* * *

 それからは早かった。
 練習すればできるんじゃん手前等! と気がついてからは、メンバー全員が燃えに燃えた。一番最初の録音を聞いたあの時の、小笠原海峡あたりにうっかり沈んでしまいそうだった暗い雰囲気は多分今頃オゾン層の外側だろう。今や俺達の勢いは銀河の果てまで射程距離十五センチだ。行き先はNASAでいいのか?
 ……みたいなおかしいテンションに俺ですらなってしまうくらい、盛り上がったってことだ要は。中津川直伝のボイストレーニングが効果を発揮しまくるとわかってからは、腹筋・背筋・柔軟体操は競争の対象となり、ミキとアキは「グループで一番カタい俺☆」にならないためにも毎日必死の形相である。
「ユキっ、見て見てっ!」
 中庭でアキと柔軟にふけっていたミキが、ある日部室でボイトレをしていた俺をそう引っ張り出して自慢げに見せてきたことといえば、長座前屈でつま先を掴めるようになった! という証拠としての前屈と、はじけるピンクヒマワリの笑顔だった。確かに出会った頃と比べれば見違えるような柔らかさだな。俺としてはでも、高まった柔軟性よりもキラキラしたその笑顔の方が気になりますが。
「……やべぇなー、俺」
 それを俺の隣で見ていたアキは、憂鬱そうにため息をついた。
「俺、柔軟性でマネージャーに負けるとか、選手生命マジでヤバくね? 去年の夏はBチーム除名されかけたけど、こりゃあ真剣にメグと入れ替えかなぁ……」
 自信喪失か。
「ユキ、もし万が一メグと入れ替わるようなことになったら、ムツの変なタイミングのトスでスパイク打てる自信ないから、俺レシーバーに転身するよ。はぁ……」
 ……意気消沈か。
 そんなアキと入れ替わる可能性がアキ曰く一番高いうちの補助アタッカー・メグはといえば、テスト一週間前に突入してから度々マスク姿で登校してくるようになった。季節的にそろそろ花粉も飛ぶ頃だから何もおかしいことではないのだが、いつもの眼鏡にプラスしてマスクという、どことなく怪しい雰囲気が漂わなくもない姿で初めてメグが教室に入ってきた時には、一体何が起こったんだと目を瞬いたもんだ。
「歌うのに一番大事なのって、柔軟性とか筋力とかもあるけど、やっぱり喉だって本に書いてあったから。……最近は喉を守るグッズも色々あるらしいんだけど、マスクが一番手っ取り早いでしょ? 花粉とか大変な時期だから、しててもあんまり目立たないしさ」
 とのこと。更にはメグ、鞄の中から小さな袋を取り出して、
「あ、のど飴いる?」
 ……。
 そうしてメグが自らの喉のためと言ってマスク姿で登場する日が続き、更には能面のようだったカナの表情にも生き生きとしたものがよく見られるようになった気がする。元々表情の変化が少ないから、生き生きしててもよく見なきゃわからないけどな。が、これまで俺達の前でずっと黙っていることが多かったカナは、この前の休日に合唱部に混ぜてもらって音楽室で練習していた時に、「午前の練習終わったら昼飯食いにいこーぜ♪ 何がいい?」と言ったムツに、
「…………蕎麦」
「はい?」
「温かい蕎麦」
 ジョークとしか思えないことを仏頂面で言って笑いを買い、中津川から再び真剣に合唱部に来ないかと勧誘を受けていた。
 俺はといえば……デジタルオーディオプレーヤーの中身にアカペラ系の曲が増えたな。あとは家でピアノの前でボイトレをする時間が増えた。妹からの視線は毎日とても冷たいが、ドライアイスの海に放り込まれるよりは何万倍もマシなので頑張る俺。妹よ、お前の視線の冷たさは南極大陸の気温を超えた。
 で、残るムツだが、これは特別説明するまでもなく大体ご想像のつくところと思う。バレー部の朝練に顔を出していないなと思ったら、これまで「面倒くせぇ」の一言だった校内ランニングを黙々とこなしていたり、昼休みにふと消えていると思ったら屋上で発声練習をしていたり、放課後全員揃っての部室での練習には来ず音楽準備室を借りて一人で歌っていたり。
 それからカラオケに行く回数が増えたらしい。
「駅前のカラオケ屋のさ、バイトの兄ちゃんに、よく一人カラオケに来る奴って顔覚えられちまったみたい。……俺友達いないって思われてるかも。ユキ、今度一緒に来てくれ」
 だそうだ。しょうがなく二、三度付き合ったが、こいつはそんな自分に付き合った俺が「友達いない奴の唯一の友人」みたいな奇妙な目で見られる可能性を考えたことがあるのだろうか? もっと根本的なことを言ってしまえば、カラオケ屋の兄ちゃんの視線が痛いならカラオケ行くな。もしくは店変えろ。

 そんな日が二週間続いて。

 テストも終了し、いよいよ合唱祭も目前という時期になっての、ある日のことだった。
 その日俺達は、最近部室から代わって活動場所となりつつある、特別教室棟と中等部教室棟のつなぎ目部分のピロティに誰からともなく集まって、ピッチパイプとメトロノームも仲間にハモりにふけっていた。活動場所が変わった理由は単純明快で、廊下の連結部でホール状になっているピロティは音が響きやすく、ハモりがエコーして返ってくるのが聴いていて快感だからだ。
 ……快感とか、俺達はもうすっかりアカペラ中毒患者だった。
「やっぱ、音が高いぶんコーラスはミキが浮きがちだな? もうちょっと、がなったり無理したりとかしないで、自然に出してバランス取ってみ?」
「じゃあ、コーラスだけで一回やってみようか。……あ、アキ、カナ、聴いてもらってていいかな?」
「いいよー」
「……ああ」
 ムツのアドバイスを受け、俺とメグ・ミキのコーラスパート三人が練習でメトロノームの音に合わせて歌い出そうとした時――
 その瞬間はやってきた。
「やー、練習頑張ってるねぇ。感心感心」
 丁度ブレスをしたところで、廊下の向こうからそう誰かが手を叩きながら声をかけてきた。爽やかな微笑混じりのその声が誰のものかなんて、俺達の脳を互いに取り替えても答えは一つしか出ない。もはや俺達のアカペラ指導顧問以外の何者でもあり得ない、合唱部のエース・中津川だ。
 俺達が練習しているところへ中津川がやってきて色々とアドバイスをするのは、既に日常となった風景である。
 が、この時の中津川はどこか雰囲気が違った。
「隼人じゃん。何しに来た訳?」
 俺達の前で偉そうに腕を組み仁王立ちしていたムツが腕を解いて、中津川に歩み寄りつつ尋ねる。
「合唱部、今は合唱祭直前で、練習も準備も大変なんだろ? 俺達のところで油売ってていいのかー?」
「油を売る、ねぇ? ……確かに今は超、超・超忙しいかな。でも、ただ油を売りに来た訳じゃないんだよ、今日は。そうだね、ちょっと洒落たことを言うなら『油を買い付けに来た』とか言うといいのかな」
 言って。
 言って中津川は、右上腕部につけられた黄色い布切れをつまんでムツに見せびらかすようにした。安全ピンで紺のダブルブレザーの袖に止めつけられているその布には、黒い筆文字で「Let's sing soul song!!」と、全生徒の投票によって選ばれた合唱祭スローガンが書かれている。
 俺はその奇妙な腕章に見覚えがあった。合唱祭実行委員がつけている腕章だ。
「うん? 何だ何だ、アカペラ指導顧問としてじゃなくて、合唱祭実行委員の端っくれとしてのお出ましかよ。怖いなー」
 俺と同じことを考えたらしいムツが、笑いながら言って中津川の示した腕章をつまむ。
「ところで、その『Let's sing soul song!!』って文法的に間違ってんぜ。正確には『Let's sing a song of soul!!』だって、委員長によろしく伝えておいてくれ」
「お前の英語の成績が学年トップクラスなのはよーっく、わかったよ。そうじゃなくてね……そう、今日僕は、合唱部員としてじゃなくて、れっきとした合唱祭実行委員としてここに来たんだ。いい勘してるな、睦――」
 そうして中津川は、腕章をつまんだままきょとんとしているムツに、にやり、と性格悪そうな笑顔を向けた。
 何か企んでいるような――その上で湧き上がる喜びを隠せないような、いたずらを仕掛ける直前の悪ガキがするような、俺に危機的感覚を抱かせつつもどこかもったいぶって期待ももたせることを忘れない、そんな、裏のありそうな笑みだった。
 中津川は言う。
「今年の合唱祭、最後各クラスの採点を集計している間、職員合唱で間を繋ごうってことになってたんだけどね――先生達の都合で、職員合唱が急遽取りやめになっちゃったんだよ」
 何となく、話が読めてしまった。
 その上で、心の奥底から湧き上がるこの奇妙な感覚は何だろう? 不安にも、希望にも似た不安定な気持ち。
「とりあえずは、僕等合唱部がその時間を持つんでどうかっていう話になったんだけど……既に合唱部には別枠がちゃんと用意されている。それで僕は、合唱部からの合唱祭実行委員としてこう提案した訳――」
 ピロティに設置された展示用ギャラリーに腰掛けたカナとアキ。
 俺の隣に突っ立ったままのメグとミキ。
 中津川の正面のムツ。
 そして俺。
 中津川が言った。
「僕等合唱部に任せるくらいだったら、それ以上の適任が、この学校にはいるってね。彼等にやらせたらどうだろう? って」
「……それってもしかして……」

「睦。それとみんなと。――合唱祭のステージで、ハモってみないか?」

 ……何ということだろう。
 合唱祭のステージで、歌うことになってしまった。


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