* * *

 その日の練習試合で先輩達は他校バレー部相手に快勝し、それにすっかり機嫌をよくした鬼監督のありがたい計らいで、翌・日曜日は中等バレー部員は活動が休みになった。ということで、これまたありがたいことにもムツの暴走に二日連続で付き合わされる羽目にはならなかった訳だが、一日くらいの休みでは大人しくなってくれないのが奴の困ったところである。せめて二日か三日ないとな。イッツ経験からの数値。
 よって休日明けの月曜日、放課後の部活の休憩時間中部室に溜まっていたCチームメンバーとカナ・アキの仲良し幼馴染コンビのところへ勢いよく飛び込んできて、練習を最初の一時間サボった制服姿のムツは元気にこう宣言したのだった。
「合唱部に楽譜を貰いに行くぞっ!」

 楽譜を貰う約束を取り付けたとあの後メールで連絡してきたムツだったが、しかしその相手が合唱部だったとはな。
 当然の如く、俺達は強引にも部室から連行されることとなった。俺達の学校は中高一貫校で且つ一学年が五クラスを抱えるため、特別教室には複数室ある教室も存在するのだが、音楽室もそんな特別教室の内の一つで、第一・第二とある内で第二音楽室が合唱部の活動拠点に当たる。特別教室棟の最上階・四階に位置するそんな音楽室へと移動する途中は、ムツは意気揚々、ミキは興味津々、メグはにこにこと如才なく微笑みアキはそわそわと落ち着かず、カナはいつも通りの無表情だった。俺はといえばもはや色々と諦めもつき、ムツ曰く歴史的なアカペラチームのメンバーの後ろをついて歩きながら、その足取りも決して重くはない。ああ、重くないともさ。俺も最近腹をくくることを覚えた。
「ちわーっす! 隼人、楽譜貰いに来たぞー!」
 ノックもせずに音楽室の防音性ドアを開け放って、ムツは堂々と中に入りそう叫ぶ。俺達も続いて音楽室へ入ると、それを見た合唱部員と思しき男子生徒が一人、「やぁ」とにこやかな笑顔で応対に来てくれた。
「本当に宣言通り月曜日に来たんだな、睦。……昨日、楽譜全速力で仕上げておいてよかった」
「ってことはちゃんと仕上がってんだ? 流石ー、合唱部の部長候補さんは仕事が早いですなぁ」
「僕は別に部長候補じゃないけどな?」
「またまたご謙遜ー」
 ムツと楽しげに会話を交わすそいつに、俺はしばし唖然とした。こうも仲良く話しているのを見ると、この爽やかな笑顔が特徴的な凛とした雰囲気の少年とムツとは多少の縁があるのだろうと推測できるが、だとしたらムツの交友関係はかなり広いことになる。しかも文化部中心にな。これまで演劇部の奴とはしばしば関わってきたが、まさか合唱部にも知り合いがいたとは知らなかった。
「あ、紹介すんな? こいつは中津川隼人。合唱部の一年で、テノールのパートリーダーやってんの。俺とは去年の四月、仮入で一緒に合唱部来た時からの付き合い」
「どーも、中津川です♪」
 ムツに肩を抱かれつつ紹介され、音符マーク標準装備で中津川は言う。お坊ちゃまという表現がまず真っ先に思い浮かぶさらさらとした髪を程よい長さで切りそろえた黒髪と、上品そうな制服の着こなしに爽やかすぎる笑顔が美少年風だ。B組の俺とムツ・メグ、C組のミキとは別のA組所属であるカナとアキの二人には見覚えがあるようで、「え、ムツが楽譜頼んだ合唱部員って中津川だったんだ!」とアキが言っているところを聞くとどうやらクラスメイトらしい。
「それにしても睦、何で合唱部来なかったんだよ? そりゃあ、演劇部からも凄く勧誘されてたのは知ってるけどさ。あれだけ文化部あっちこっち回っておいて最終的に入部したのは何の関係もないバレー部なんて、ちょっと酷くないか?」
「まーまー、俺にもよんどころない事情ってヤツがあったんだよ、話せば長い聞けば涙の事情がな。……んーで入部もしなかったくせにこんな無茶言って楽譜書いてもらったことについては、ちゃんと申し訳ないって思ってるって? 忙しいのに悪かったな、そしてありがとさん、隼人」
 俺達を差し置いてムツと中津川は楽しげに会話を進めていく。ムツがバレー部に仮入部に来る以前は文化部を中心に色んな部活に顔を出していて、特に演劇部から熱烈なオファーを受けていたというのは俺達バレー部一年の中じゃ結構有名な話だが、どうやらその時に合唱部にも顔を出していたようだ。顔が広いと言えば聞こえはいいが、悪く言えば八方美人であるだけな気がしなくもない。
 で、そのコネを最大限に利用して、今回楽譜を書いてもらった、と。
「本当かなぁ……まぁいいや、睦だし。で、はい、これが頼まれてた楽譜な? とりあえず言われた曲、二曲だけ用意したよ」
「おっ、サンキュー!」
 楽譜が入っているらしいクリアファイルを受け取って嬉しそうに礼を言ったムツに、中津川は相変わらずの爽やかな微笑で説明を始める。
「RAG FAIRの『恋のマイレージ』と、『ハモネプ』テーマソングで『イッショウケンメイ。』だったよな? ……『恋のマイレージ』は、同じ六人だしRAGの出した譜面をほとんどコピったヤツだけど、『イッショウケンメイ。』は元のアカペラバージョンの譜面が七パートだったから、今回六人用にアレンジしてある」
 ムツの後ろで突っ立っているだけの俺達をぐるりと見回してから、中津川は少し密やかな笑みに切り替わって続ける。
「……メンバーの中に『人数がRAG並みに揃わなかったらアカペラはやらない』って言ったRAGの熱烈なファンがいるって睦から聞いたから、『イッショウケンメイ。』はRAGがデビューのミニアルバムでカヴァーしたのを元に譜面をアレンジしてあるよ。気に入ってもらえるといいんだけど」
 俺はムツを見る。目が合うとムツはにやっと笑って小さくVサインを向けてきた。俺ため息。余計なこと言ってんじゃねぇよ、馬鹿が。
「あ、それと。これを渡しておかないとな」
 俺とムツの間で交わされたやり取りに気がついたのか否か、中津川は拍手を一つついて俺達の元を離れた。本棚へと歩いていき、そこから何やら書籍を取り出して戻ってくると、それをムツに渡して言う。
「アカペラって、一パートごとが自立してなきゃいけなかったり、お互いの音をきちんと聴き合ってハモらなくちゃいけなかったり、そのためにもちゃんと音が取れてしっかり発声できてないと駄目だったり、とにかく普通の合唱曲よりも数倍並みに難しいんだよな。……ってな訳で、よかったらこれ使ってよ。ボイトレとか基礎体力作りとかストレッチとかの方法が一通り載ってるから、参考にしてみて。それと、楽譜集もいくつか貸すな? 何かまた歌いたい曲があったら言ってくれ、六人用に書き直したりアレンジしたりとかするからさ」
 ムツは渡された書籍をまじまじと見る。アカペラのヒットソング集なんかの楽譜集の一番上に載っている本は、アカペラ初心者用の参考書だ。
 中津川はその上に、更に何かを乗せた。見たところ何かの記憶媒体……というかMD。
「これは、渡した二曲のそれぞれのパートのお手本音源が入ってるから。部員に何人か協力してもらって録音したんだけど、順番で回すなりダビングして配るなり、煮るなり焼くなり食うなり、好きに使って」
「……本当、お前と友達でよかったよ、隼人」
 渡されたそれらをしばらく眺めた後で、ムツはにまっと笑って中津川に言った。
「俺の欲しいもんをずばり揃えてくれるんだよなー、マジありがとう! そっちもさ、また何か大会に出るとかで人数が欲しい時は言ってな? 暇な時なら助っ人に入れるからさ」
「調子いいよなぁ、睦は……演劇部の奴等にもそうやって言ってごまかしてるんだろ。いきなり入部先変えたこと」
「あ、バレた?」
「お見通しだって」
 肩をすくめる中津川。
 ムツとそれなりの付き合いだというからどんな変人かと思ったら意外と普通の奴みたいで、俺は何というか、少し拍子抜けだった。そんな相手にムツの方も割と大人しめなのが、更にちょっと意外である。
 まぁ、そんな普通の奴等に調子合わせて付き合って、俺達に対しても大人しくなってくれるなら俺としては本望だ。
「んじゃま、」
 が、そんな俺の考えを知ってか知らずか、ムツは俺達の方を振り返るといきなり振り切れたような百万ワットの笑顔になってこう叫ぶのだった。
「早速部室に帰って練習しますか!」

 * * *

 更に合唱部から音取り用のキーボードとピッチパイプ、電子メトロノームも借りたムツは、それらのほとんどをメグやアキ、俺に持たせて、自分は先頭に立つと軽やかな足取りで部室へと戻った。色々と気楽でいいよな、お前は。
 部室へ戻った後は早々に貰った楽譜を配布し、ムツは俺達に音取りをするように命じた。が、そんなこと言われてはいわかりましたでこなせる俺達じゃない。ぶっちゃけ音楽経験なんて学校の授業程度しかないし、入学当初合唱部に仮入部に行っていたムツとは下地が違う訳だ。自慢じゃないが、みんな揃いも揃ってどうやったらいいのか全く不明な状況である。
「まぁ、とりあえず貰ったMDかけてみるから、それに合わせて歌ってみるんだよ」
 ムツは言って一度部室を出て行くと、少ししてどこからパクったのかラジカセを一台持って再登場した。コンセントに繋いで電源を入れ、MDを差し込むと最初から再生し始める。
 まずフルバージョン。次にリードボーカル、それからコーラスが三パート、ベース、最後にボイパ。それが二曲分。
 ……全て聴き終わった時には三十分以上が経過していた。
「……ダビングしてくるか」
 ムツがぼそりと言って、その日の練習はそれだけで終わった。何だかな。
 翌日、ダビングしてきたと言ってムツは放課後の部活で俺達にMDを配り、それを聴いて練習してくるようにと命じてその場をお開きにしてしまった。借り物のキーボードとパクってきたラジカセは出番なしだ。リードボーカル担当で一番音が取りやすいムツはダビングの時点で既に覚えてしまったらしく、俺達の音取りに付き合うつもりは毛頭ないらしい。無責任野郎が。まぁ、色々と上から目線で教えられるのもそれはそれで気に食わないけど。
「明後日の放課後、ここで合わせるのかぁ。自信ないなぁ」
 ムツに言われたことを確認するかのようにメグはそう呟いて、受け取ったMDをしげしげと見つめる。言いたいことは何となくわかるぜ。渡すもん渡して明後日合わせるとか、どれだけ気が早いんだ。コーラスの俺やメグはいいとして、ボイパのアキが二日でフルにできるようになるとは限らんぞ。
 とは、言っても無駄なので言わない俺。あいつには何言っても無駄。無駄無駄。
「色々悟ってるよね、ユキは」
「……悟りたくもないけどな」
 そんな訳で、俺達がようやくアカペラの練習らしいことをしたのは、楽譜を受け取ってから三日後のことだった。

「じゃ、予告通り一通り合わせてみるぞ。ちゃんと音取りしてきたよな?」
 放課後部室にメンバー全員を集めたムツは、丸めた楽譜で自分の肩を叩きながら偉そうな口調で言った。その上から目線の態度は気に入らないが、ここで首を左右に振った暁にはストレートパンチが顔面に飛んできてもおかしくはないので、実際きちんと音取りしてきたことだし一応うなずく俺。
 こいつに殴られる筋合いなんて当然ないけれど、とにかくアカペラアカペラと頭に血が上っているらしいムツは何をするかわからんからな。用心するにこしたことはない。と、考えている俺と同じことを思っているのか、若干自信なさげではありながらもみんな同じように首肯していた。そんなメンバー達に満足したらしく、ムツはその整った顔に電球の灯ったような笑みを浮かべると、俺達に円になるように命じる。
 何で円なんだ?
「アカペラっていうのはグルーヴが大事だからな! お互いの顔見りゃ調子合わせられるだろ? 息を合わせるとそれだけで上手く聴こえるんだって、この本に書いてあった」
 言ってムツがちらつかせてきたのは、中津川から借りた例のアカペラ教本。
「じゃ、歌うぞー。『イッショウケンメイ。』からな」
 ムツはこれまた中津川から借りたピッチパイプを口にくわえると、慣れた様子で第一音を鳴らす。中津川に書いてもらった「イッショウケンメイ。」の楽譜は、中津川本人も言っていた通りRAG FAIRのミニアルバム収録のアレンジバージョンを元にして書かれているから、最初のサビ部分はユニゾンで歌うことになっている。みんな同じ音で歌うから、一つだけ鳴らせばいいという訳。
 ピッチパイプで「A」すなわち「ラ」の音を鳴らしながら、ムツは電子メトロノームをスタートさせた。四拍子。ムツが合図をかけ、歌い始める。
 歌った。
 歌ってみた。
 最初のサビ部分はなかなかだった。ユニゾンなんだから当然という考え方もあるが、うん、悪くはなかったと思う。だから俺達は、何の迷いもなく声部がわかれる次の部分へ進んだ。
 歌い進めた。
 歌い続けた。
 歌い終わった。
「……」
 メトロノームの音と沈黙だけが残った。
 何だ、この歌い終わっての奇妙な違和感? 判然としない不快感に首を傾げつつメンバーの表情を窺えば、奴等も同じようにぱっとしない顔をしている。
 その中でムツだけが口を開き、こう言った。
「……何だろ。何か違和感あんな? 何だと思う?」
 そんなの俺達にわかる訳ないだろ、合唱経験者。
「こうなりゃ奥の手だっ。……録音するぞ! 客観的に聴くことによって間違いや弱点がよっくわかるんだぜ!」
 あっさりと奥の手解禁かと思ったら、ムツは拍手を一つ打ち、借りたきり部室の片隅で腐っていたラジカセを引っ張ってきた。電源を入れMDを差し込むと、今度は自分のエナメル鞄の中からマイクを取り出して接続する。更に出てきたのはマイクスタンドだった。慣れた手つきで組み立て、マイクをセットするムツである。
 ところでどっからパクってきたんだ、その音響機材。
「持つべきものはコネ……もとい、友達ですよ! 演劇部から。あいつ等のところ行って俺の名前出せば、録音・録画・照明機材他、衣装とか小道具もほいほい貸してくれんぜ」
 コネをこうも利用しまくる奴も珍しいだろう。その厚かましいさには呆れるを通り越して感心すらするな。利用されている演劇部諸君それでいいのかとも思う。
 マイクをセットし、さっきと同じように歌って録音してみた。
 全員でラジカセの前に座って、早速聴いてみる。
「……」
 聴き終わって部室に満ちたのは、やっぱりというか何というか、痛々しい沈黙だけだった。痛さはさっきよりも数倍増している。理由は単純だ。
 滅茶苦茶だった。
 ユニゾンである最初の部分はいいとして、問題はパートがわかれたその後だ。音程が取りきれてなくてハモってねぇし、メトロノームを無視して走ったりモタったりリズムは無茶苦茶、それ以前に声量もなく迫力に欠け、ブレスのタイミングもずれていたりする。ムツの歌うリードボーカルがかろうじて聴ける程度で、その他のパートは何が何なんだか完全に意味不明だった。
 何というか。
 ……これは正直、きつい精神攻撃だな。
 ぶっちゃけて言うと、俺は今回のアカペラについてさほど難易度は高くないだろうと思っていた。音楽の授業で合唱や重唱・独唱なら度々やっているし、そもそも歌うことが難しいことだなんて思ったことがない。だから、一人一人がきちんと音取りをして、普段の合唱の授業みたいにせーので合わせればいいんだろ、くらいに軽く考えていたんである。
 ところがどっこい、いざ歌って聴いてみたら何だっていうんだ。俺のそんな自信ともいうべき考えは青い空の彼方へ吹っ飛んでしまった。完全にアカペラを見くびってたってことだろうな。あるいは侮っていたか、その両方だろう。
 今の自分達の完成度が低いのはわかる。
 けれど、何が悪いのか全くわからない。
 奇妙な違和感だけが心の中に満ちて気持ち悪い。
「うーん。何が悪いんだろ……」
 メグが首をかしげた。
「それぞれのパートはそこまで大きくピッチ外してるとかじゃなさそうなのになぁ……そりゃあ細かいズレくらいはあるだろうけど。何だろ。何だと思う、ムツ?」
「……俺に聞くなー!」
 いや、普通お前に聴くだろ、合唱経験者。何とかしろよ言い出しっぺ。
 俺がそう突っ込みを入れようとしたところで、背後のドアからこんこん、とノックの音がした。俺のみならず全員が振り返る。誰だ? 普段この部室を利用しているバレー部員なんかは、普通に考えて自分達の城とも言うべき部屋のドアをノックしたりなんかしないだろうことから、誰か部外者であることは予想できる。仮にもバレー部の部室で部活と何の関係もないことをしていたことが露見すると流石にまずいので、アキとムツが録音機材を慌しく軽く片付けたのを確認してから、俺はドアを開けた。
 それから少しばかり驚いた。
「よー♪ 練習はかどってるか?」
 予定外の客人は、何を隠そうあの、中津川だった。


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