* * *

 ……ここ数ヶ月、色々信じられないことばかりだ。
 それからあっという間にやってきた合唱祭当日、舞台裏の楽屋外に伸びた廊下の壁にもたれかかって天井を仰ぎながら、俺はそんなことを考えて深い吐息を漏らした。合唱祭のプログラムは俺のクラスを含む中等部が午前中に終了して午後の部に移り、その午後の部も高等部の一クラスが残るのみで、あとは審査員の採点の後に結果発表だけとなっている。
 でも、その結果発表の前に――
 全校生徒の前で、俺達が歌う、なんて。
「……ふぅ」
 合唱祭実行委員――もっと正確に言えば合唱祭実行委員会中等部一年生代表という長ったらしい肩書きらしい――中津川に案内された楽屋群前の廊下には俺がいるだけで、あとは静かなものだ。学校近くの市民ホールを貸しきっての合唱祭は、うちの学校にとって学園祭・体育祭と並ぶ行事だが、「呼びに来るまで待ってて」と中津川が俺達を通した楽屋の一室もかなり上等で、自分が日頃住んでいる世界とはかけ離れていると眩暈すら覚えた俺は、一人こうして廊下に逃げてきたという訳である。
 もっとも、みんなが最終調整をしている楽屋を逃げ出してきた理由は、それだけに限らないけれど。
 ついたため息が微かに反響し、俺は息を止める。ここでハモればさぞかし響きそうだな、と場違いなことを考えて、天井に向けていた視線を足元に落とした。
 そうだ、信じられない。こんな立派なホールの舞台に立ち、アカペラを歌うなんて想像もつかない。
 まして、それを外部の人間から依頼された、なんて。
「……」
 ムツが無茶を言い出し、それに付き合わされて痛い目や大変な目やつらい目、これらに対し百対一くらいの割合ではあるがちょっといい目に遭ったことは、これまでも何回だってあった。あのハイテンション馬鹿兼トラブルメーカー・イベント大好きお祭り上等のイケメン野郎の、爆発とも表現すべき暴走に巻き込まれることは俺にとって日常だし、それはメグやミキ、ついでにカナとアキも同じことだと思う。
 けれど……今回のこれは、何だ?
 ムツの暴走には程度というものがあって、いい時にはただ趣味で集まって色々やらされるだけ、酷い時には今回と同じように大会や大舞台に身一つで放り出されるといった具合なのだが、今回についてはどちらとも取れないような気がする。
「……予想外も予想外、予定外なんだよ、クソが」
 俺が今回ムツの「アカペラやろうぜ」発言について一番危惧していたのは、時期が時期、合唱祭直前ということもあって、奴が中津川のような合唱祭実行委員に無理を言って合唱祭のステージに立たせてもらおうなどと言い出すことだった。そんなことになればラグビー選手もアメフト選手も驚くくらいの防御態勢で押さえ込もうと思っていたのだが、けれどムツは実行委員会の会議に飛び込むような真似をするでもなく、珍しく純粋に、みんなでアカペラを楽しもうという雰囲気で、ぶっちゃけた話、俺はかなりほっとしていたのである。奴が平和且つ安定した日常に目覚めてくれるのは俺起っての希望だからな。
 それなのに――
 中津川が、俺達に機会を与えてきた。
「合唱祭のステージで、ハモってみないか?」などと言って。
 ムツが行動を起こす以前に、向こうから――事はやってきたのである。
 自分達が合唱祭のステージで歌うことになってしまった事実も然ることながら、俺にとってはそっちの方が信じ難かった。ムツと一緒にいて、とても信じ難い状況に直面するなどもはや普通のことだと、理解していたつもりでいたけれど、それでいても尚、信じ難い。
 けれど現実だ。
「……何やってるんだろ」
 そんなことをぐるぐると考える内に息が苦しくなって、楽屋を飛び出してきた訳だが。
 自分で自分が情けなく、またちょっと恥ずかしくて、俺が短いため息とともに一人呟いた時だった。
「よぅ、ユキちゃん。わざとらしくため息なんかついちゃって、青春だねぇ?」
 廊下の向こうから声をかけられてその方向を見れば、そこではムツが、自販機で買ってきたらしいペットボトルの水片手ににやけた笑みを浮かべていた。俺はいつもをなぞって顔をしかめると、ムツがお望みだろう台詞を吐いてやる。
「ため息はついたけど青春じゃない。……何か用かよ」
「ようっ!」
「……ばっかみてぇ」
「用がなきゃ話し掛けちゃ駄目なのか? 水買いに行って、帰ってきたらユキがセンチな顔してため息ついてたから、ちょっと声かけただけだけど。……マジで可愛い顔してたぜ、お前? 俺が専属カメラマンなら絶対にシャッター切ったね」
 演劇部に出入りしていたくらいで本番慣れしているらしいムツは、ほとんどいつものように明るく軽い口調で言ってくる。反対に混沌と虚無が同時に見えて頭が判然としない俺は、よくもまぁそんなにムカつくことを言えるもんだとムツを睨んで、半ば反射的に言い返した。
「何度も言うけど可愛くないし。ため息はついてたけど。……いい加減覚えろよ。殴られたいのか?」
「……ユキって割かしすぐに暴力に訴えようとするよな……まぁいいけど、それを取ったらユキじゃなくなる気もするし」
「……お前から暴走を取ったらお前じゃなくなるのと同じにか?」
「そうそう、ユキからその毒舌を取ったらユキじゃなくなるのと同じにだ。……、」
 ムツはかなり失礼なことを言ってから、ふとカナ並みの無表情になって黙り込む。しばらく黙って、それから無言のままペットボトルの口を開けると中身の透明な液体をぐいっと呷り、キャップを閉めて少しの間それを見つめていた。
 俺達の間に、よくわからない沈黙だけが続く。舞台と繋がっている廊下の先から、高等部二年生の最後のクラスが歌う自由曲が微かに聴こえてきているのだけがリアルだ。
「……俺の話をしよう」
 と、ムツは唐突にそう言った。
「……別に聞きたくないけど」
「野瀬睦の話だ」
 いきなり何を話し出すんだと眉を顰める俺に対して、ムツはあまりにも真剣な表情をしていたから、俺は押し黙る。何か悪いものでも食べたんじゃあるまいな。こいつがこんな顔をするなんて――俺達を取り巻く空気が、微かに淀んだのが感じられた。
 ムツの口調は静かだ。
「俺はな。はっきり言うと……昔、それこそ幼稚園児とかすげぇ小さかった頃、自分のことを最高だと思っていた」
「……改めて言うことでもないんじゃないか?」
「マジな話してるんだから茶化すんじゃねぇよ。……まー、最高っていうのはでも、ちまっと言い過ぎかな? だけど、そこまでじゃなくても、さ。自分ってすげぇ、何つーか、特異くらいの存在であるとは思ってた訳だ。自惚れもいいところだけどな。……自覚してるんだから突っ込むんじゃねぇぞ」
「……わかったよ」
「何はともあれ、自分のことをとにかく特別な人間だって思ってた訳よ。スペシャルもスペシャル、アブノーマルを通り越してナンバーワンなオンリーワンだってな。だから、自分に成し得ないことなんてないと思ってたし、誰よりも自分が優れてると思ってたし、みんなから羨ましがられたりちやほやされたりする存在でありたいと願ったし、常に完璧で完全無欠のスーパースターでありたいと夢見た。……でも、それは間違いだった。間違いだったんだよ、ユキ」
 間違い。
 俺は生き方を最初から間違えていたんだ。
 ムツは天井を仰いで呟いた。奴の手にしたペットボトルの中身がゆらりと揺れる。
「俺が何か一つ成し遂げたってことは、それまでの時間にそれ以外のことは成しえなかったってことなんだ。誰よりも自分が優れているっていったって、世の中には光がありゃ影があるように、長所は短所とも捉えることができる――優れていないことが優秀な世界じゃ俺は何をどうあがいても敗北者でしかない。みんなから羨ましがられてちやほやされる裏側では、そうやってもてはやされる俺を憎む奴が必ずいるだろうし。完璧完全無欠のスーパースターなんか、この世界には一人だっていない、これからだって誕生しない……『世の辞書に不可能の文字はない』だったか? でもそれって実のところ不良品だよな」
「……」
「そう思った時、俺はこの世界のことをつまらないって思った後で、もの凄く怖いものに感じたんだ。自分が特別じゃない、特別なんてこの世界には何一つとして存在しないって思った時――自分の生きる意味が判らなくなった」
 自分が何のために生きているのか。
 そんなのは俺にだってわからない。自分の生きる意味が判るのは死の間際だ、そこに辿り着くのが生きる意味なんだ、とか危く騙されそうになる巧いことを言った偉人がどこかにいたような気がするが、それは要するに生きる意味なんざわからないってことだろう。だから、普通なら誰もそんなことを考えたりしないし、ましてそれで悩む奴なんかいない。それこそお前くらいのものだろう、ムツ。
「まーな。だから――んなこと考えちまった時点で、俺は駄目なんだよ。欠陥品だ。人間失格なんて、太宰治は巧いこと言ったもんだよな……中身読んだことないから知らないけどさ。まぁ、太宰のことはどうでもいい」
 滅多に見られない、沈んだような、思い悩むところがあるような、何よりも真剣な表情を続けて、ムツは言う。
「俺が言いたいのは、何て言うのかな……意味、じゃあないな、厳密には。生きる意味なんて、そりゃあわかんなくて当然だし。生きる意味、つーか……自分の価値が、わからなくなった、っていうか」
「……価値?」

「自分なんて、他の誰かに取って代われる、いてもいなくても一緒の、代替可能な無価値物なんじゃないかって、さ」

 どくん――と。
 心臓が波打った。
「そんなの俺だけじゃない、他の奴等もそうなんだろうって、それはわかってるんだけど。……何をどうあがいても成し得ないことがあって、誰にも勝てない敗北者で、誰かから憎まれて恨まれて、完璧でもなければ完全無欠でもない欠陥品で。そんな俺に果たして価値なんかあるのか?」
「……」
「俺が存在することによって、この世界には何か利益があるのか? あるいは、俺が消滅することによって、この世に何か損失があるのか?」
 そういうことが――わからなくなったんだ。
 言われて、不気味なまでに心臓が脈を打った。
 それは。
 それは禁句だろう? ムツ。
 俺達みたいな平々凡々の、普通の人間には。
 ここはライトノベルの世界じゃない。
「だから、」
 と、ムツは言葉を繋げた。
「だから、俺は『特別』っていうのを、別の意味で捉えることにしたんだ。……『誰よりも優れていること』じゃなくて、『他と違う、異なっていること』っていう風にな。世間一般に価値のあるものには、大きく二種類あるっつーのは、ユキくらいなら考えたことあるんじゃないか? 一つは、他に比べて優れているもの、物質的価値が高いものだ。もう一つは、どんなガラクタであろうと数が少ないもの、すなわち希少価値が高いもの――」
 数が多くても、優れているものは価値が高い。
 優れていなくても、数が少なければ価値は高い。
「俺は後者を選ぶことにした。他の奴等が選ばないような生き方を選べば、誰よりも変わってて誰よりも特殊な、価値のある人生を送れるんじゃないかって、そう思った訳」
「……」
「他と違っていれば、この世界に二つとない、誰にも取って代われない代替不可能の価値ある唯一になれると思ったんだ。ナンバーワンじゃないけどオンリーワン。俺は優れてなくてもいい、いつか偉人辞典に名前が載るような特殊な生き方をする、そう決めた。……それで俺は、いっつもユキに反対されるようなみょうちきりんなことをするんだよ」
 思い出すのは、ムツと出会って以来の事件の数々だ。その中心、先頭に立ち続けてきたムツ。こいつが暴走するたびに散々な目に遭ってきた、今までの俺も同時に思い出す。
 それが全て、そんな考えあってのことだったのか……
 俺は何も言えない。
「色々迷惑かけてる自覚もあるし、申し訳ないとは思ってる。でもな、ユキ……俺は、俺のこの生き方を譲る気はない。それにはやっぱりユキ達が必要不可欠だし、これからも俺はお前達を色んなことに巻き込むと思うよ。だけど……俺はそれを、悔やんだり省みたりはしない。今までのことも、これからも、な」
「……」
「悪いな。お前達だけじゃない……たくさんの人を不幸にするんだとしても、俺は、俺の生き方を曲げたりしない。昔、そうやって決めたんだ――だから、」
 ムツの手が俺の肩にそっと置かれ、ムツが何かを言いかけ、淡い褐色の瞳に本質の部分がきらりと滲んだ時――
 廊下の向こう、舞台の方から拍手の音が響いてきた。どうやら高等部の最後の発表が終了したらしい。同時に、かつかつと音を立てながら誰かがこちらに歩いてきて、廊下の壁際で向かい合った俺達に声をかける。
「睦、次。出番だよ」
 中津川だった。
 今日もまた、しっかりと着こなした制服に実行委員の黄色い腕章姿である。
「……おう、わかった」
 ムツは俺の肩に手を置いたまま、中津川を振り返っていつものように笑みを向けた。けれど、それがとても不自然に見えたのは、これまでのやり取りを一人知る俺の贔屓目では決してあるまい。
「他の奴等は?」
「もう呼んで、舞台袖でスタンバってるよ。あとはお前等だけ」
「そっか。すぐ行くから先行っててくれ」
「了解」
 どことなく不自然な俺達に、気がつかなかったのかそれとも気づいていながらそっとしておいてくれたのか、中津川はムツと短い会話を交わしただけで踵を返し、舞台の方へと一人廊下を歩いていった。しばらくローファーの踵が立てる硬い音が響いた後でやがてそれも遠くなり、俺とムツとの間に再び静寂が舞い戻る。
「行くか、ユキ」
 言われて振り返れば、ムツはやっぱりいつものような笑みを、俺よりも少し高い位置から送ってきていた。思わず俺は尋ねる。
「……話はいいのか」
「別に? ……何言おうとしてたんだか忘れちまったし。あんまり客を待たせるのも悪いしな」
 そっか、と俺はうなずいた。
 でも「忘れた」というのは絶対に嘘だ。
「ああ、それとな、ユキ」
「何だ」
 先に歩き出し、俺と少し距離を置いたところで立ち止まって、ムツは俺を振り返らないままでふと思い出したようにそう付け加えた。
「さっきのアレは、狐につままれたと思って忘れてくれ。……何つーか、血の迷いっていうか、気迷ったっつーか。そんなだから」
「……気の迷いか血迷ったか、どっちかにしたらどうだ」
「うん、そうだな」
 俺の他愛のない突っ込みにうなずいて。
 ムツは俺を振り返った。
 いつもの、百万ワット満面の笑みで。

「おっしゃ! ――魂の歌、歌おうぜ♪ ユキ嬢ちゃん」

「そうやって呼ぶな馬鹿」

 廊下の向こうからは、客席からのざわめきが微かに伝ってきている。


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