やっぱり帰るなんて言い出さないよね?」
「……どうして、そう思うんですか?」
 何もかも悟っているような穏やかな視線を向けられると何だか気まずくて、俺はうつむきがちになりながら聞き返した。すると望さんは、俺のエナメル鞄の口から少しだけ覗いているあるものを指差した。
「それ」
「……え?」
「その紙袋。学校の購買でパン買うと入れてくれるやつでしょ? 睦がよく持って帰ってくるから知ってるの。……まだ中身、入ってるよね。大方、睦の好きなツイストドーナッツでも買ってきてくれたんじゃない?」
 砂糖の甘いにおいがするもの、と望さんは少しだけ得意げに微笑んで言う。
 ……本当、この人には敵わない。
「当然そのドーナッツ、睦と仲直りしたくて持ってきたんでしょ? そこまでの覚悟があるのに、本人に会わないで帰る訳がないものね」
「……望さん」
「ねぇ、ユキちゃん」
 と。
 望さんは、俺の顔を少し覗き込むようにして言ってきた。
「この前さ。私と神田の古本屋街で会った時、ユキちゃん、睦と友達になれてよかったって思ってるって――そう言ってくれたよね」
「……ええ、はい」
「今も、同じように思ってくれてる?」
 これもまた、有無も言わさぬような確信めいた表情で――
 俺はしばらくどう答えたものか迷ってから、たっぷり十数秒は経った後で、ようやくのこと、微かにうなずいた。
 望さんはそんな俺を見て満足げに「そっか」と言ってうなずくと、ムツによく似た綺麗な顔立ちに優しげな笑みを浮かべた。
「ありがとう、ユキちゃん。前も言ったけど、本当――睦と中学で最初に友達になってくれた子が、ユキちゃんみたいな子でよかった。……これからも睦をよろしくね」
「……はい」
「じゃ、話が長くなっちゃったけど、行こっか」
 廊下を一番奥まで歩いていったところにあるドアのノブに手をかけて、望さんは軽く二回ノックした。ドアにかかった「ATSUSHI」の手作り感漂うプレートが、そこが他でもないムツの自室なのだということを告げている。
「……何ー?」
 すぐに中から返事があった。ムツの声だ。心なしか、元気がないように思える。
「入っていい? ユキちゃんが来てくれたわよ」
「――っユキが!? や、ちょ……ちょっと待ってっ!」
 望さんがドアを開けようとすると、途端に向こうから慌てたような余裕のない声。
 ……何を取り乱してるんだ、あいつは?
「なぁに? 見られて困るものなんてないでしょ? 出しっぱなしだったエロ本も今朝私が片付けたし」
「駄目っ、一分! 一分待ってっ!」
「待たない。ユキちゃん寒い中わざわざ来てくれたっていうのに、廊下でいつまでも立たせておく訳にいかないでしょう? ――」
 こういう時身内っていうのは本当に容赦がない。どうしても開けてくれるなと喚くムツを無視して、望さんは何の躊躇いもなく弟の部屋のドアを開けた。
「うぁっ――っ姉ちゃんの馬鹿っ! ちょっと待ってって言ったのに!」
「馬鹿とは何よ馬鹿とは。別に全然平気じゃないのよ。何がそんなにまずいの?」
「だ、だって……」
 遠慮なく踏み込んでいった望さんの後に続いて俺も部屋に入る。そこでようやくのこと、望さんの背中の向こうにムツの姿が見えた。
「俺、こんなだっせぇ格好だし、髪とかぼさぼさだし、つーか昨日風呂も入ってないしっ……」
 涙声でそう自らの姉に訴えかける、見慣れたイケメン面。
 実際に泣きそうな目で望さんを見た後で、すぐにその後ろの俺に気がつくとムツは盛大に顔を歪めた。
 眉が情けない形に下がっている。
 顔が赤いのも、熱が高いせいだけじゃないだろう。
 まぁ――ファンシーな星柄のパジャマで髪はぼさぼさ、ティッシュで擦り過ぎて真っ赤になった鼻、額に冷えピタなんて出で立ちを同級生に見られたら、ムツじゃなくたってそうなるわな。
「っユキ……」
 そんな泣きそうな顔で俺を見るんじゃない。見てるこっちが情けなくなるだろうが。
 ……とか、言いたいことは数々あれど、ひとまず俺は「よっ」と軽く手を翻して挨拶をした。ますます泣きそうな顔になったムツを黙って見ているなんてできなくて、俺は望さんの後ろから進み出ると、ムツが上半身を起こして座っているベッドの方へと歩いていく。
 鞄を下ろし、どっかりとベッドに腰を下ろして。
「う……」
 手を上げると、打たれるとでも思ったのかムツは反射的に目を閉じた。
 もちろん俺にはムツを殴る理由なんてない。俺は上げた手でそっとムツの頭に触れると、撫でるみたいに髪を梳かして軽く形を整えてやった。
 恐る恐るといった感じでムツが目を開く。
「……ユキ?」
「……ほら。これで少しはよくなっただろ」
 薄赤い顔のまま俺を見つめるムツの瞳は、どうしてか焦点が合っていないような気がした。
 望さんの言っていた通り、熱が大したことないというのはやはりこいつの嘘なのだろう。もう一度手を伸ばして前髪に触れると、指で梳いた時に触った髪の生え際が燃えるように熱い。
 何だよ……。
 マジで、弱ってるんじゃねぇか。
「じゃあ……望さん」
「ん。わかってるよ。その様子だと大丈夫そうね。じゃ、私は下にいるから何かあったら声かけてね」
 俺が取ったアイコンタクトにそう答えて軽く手を翻すと、望さんはすぐに部屋を出ていった。ぱたん、とドアの閉まる音が響く。
「……」
「…………」
「……熱。大丈夫なのか」
 ドアからベッドの上へと視線を戻して尋ねると、薄赤い顔の病人は気まずそうに俺から目を逸らした。
「……うん。熱はまぁ、それなりに平気。鼻水がすげぇんだけど」
 言ってちらと窺った視線の先にはごみ箱があって、それが使用済みのティッシュで溢れ返っている。言っている傍からムツはぐしゅっと鼻をすすった。
「本当馬鹿だな、お前……望さんから聞いたぞ。一昨日あの後、こっちに帰ってきてから近所の公園で何時間も雨に打たれてたんだってな」
「……」
「そりゃあ、いくら天下の野瀬睦様といっても風邪引くだろ。……どれだけ体力が人間離れしてたってどこまでいってもお前は人間なんだからな、そのくらいはちゃんと考えに入れて行動しろって」
「……うん。でもマジで風邪引くとは思わんかったわ。人間って意外と脆いのな。俺、神様に生まれたかった」
 軽い口調で説教してやると、ムツは弱々しい苦笑を浮かべてうつむいた。ぐしゅっ、ともう一度鼻をすする。続いて更に二度、三度。
「きたねーな……ったく、ほら。鼻かめ」
「うぅ……ワリ。さんきゅー」
 俺が箱から引っ張り出したティッシュを差し出すと、受け取ってずびーっと鼻をかむムツ。かみ終わって丸めたそれをごみ箱へ放り込んだ。
 そして、それきり俺達は互いに無言になる。
「……」
「……」
 部屋に満ちる沈黙。
 気まずいのか心地いいのか、よくわからない静けさだった。
「……。熱がそれなりに平気っていうのは、嘘だろ。それも望さんから聞いたぞ。三十八度台なんだってな、熱」
「……うん」
「つらくないのか」
「……ぶっちゃけつらい」
 ……。
 本当。
 馬鹿な奴だ。
「……普段好き放題暴れ回ってるバチが当たったんだよ。この際だからしばらく大人しくしとけ。それが世のため人のためだ」
「う……」
「二、三日大人しく休んで。……元気になったらさっさと学校、来いよ」
 肝心な部分は、俺もまたムツの顔を正面から見ては言えないのだった。大切なことっていつもそうだ。面と向かって伝えるなんて、とてもじゃないができたことではない。
 ムツが俺の横顔をじっと見つめているのが何となく雰囲気で伝わってくるのを感じながら、俺は小さな声で台詞を続ける。
「メグとミキも、何だかんだ言ってお前のこと心配してるぜ。……そろそろテストもあるんだし、本当なら風邪なんか引いてる場合じゃないんだからな。わかってんのか? それに……」
「……」
「……俺に英語。教えてくれる約束だっただろ」
「……ユキ、」
 ぽつりと。
 ムツが呟いた。
「……怒ってない?」
「……怒ってねぇよ」
「本当に?」
「嘘ついてどうすんだよ」
「……そっか」



ムツは実際ほっとしたような表情を浮かべていた。俺もまた、ぎこちなくはあれど微笑み返してみる。


 安堵したような吐息が聞こえてそっちを見やると、ムツは実際にほっとした表情を浮かべていた。俺もまた、ぎこちなくはあれど微笑み返してみる。
「ユキ」
「何だよ」
「……ごめんな」
 冷えピタの貼られた額が、俺の肩に押し付けられた。
 ブレザーの肩パッド越しでも、冷えピタが既に冷えになっていないのが伝わってくる。
「嫌いとか言っちゃって、ごめんな」
「……謝るとこ、そこなんだな」
「あれ、全然嘘」
「わかってるよ。そんくらい」
 言われた瞬間は本音じゃないとわからなくとも――こうして肩にしがみつかれてみれば嫌でもわかるっての、馬鹿。
 俺が手櫛で整えただけでちょっとボサついている茶色い頭に、そっと手を伸ばして撫でてやった。
 アレだけ思い切り、俺に思いの丈をぶつけて。
 その上、謝る時もこれだけ素直とか。
 ……羨ましいよなぁ。
 こういう風になりたいとは、そりゃあもちろん、全然思わないけれど。
「体調あんまりよくない時とかに無性に苛ついちまうことってあるだろ……お互い様じゃないか」
「……うん。でも」
「……俺も、悪かったと思ってるよ」
 ムツの容赦のない言葉にキレてしまったのは。
 言われたそれが本当のことだったから。
 図星を指されて痛いか? というあのムツの皮肉は――実のところ、的を射ていたのだ。
 ずっと心の奥底にわだかまらせてきた、痛い部分だったから。
 だからあんなにも、冷静さを失った。
「いんや。痛いところをあんだけしつこく何度も思いっ切り突かれたら、そりゃあユキじゃなくたってキレるだろ」
「……アレが痛いところだってことは否定しないんだな、お前」
 痛いところだとわかっていてしつこく何度も思い切り突いてきたのか、お前は……。
 今ちょっとだけ殺意が沸いたぞ。
「否定しないよ。する訳ねぇじゃん。……俺はお前に関しちゃエキスパートを名乗ってるんだぜ? 痛いところも弱いところも、ユキのことなら全部が全部把握済みだよん」
 言って、俺の肩に冷えピタの額を擦りつけてくるムツ。
 まるで甘えるように。
「……。なぁ、ユキ」
「ん?」
「俺……」
 散々俺のブレザーに自分の匂いをなすりつけた後で、ムツは突然顔を上げるとじっと俺の目を見つめてくる。
 その表情におどけたようなものは一切なく。
 高めの熱と苦しい呼吸のせいか潤んだ瞳で、俺のことをまっすぐに見つめる視線は真剣そのもの。
「俺……ユキが……」
「お前と俺が、何だよ」
「……何でもない」
 言うだけ言うと、うつむいて視線を逸らしてしまう。その瞳に何か切なげなものが翳った気がして、俺は怪訝に思い首をかしげた。
 ……とうとう熱で頭がおかしくなったか?
「……うん。やっぱ何でもない。忘れてくれ」
「大丈夫かよ、お前」
 再び俺の肩に顔面を押し付けてきたムツに、俺は苦笑する。
 ……マジのマジで、弱ってるじゃねぇかよ。
「何かして欲しいこととかないか? 俺のできることなら、してやってもいいぞ」
「マジで!?」
 弱っているなら労わってやってもいいかなんて軽い気持ちで提案すると、俺の肩に引っ付いてへこんでいたムツががばっと顔を上げて身を乗り出してきた。力のなかった瞳に一瞬にして宿るきらきらとした光。
 ……実は元気じゃねぇか!
「うわー! やったぜ、あのツンデレ万歳なユキ嬢ちゃんに何でもしてあげるって言ってもらったー! うわっ、うわーうわーうわー! 俺ちょっとコレ風邪引いて弱って良かったんじゃね!? やっほーい!」
「ちょっ……台詞を微妙に改変すんな! 何でもしてやるとは言ってないぞ!」
「えー言ってただろー? 俺の優秀な灰色の脳細胞はきっちーんと覚えてるぜ、一字一句間違いなく、たった今のユキの台詞をな! 『ゆっきー先生が、君の願いを何でも叶えてア・ゲ・ル☆』だ」
「改変の度合いが微妙どころの話じゃねぇ!」
 全然言ってねぇよ、そんなん!
 言ったとどうしても言い張るのなら、こいつの耳か脳には重大な欠陥のあることが予想される。
 アレか、熱の上がり過ぎでいよいよ頭がおかしくなったというミキの予想がずばり当たったということか……勘弁してくれ。
 ていうか、どうやったらさっきの俺の台詞がそんなセクシー女教師みたいなアレンジに変換されるんだよ。どんな脳みそしてやがるんだ。
「できることならしてやってもいいって言ったんだ! お前の願いを何でも叶えてやるとはこれっぽっちも言ってない、断じて、決して!」
「ひゃっほーう! そいじゃあユキにはどんなご奉仕をしてもらおうかな〜。膝枕してもらおうかなっ、腕枕してもらおうかなっ、それとも抱き枕になってもらおっかな♪」
「相変わらず俺の話を聞いてねぇな、お前は!」
 病人には優しくしなきゃいけないとかそんな常識は宇宙の彼方にぶっ飛ばして、ついムツの脳天に拳骨をお見舞いしてしまう俺だった。
 さっきのナイチンゲール症候群的憐れみを返して欲しい。
「つーか枕なんだな! どっちみちお前は俺を枕にしたいんだな!」
「ユキ。俺、お前にやらしいことがしたいんだけど」
「話を唐突に方向転換させるんじゃねぇよ!」
 全く……本当に。
 どうしてこんな奴と友達になっちまったんだろうと、去年の入学式の日以来何度も抱いてきた後悔の念を再び抱きつつ俺は盛大にため息をついた。いくら真新しい環境に放り込まれて右も左もわからず不安だったとはいえ、ホームルーム中にも関わらず隣の席から筆談を申し出てきたこんな変人なんかと友達になるとは、あの時の俺はマジでどうかしていたとしか思えない。
 けれど。
「ったく……わかったよ……」
 それよりももっとどうかしているのは――間違いなく今の俺だ。
 調子の悪いくせこいて精一杯元気な振りして潤んだ目を輝かせている、それこそ犬だったりしたら尻尾ぶんぶん振り回していそうな表情の馬鹿丸出しなイケメン野郎に。
 言いたい放題言われてぶちギレて、そうしてキレちまうくらいに大嫌いだと言われたことにショックを受け、そのせいで二晩ろくに眠ることができず。
 挙句の果てには自分からよりを戻そうと自宅までわざわざ見舞いに駆けつけ。
 その上、できることならしてやっていいと言われただけなのにも関わらず、こんなにもバリバリ喜んでいる間抜けなこいつに――
 マジで何かしてやろうと、思ってしまうなんて。
「いいぞ」
「うぇ?」
「だから。……したいんだろ。していいぞ」
 こんなことを言ってしまうなんて、本気でどうかしているとしか思えない。
 熱で頭の回線がショートしているのは、ひょっとしたら俺の方だったりしてな。

「俺にやらしいこと――したいならしろよ」

「…………」
「何だ。まさかひるんだのか?」
「……だ、」
「だ?」
「――大事件だーっ! 大変だ、ユキがデレた! あのユキが俺に対してデレたぁーっ!」
 殴った。
 今度も容赦なくぐーで殴った。
「痛ぇー! おまっ、病人には優しくしろよ!」
「その病人がお前である場合、くれてやる優しさなんて欠片もねぇわ、阿呆」
 脳天に拳骨を食らって悶え苦しんでいたムツは「いってぇ……本当ユキって容赦ねぇよな……」と忌々しそうに呟いた後で、改めて俺に向かい合って言った。
「で。……マジでしていいの?」
「駄目なら、したいならしろとは言わないと思うぞ」
「本当に? 俺、こういう時の冗談は通用しないぜ?」
「あのなぁ、」
 短く息を吐く俺。
「……事故みたいなもんだったとはいえ、二回もキスした仲なんだぞ。今更嫌だとか言っても空寒いだけだろ」
「ま、まぁ……それは確かに」
 言った通り冗談とも取れるさっきの台詞を撤回するつもりが俺にないと知ったムツは、流石にひるんだのか面食らったようにしばし目を瞬かせる。
 それからいつものようににへら――と緩く笑って。
「本当にいいんだな?」
「お前な。どんだけ覚悟していいって言ったと思ってんだよ……何回も確認すんな」
「そっか。じゃあ……するよ?」
 言って俺の方に手を伸ばしそっと後頭部に右手を宛がったかと思うと、わずかに俺を引き寄せると同時にムツもまた顔を近づけてくる。
 一回目の時は不意打ちで二回目は強引にやられて、どちらも抵抗する間もなかったな、なんて思い出す。こうやって無駄に溜められてっていうパターンは初めてだ。
 いや……初めてじゃないと困るんだけど。
 つーか近い……顔近いって。離れろ馬鹿。あいや、違う。俺がしてもいいっつったんだっけ……ってもう訳わかんねぇし。
 本当、じれったいくらいじっくり溜めやがって、じわじわとムツは顔を近づけてくる。こつん、と冷えピタの額がぶつかった。
 生殺しの距離だ。ほんの少しの吐息でさえ前髪と鼻先をくすぐるわずか三センチ。ムツとキスしてしまいそうでけれどできない、絶妙の間隔だった。ムツが薄目を閉じているのは、熱で気だるいからかムード出してるつもりなのか、それともその両方か。
 冷えピタのメントールのような香りがする。
 メントールの香り。
 ミントの香り。
 唇に感じる、微かな息遣い。
 温もり。
 もどかしさ。
 ……いかん、思い出しちまった。
「――って。今日は駄目」
「っはあぁっ!?」
 いきなりぱっと目を見開いたかと思うと、あっさりと額を離してムツは一言そう言った。思わず素っ頓狂な声を上げてしまったが、そんな俺が責められる謂れは全くないはずだ。
「何だよ、今日は駄目って!」
「いやー、俺インフル級の風邪引いてるのに、チューしたら移しちゃうかも知れねぇじゃん? だから今日はやっぱ駄目……あいや、でもキスなしのエロいことならっ」
 パンチした。
 鬼の鉄拳である。鬼のパンチはいいパンチだ。しかも顔面に向けてストレートで打った。
「いっ――てええぇぇぇぇっ!?」
「俺の覚悟を利子つけて今すぐ返済しやがれッ!」
 目に涙を滲ませながら叫んでいる自分が自分でみっともない。
 けれど、俺の心のほとんどは訳もわからないまま続け様にムツの顔面を殴打した。
「だ、だからその覚悟を買ってキスなしでえっちぃことをしようかと――ごっ、ごめん嘘! 嘘です! 痛い、痛い痛い! でも感じちゃうッ……ビクンビクン」
「てめぇに触られたらキスなしでも平気で移るわ! 治るまで二度と俺に触れるんじゃねぇ! ついでにそれは何のプレイだ!」
 購買でわざわざこいつの好物買ってまで訪ねてきた自分がマジで馬鹿みたいだ。
 つーか、馬鹿そのものか。
 前言撤回である。
 こいつに何かしてやろうなんて、例え寝不足で気が狂っていても思うんじゃなかった。

 本当――どうしてこんな奴と友達になんかなっちまったんだかね、あの時の俺は。

 ……なんて。
 今更でしかないもう何十度目かの後悔を、俺は今回もする羽目になったのだった。


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