* * *

「ふーん。こうなってる訳だ……」
 合唱部は三月に控えた合唱祭でも色々と裏方として働いたりしなければならないためそうそう暇でもないらしいのだが、それでも少し手が開いたところを見計らって、中津川は俺達の様子を見に来てくれたんだそうだ。面倒見のいいことで、ありがたい。
 早速ムツは俺達の抱いた違和感について説明し、録音したMDを聴いて意見してくれるように求めた。録音を聴いた中津川はうんうんと微かにうなずいてから俺達に実際に歌うように言って、そうして生のコーラスも聞いてから腕を組みもっともらしいポーズを作って呟いたのがそんな独り言とも知れぬ台詞である。何かわかったらしいな、流石、合唱部の人間は聴く耳が違うと言ったところか。
 具体的に何が悪いんだろう。音程か、リズムか、あるいは声量か。
「ていうかね、みんな、」
 ところが中津川は、俺達一人一人の顔とムツから借りた楽譜と交互に見比べてから、笑顔になって俺の予想を遥かに超えたことを言った。

「身体、固すぎでしょ!」

 ……はい?
 身体が固い?
「睦さ、みんなにストレッチとか柔軟とか教えた?」
「いや……あーいうのは面倒くさいだけだしいいかと思ったんだけど」
「あー、駄目駄目。それは全然駄目」
 中津川は手を翻してムツの指導法をばっさりと斬り捨てる。全否定だった。否定もここまではっきりとされるといっそ清々しいな。
 ところで、身体の柔らかさとアカペラに何の関係性があるんだ?
「そうだなー……うん。君達は全員、睦と同じでバレー部の所属なんだよな? そうやって運動部でスポーツやってるならイメージ湧きやすいと思うんだけど、例えば、朝起き抜けで寝ぼけ眼、ウォーミングアップもしてない状況でバレーの試合をしたらどうなる? 準備体操もしないでスパイクの練習でもしたら?」
 多分、思うように身体が動かないし、最悪の場合怪我するな。
 ……うん?
「固い身体で歌を歌うっていうのは、それと同じことだよ! 歌うことって実は全身運動だからね、冷えて身体中の筋肉が縮こまってたりすると思うように歌えない訳。そこを無理して声出そうとすれば、声帯痛めたりもするしね、実は身体が固いって結構危険なんだ」
 そうなのか。
「そこまでじゃなくても、身体が柔軟なだけで声量もアップするし、音程に安定も出てきたり、何故かリズム感もよくなったりするんだぜ? ……運動部の君達なら特別なことをしなくても割と平気だと思うから、せめて歌う前くらいはストレッチで身体ほぐしたりしてみたらいいと思うな。格段に歌いやすくなるから。……って、仮入の時に先輩達から教わったよな、睦? だから柔軟とかストレッチは重要なんだ、ってさ」
「そうだっけ? ……忘れちゃった☆」
 てへっ、と頭の後ろに手を組んで無邪気を装い笑ってみせるムツだが、見ても殺意が沸き起こるだけだった。忘れちゃった、じゃねぇだろ。アカペラやらせようってんなら、そういうことはちゃんと覚えておいて俺達に教えろ。
「あと、基礎体力も欲しいね」
 と、俺達の身体を眺めて中津川は更にそう続ける。
「姿勢とかも気になるし。……さっき歌うことは全身運動だって言ったけど、僕達は身体中のありとあらゆる筋肉を使って歌を歌ってる。その筋肉の力が弱ければ、当然だけど表現できるものも半減するんだよ。あと、筋力を上手く使える姿勢も重要。……コーラスって文科系だと思われてるみたいだけど、実は重要なのってバランスの取れたしなやかな身体だったりするんだよなー。ってな訳で、」
 中津川は特徴的な爽やかな微笑をその顔に浮かべると、ムツを見てこう言った。
「睦、合唱部で教わったストレッチと基礎体力作り、覚えてる?」

 そして、中津川による特別コーラス講座が始まった。

 まず中津川が俺達に命じたのは、歌う前には必ずした方がいいという五分間のストレッチだった。背筋と首、肩、腕、腰を中心とする簡単なヤツだ。顔や口のストレッチがあるのはコーラス独特だと思ったが、それ以外は日常生活でも身体の緊張をほぐすのに誰もが無意識で使っているような簡単なものばかりである。こんなお手軽なヤツで平気なのか?
「重要なのは身体の緊張がほぐれることだからさ。……次は柔軟ね」
 続いて柔軟。部室では狭いと言う中津川に、ジャージに着替えさせられた俺達はバレー部の活動場所たる体育館と、武道場・部室棟で構成されている体育館棟から、三棟の校舎棟の真ん中に設けられている中庭へと連れ出されると、そこで長座前屈や開脚前屈、それに後屈・前後ないし横の開脚・身体をひねるなどと一通りの柔軟性チェックをされた。
「はい、固い固い! これから風呂上がりには柔軟しろよ!」
 八時の全員集合的号令をかける中津川の下で、一番の柔軟さを俺達に見せ付けていたのは意外なことにもメグだった。気色悪いほどに柔らかい。百八十度近く開脚し、そのまま地面にぺったりできそうな勢いで前屈をしながら、メグは笑顔でポニーテールを揺らすのだった。
「そんなに柔らかいかな? やっぱりバレーにも柔軟性って必要だと思って、日頃から暇つぶしにやってただけなんだけど」
 軽やかに笑うメグに、多少たりとも身体の柔らかさには自信があった俺は少しだけ敗北感だった。まぁ、平均を余裕持って上回る程度の柔らかさのメグだから敵う訳がないけどな。それでも俺はムツよりは柔らかい。
 で、反対に柔軟性なんか皆無に等しい身体能力を晒していたのが、ミキとアキのキっ子二人組だった。元々男の身体は股関節を中心として柔らかく動くようにはなっていないから仕方ないとは思うのだが、ミキは相方となったムツに背中を押してもらって長座前屈をしつつ、
「痛だだだだだだだだだだだだっ! 痛い痛い痛い、ムツっ、たんまたんまっ!」
 こっちが聞いていられないような悲鳴を上げている。可愛い顔して上げる悲鳴が汚いのはやっぱり男なんだと再認識させられる感じだ。一方のアキは幼馴染のカナに手を引かれながら、開脚前屈にチャレンジ中で、
「……要一、もうちょっと弱くして」
「……あぁ」
「あ、もっと強くていい」
 相方たるカナはといえばそれなりの柔らかさで、中津川に「要一はいい身体してるな! 合唱部来ない?」と冗談交じりに勧誘され、無言でいつもの仏頂面をプレゼントしていた。もうちょっと笑ってもいいんじゃないか? まぁ、カナから無表情を取ったら何も残らない気もするけどな。

 その後、中津川が俺達に言い残して去っていったプログラムは、あろうことかランニングだった。
「歌を歌うには肺活量が何より大事! 肺活量を鍛えるにはやっぱり走るのが一番っ」
 とのことである。そこで俺達は、部活でも週に一回走らされている学校の敷地内ランニングコースを一通り走行した。去り際中津川が「歌いながらとかだと効果倍増かも。でも、音程が滅茶苦茶になってわかんなくなったりしないように注意な!」と言ったのを受けて、「イッショウケンメイ。」を歌いながら走っていた俺達は、校庭やテニスコート、その他で活動していた運動部員からすればかなり怪しげだったことだろう。少なくとも、
「『イッショウケンメイ 君が好きだ』ーっ!」
 などとほとんど絶叫に近い歌声で歌いながら爆走しているのは、怪しい以外の何物でもなかっただろうと思う。今から思えば、俺の人生において抹消したいただひたすらに恥ずかしい記憶がまた一つ刻まれた瞬間だった。タイムマシンがあるなら戻ってやり直したいが、便利な猫型ロボットもいなければ使い勝手の悪そうなデロリアンもないことだし無理だと諦めることとしよう。
 本当にこんなことをしていて上手くなるんだろうな?
 次の日も放課後練習に顔を出すと言って去っていった中津川の、忌々しいまでに爽やかな笑顔を思い出しながら、この時の俺は結構半信半疑だった。

 が、その疑いは、すぐ翌日晴れることとなった。
 放課後宣言通り俺達の部室に顔を出した中津川は、まず俺達に「自然体」というのを教えてくれた。「この姿勢を取るだけでびっくりするほど声が出るようになるスーパーテクニック!」というのが中津川の謳い文句で、というか、姿勢の良し悪しと声が出るのにどういう関係が?
「うーん。どんな姿勢でも、歌声に悪影響を及ぼしたりしなければ何でもいいとは思うけどね。でも、姿勢が悪いのが原因でブレスが苦しかったり、歌うための筋肉に力が入らないのは結構損だよ。それで喉を絞めて歌ったりした暁には、声帯痛めることだってあるし」
 なるほど。それで一番、歌うにおいて楽な姿勢というのが「自然体」って訳だ。……こう聞くと何だか歌う専門の難しい姿勢みたいだが、教わってみるとそれが「一番楽な姿勢」であることに気がつく。
 基本は主に四つ。身体の軸がまっすぐであること、重心が低く安定していること、余分な力が抜けてリラックスしていること、楽に息が吸えること。
 姿勢の悪さを注意された俺だった。
「何だろ、猫背なのかな……背骨曲がってるよ。っていうか、何か全体的に姿勢が歪んで見えるんだよね? 骨格とか歪んでない? 日頃どんな姿勢で生活してんの?」
 失礼な。テレビの前に胡座かいてゲームしてたり、ベッドに寝そべって本を読んだりしてるだけです。ポテチ食いながらごろ寝でお笑い見てたりとか。
 ……そんな俺も中津川直伝の自然体の作り方で上手く立てるようになったところで、いよいよボイストレーニングが始まった。腹式呼吸のやり方からピッチを取るためのトレーニング、リズム感を養うための練習まで、一通りが終わった時にはもうくたくただ。歌うってこんなに疲れることなのか、知らなかったぞ責任者出て来い。
「はい、本番はここからなー、ヘタってるなよー? 今からちょっと僕がアドバイスした後で、今まで通り普通に歌ってみてもらうから」
 言うと中津川は、ムツがパクってきたラジカセをコンセントに繋いで、俺達に交代で音取りをするように命じてから、宣言通り一人一人にアドバイスをして回り始めた。まめなこった。
 コーラスパートの二人目を務める俺が言われたのはこんなことだった。
「コーラスUは、他の二本のコーラスの真ん中に当たる音を取り続けるから、凄くピッチ合わせづらいと思うんだ? だから、まずはよく音取りして一人できっちり歌えるようになること。あと、他の二人と上手くバランス取って。聞きすぎないのがコツだから」
 例えばリードボーカルのムツならこんなこと。
「演劇部にも通ってて合唱部にも仮入に来た睦のことだから心配ないとは思うけど……ちゃんと日本語歌えよ? 言葉を伝えるのを念頭において、一言一言はっきり歌うのが大事だからな」
「任せとけ! 俺様を誰だと思っていやがる」
「睦様」
 少しは自粛しろムツ。ウザいから。
 そして、残りのコーラスたるメグ・ミキならこうだ。
「音を重ねるのには、当然音程の感覚が大事だからね。自分のパートはしっかり歌って、ハモってることをちょくちょく確認しながら歌うこと。あと、息が安定してるのが大事だから、ブレスとかも確認してみ? ……あ、そうだ。『アー』とか『ウー』も、ちゃんとした歌詞だと思って歌えよ。これ意外と重要だから」
 ボイパは、肺活量を鍛えた上でリズム感も養うことが重要。ベースは、やっぱりリズム感と、迷わず慌てず一定のテンポを守り続けることが大事。とのこと。
「はいいくよー」
 そうして、中津川は録音機材を整えるといきなり俺達に歌わせた。
 曲目は「イッショウケンメイ。」。
 最初のユニゾンのところから始まって、アキのボイパ・オープンハイハットを期にベース・コーラスがハモってその上にリードボーカルが乗る。
 楽譜を片手に、強弱記号と睨めっこだ。
 とりあえず自分の音をきちんと取れと言われた俺は、無理に同じコーラスのメグ・ミキの声を聞こうとはしないで、自分の歌声と楽譜だけに集中して歌ってみた。何か精神磨り減りそうな感じだったが。
 終わった。
「じゃあ聴いてみよう」
 で、録音したヤツを、中津川は意気揚々と再生した。

 ――綺麗なハーモニーが聴こえてきた。

『遠くから 見ている恋なら あきらめられる
 問題は 僕のすぐそばに 君がいること』
 ユニゾンの部分はブレスが揃って一体感が出ており、次の部分でコーラスのハモは正しい音程でハモっているように聴こえた。安定感を増したにも関わらず、そしていつも無表情のカナが歌っているとは思えない叙情的なベースと、リズム感ばっちりのアキのボイパ。そして、言葉の一つ一つがきちんと心に届いてくる、ムツのリードボーカル。
「……すげぇじゃん」
 聴き終わってしばらくの間、心地よく部室に満ちていた静寂を破って、ムツが感ここに極まれりを隠せぬ様子でそう零した。
「すげぇ……じゃん! 格好いいじゃんハモってるじゃん! うわー、何だこれ! プロみてー!」
 はしゃぎすぎだろ、いくら何でも。
 と思いはしたが――俺も感想は同じだった。今これを聴いての感想文を書かされたら、七割から八割はムツと似たような内容を書く自信がある。
 これは、凄い。
 昨日とは比べ物にならない完成度だ。
「みんなが抱えてた問題は主に二つ。……一つ目は、上手く息を吸えてなかったこと。それでブレスの位置がずれて一体感がなくなってたり、声量が落ちて迫力がなかったりしてた訳。二つ目は……これは普通に音程とピッチの問題だな。一人一人の音取りが不十分だったのと、ボイストレーニングが足りてなくて上手くピッチを取れていなかったこと、お互いの声を聴きすぎて音程が悪くなってたこと……その二つを解決しただけで、ほら、こんなに違うんだって」
 と、中津川も嬉しそうに解説してくれたが――
 俺が、そして他の全員も同じように抱いているだろうこの得も言われぬ感覚は、同じように録音して、歌った本人として違和感を抱いた前日があるからこそのこの感想だった。
 これは。
 これは……今回の、これは。
「俺達さ、」
 ムツが喜びばりばり全開の、燃え盛る真夏の太陽のような笑顔を浮かべて、嬉しそうに叫んだ。

「イケるんじゃねっ!?」


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