* * *

 メグが乗っていった二本くらい後の電車に乗って俺達が桜木町駅についたのは、メグから聞いていたデートの待ち合わせ時刻の丁度五分前だった。
 十時に駅前で待ち合わせのはずのメグと彼女は、その時には既に落ち合っていて、楽しそうに会話なんかしていやがった。少し離れた物陰からそんな二人の様子を窺いつつ、ムツがトランシーバー(仮称)のスイッチを入れる。音量を調整すると、そこから二人の声が聞こえてきた。
「……で、どこに行こうか?」
 という、メグの声。ジャケットに搭載されているマイクは結構感度がいいらしく、意外とよく聞こえて少し驚く。
「うーん。どこでもいいよ」
「そう? そっか。じゃあ、……」
「ふん。なかなかに上手くやっているようじゃないか。感心感心」
 どこの大学教授だというような妙に渋い声でムツが感想を述べる。俺は一度メグと彼女のお似合いカップルから視線を外し、隣にいるムツの横顔を眺めた。
 下手なモデルやタレントよりもよっぽど端整な顔立ち。女性受けしそうな凛々しいそれに、メグを羨ましがっているような様子は一切ない。妬んでいるようでもないし、邪魔しようという意思の欠片も窺うことはできなかった。まるで本当に、単にメグの初デートの様子を楽しんでいるかのようだ。
「……なぁ、ムツ」
「うん? 何だ、ユキ」
 楽しそうなその横顔を眺めている内に、俺はようやくのこと、あの夜電話がかかってきた時からムツに対してずっと抱いていた奇妙な違和感の理由に気がついた。
 メグと彼女とが会話を弾ませながら歩き出し、それについていこうと物陰を出て俺達も歩き出したところで、ムツに尋ねてみる。
「お前さ……メグのこと見てて、楽しい訳?」
「あーん? 何を今更。楽しいに決まってんじゃんかよ。なぁ、ミキ?」
「うん、楽しい楽しいー」
 俺達の後ろをぴょこぴょことついてくるミキを一度だけ振り返ってから、俺は真剣な口調で続けた。
「何で」
「何でって?」
「……何で、楽しいんだよ」
 それ以上の言葉は、何故か出てこなかった。自分のテンションとは天と地ほどもの差がある俺を、ムツはここに至ってやっとのこと振り返りまじまじと見つめる。不思議そうな表情だ。
「何でって、楽しいは楽しいだけど。何? ユキは楽しくないのか?」
「……よくわからないけど。普通は、こういうの見てるのって楽しくないものなんじゃないのか? だってさ、」
 俺は、離れた前を歩くメグと彼女を見る。
 まだ付き合っていないとかそんなことは関係なしに、二人は想いの通じ合った仲睦まじい恋人同士に見えた。
「だって……友達が、ああやって女子に告られてデートしてるんだぜ。普通はこういうの見ても、楽しくなんかないんじゃないのか。むしろお前の性格を考慮すると、こういうのは積極的に邪魔したがりそうなもんだと思ってさ。それこそ『諸君、童貞力を極限まで高めろ……奴の恋路を何としても邪魔するのだ!』とか言ってな」
「ふーん」
「他人の幸は自分の不幸っていうか、何ていうか。自分のこと出し抜いて、さっさと告られて彼女作るチャンスを手にしてやがったら、やっぱ羨ましいし……妬ましいだろ」
「ふーむ。ふふん、ユキは器が小っちぇえな」
 鼻で笑われ、俺は眉をひそめてムツを振り返る。あからさまに人を小馬鹿にしたようなムカつく表情をしているかと思いきや、振り返った先にあったイケメン面は意外にも真剣な面持ちをしていた。
「人が楽しそうだと羨ましいし、人が幸せそうだと妬ましいってか? 人間が小さく見えるぜ、ユキ。……まぁ、実際問題そうでかくないしな。百五十五センチくらい?」
「ば……馬鹿にするな。もうそろそろ百六十に手が届くっての」
「と、冗談はさておきだ」
 初々しい距離感の中学生カップルの後ろをついていきつつ、ムツは一旦は崩した顔を再び真剣なものに戻して言った。
「確かに、ユキが言うこともない訳じゃない。つーか多分にあるだろうな……いかに友達とはいえさ、そりゃあ人が自分より楽しそうだと羨ましいし、人が自分より幸せそうだと妬ましく思うよ。俺だって人間だもん」
 そこまで聖人君子やってないからな、とムツ。
「しかしだ、ユキ。その友達っつーのがメグになると、俺の場合、その定義は当てはまらないんだな、これが」
「……どういうことだ?」
「俺はな。メグについちゃもう一皮剥けて欲しいな、と思ってる」
 楽しそうに話しながら歩くメグと彼女。
 二人を見つめたまま、ムツは比較的静かな口調でそう言った。そんなムツの横顔を、面食らって俺はまじまじと見つめる。何だって、一皮剥けて欲しい? いつも馬鹿丸出しで暴走してばっかりの単純明快な思考回路をしていそうなお前が、メグに対してそんな複雑な思いを抱いているっていうのか?
「うん。……メグはさ、いい奴だよ。真面目だし、気が利くし、頭良いし、努力家で信頼できるしな。この前も言ったと思うけど、ぶっちゃけメグなしで俺がCチームのチームリーダーやってたりなんかしたら、ここまで上手くチーム運営いってなかったって思ってる。俺の右腕、陰のドン。まぁ、俺はメグに関しちゃかなりのリスペクトをしているつもりだ」
「……俺様万歳みたいなお前が言ってもあんまり説得力ないぞ」
「だろーな。だって、リスペクトしてるとは言ったものの、それって完全なる『尊敬』では今のところないんだもん。やっぱどっちがすげーかって言ったら、そりゃ今の時点じゃメグよか俺の方がすげーと思ってるよ。俺様万歳だ」
 自分で言いやがった。
 どんだけナルシストなんだ、お前。
「だけどな、それにだって理由がある」
 軽蔑した視線を向ける俺に気がついて、ムツはすいっと目を細めて目配せをしてきた。
「あいつはすげー奴だよ。多分将来は、上手くいけば相当に出世するぜ。最高裁判所の裁判官くらいにはなるんじゃないか? いやいや、別に茶化してる訳じゃなくてさ。そんくらいの器の人間だって、俺は本気でそう思ってる。……だけどさ。当の本人たるメグは、そのことをちっとも自覚してねぇんだよな」
 メグを見つめるその目が少し憂いを帯びているように見えたのは、果たして俺の欲目だろうか。
「自覚してないどころの話じゃねぇ。あの野郎、俺達周りの人間がどう評価しようが、卑屈なくらい遠慮してやがる。『えー、僕はみんなが言うほど凄くないよー』みたいなさ。……ありえねぇくらい自己評価が低いんだよ。自分のことを過小評価しすぎてる。なぁ、ユキ、ミキ。そう思わないか?」
「それはまぁ……思わなくもないけど」
「だよねー。それは何となく、俺も日頃から感じてる」
 後ろから黙ってついてきていたミキが、ムツ同じくの静かな口調で答えた。
「何ていうのかなぁ? 褒めがいがないんだよね、メグは。『わぁ、メグ、お前すげーなっ!』ってこっちが本気で思ってそう言ってるのに、『別にそんなことないよ。普通だよ、普通』とか答えちゃう。……哀しくなるんだよね。え、じゃあそのお前が普通だと評価してるお前のことを、マジで凄いって感じてる俺って一体何なの、みたいな」
「だろ」
 ミキの答えに、複雑そうな面持ちでうなずくムツ。
「俺はさ。そうやって、自分について低い評価ばっかしている内は、メグはもうこれ以上伸びていかないんじゃないかって思ってるんだよ。……天才の条件は二つだ。一つは、才能があること。もう一つは、その才能を自覚していることだ」
「……自覚」
「あいつにはその、自分が凄い奴なんだっていう自覚がこれっぽっちもねぇ。自分で言ってただろ、『自分でも自分のよさがわかっていない』ってさ。俺とメグとの一番の違いだよ。俺は自分がどういう人間か、どういうところに凄くて自信を持っていいのかっていうのを、完全にとはいかないまでも結構自覚してる。でもあいつにはそれがない。……それじゃあ駄目だ。メグはいつまで経ってもこのままで、これ以上の高みには行けねーよ」
 ムツとメグと、出会って一年が経つ。
 その一年間に渡る付き合いを通して俺が二人に抱く印象は見事に正反対だ。どこまでいっても自己中心で間抜けで馬鹿で何より自信家のムツと、どこまでいっても他己中心で優等生で真面目で何より控えめなメグ。二人が俺に打ち明けてくれた自分自身というのも、決定的なまでに対照的である。
「みんなが思ってるほど、僕はいい人なんかじゃない」。
 自己評価が低く、自分のことを極端なまでに蔑むメグと。
「どうしても自分を信じられないっていうなら、俺のことを信じろ」。
 自己評価が高く、自分のことを大胆なまでに尊ぶムツ。
 その一番の違いが、それこそムツが言った通り――自分を信じているか否か、という部分なのだろう。
 自分が凄い人間だと、自覚しているか否か。
 自分自身の存在を、信頼しているか否かの違いだ。
 そしてその違いは――小さいようで、意外にも大きい。
「可能性の違い、とも言えるかな。俺は自分がこの先どんなことでも乗り切ってやり切っていける自信があるけど、……まぁ、自信はなくとも意志があるけど、メグにはそういうのがないだろ。自分がこの先何かを乗り切っていけるなんて思ってないし、やり切れるとも考えちゃいねぇ。いっつも不安がってる。何にって、自分自身にさ。この先待ち受ける得体の知れない何かと対峙していかなきゃならない自分に、だよ。自分の可能性っていうのを、あいつはまるっきし信じちゃいないんだ――この違いはやっぱさ、大きいと思うぜ。だってさ、信じる者は救われるって言うだろ?」
 自分の可能性を信じているか否か。
 自分を今の自分の枠に収めて考えていないか否か。
 どんな困難なことにも負けず、どんな無謀なことにも怯まず、どんな苦痛なことにもめげず。
 ありとあらゆる状況をクリアしていける、そんな自分の存在を自覚しているか、それとも。
「つまり、俺はメグに一皮向けて欲しい訳。自分がとんでもなくすげー奴だって自覚したら、多分メグは実際に今を超えてとんでもなくすげー奴になっていくと思うんだよ。そんな無限の可能性を秘めているのにさ――それを全部否定して、自分のこと過小評価して。んなのもったいなさ過ぎるだろ。メグはあの程度で終わる器じゃねぇんだよ」
「……」
「だから俺は、これをきっかけにメグに自信を持ってもらえたらな、と思ってる。……自分と同じ年頃の異性から告られてさ。たったそれだけのことかも知れないけど、でもそれって、メグ自身がそうして惚れられるだけの要素があったってことの証明だろ? 自分は他人を魅了するくらいには凄いところを持った人間なんだって、そう、ほんの少しでもいい、自覚するいいチャンスだと思うんだよ」
「……ムツ」
「何せ、異性の魔力ってのはすげぇからなぁ。特に女は凄いよ。はははっ、『わぁ、○○君凄い!』って冗談や軽くでも言われただけで、こちとら男は本当に自分が凄い奴みたいに思えてきちまうからなー。やっぱ同性同士じゃ、そういうのはないよな」
 すなわちムツは、彼女がメグに与える効果に期待しているのだろう。このムツの意見には俺も素直に同調するところである。向こうがどういうつもりでいるのかはさておき、女の子にきゃーきゃーと騒がれたらやっぱり嬉しいし、それだけで自分が格好よくて凄い奴みたいに思えてくる単純な生物なのである、男というヤツは。
 つくづく、男女ってのは平等じゃない。
 もっとも、平等じゃないからこそ面白い部分もあるとは思うのだが。
 そう、それこそ今のメグと彼女――メグに対する彼女、みたいにね。
「あとさ、ユキ。……さっきお前、俺に『告られて彼女作るチャンスを手にしたメグのことを羨ましいとか妬ましいとか思わないのか』みたいなことを言ってたけどさ。メグに関して……こと恋愛に関しては、それは的外れってなもんだぜ?」
 それまでの真面目な表情を一瞬にして崩し、どこかニヒルな笑みを浮かべ、ムツは軽い口調で更に付け加えてそう言った。
「そもそもがさ、日頃から告ってくる女子連中を片っ端から断わってるのに、彼女できそうなメグのことが羨ましいも妬ましいもクソもあるかよ。んーなら、告ってくる女子連中からテキトーに良さそうなの引っこ抜いて彼女にすりゃいいじゃんってなもんじゃねぇか」
「……それはそうだけど」
 何でもないことのようにムツにそう笑い飛ばされ、何か納得のいかない気分で曖昧な返事をしてから、俺はふと日頃から気になっていたことについて聞いてみることにした。
 そういえば――
「そういえばだけどさ、ムツ。……お前何で、片っ端から告白断わってるんだ?」
「んー?」
 さっさとトランシーバーに耳を近づけてメグと彼女との会話に注意の先を変えていたムツは、俺が尋ねるときょとんとした顔をこっちに向けた。それから急に、その整った顔立ちに微笑を――同性の俺でも思わずくらりとするような甘い微笑を浮かべる。
「別に? まだ恋愛のことにさほど興味がねぇだけだよ。告ってくる女子連中の中に、特別心を動かされるような美女もいないことだしな。恋人がどうこうっていうのは、どうでもいいとまではいかなくても、とりあえず当分先のことでいいと思ってんだ」
 さらりと。
 本当に軽く答えると、ムツは再び前方のメグ達を見やった。仲睦まじげに連れ立って歩く一組の男女。
 春風の中、二人を見つめるムツの横顔がわずかに変化する。
「それに……俺、他にちゃんと好きな人、いるし」
 うっかり聞き流してしまいそうな、それは今までで一番何でもなさそうな言い方だった。実際、俺はふーん程度で一回さらりと聞き流してしまってから、数秒してようやくこのニヤケハンサム野郎がとんでもない発言をしやがったことに気がつく。
 ……え?
「えっ! お前、好きな人いるのかよっ!」
 と、俺の代わりに背後からミキが大きな声を上げてくれた。俺も驚きのあまり目を見開いてムツを振り返る。ふふん、とムツは鼻で笑った。
 それはさっきの台詞が冗談でも何でもなく、事実なのだと俺達に伝えるには充分なリアクションで。
「えーっ、嘘、誰? 誰誰? 教えろよっ。超気になるんだけど!」
「秘密ー」
「うわー、マジで気になるしっ! もったいぶらずに教えてくれよっ、ムツーっ」
「ひ・み・つ」
 ミキのように積極的に聞き出そうとはしなかったものの、俺も少なからず興味があった。ムツみたいな脳内年中常夏のイカれた野郎が惚れる相手なんて、一体全体どんな子なんだろう? 俺達の知っている人物だろうか? そもそもムツに好きな人ができたなんて、いつの間に? 俺が知っている限り去年のクリスマス頃には、ひょんな出来事から知り合った年上の女子校生に気があったようだが……。
 けれどムツは、もったいぶるように密やかな笑みをそのイケメン面に湛えるだけで、その後ミキがどんなにしつこく迫っても、決して想い人の正体を俺達に告げなかった。
「もー、じゃあ最後にこれだけ教えろよなっ」
 大層つまらなさそうに頬を膨らまして、ミキが最後にこう尋ねた。
「片想い? それとも、実はもう両想いだったりすんのっ?」
 ムツは相変わらず密やかな笑みを浮かべている。
 何故か、何も言わずにやり取りを聞いていただけの俺のことをちらっと窺って。
 そして答えた。
「片想い。……今も、それから多分これからもずっと、恐らくは永遠にな」

 トランシーバーからは、メグが彼女と実に楽しそうに笑い合っている声が聞こえていた。


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