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『(Non Title)』
 作・新原洋央にいはらひろお

 倉内愛美の話をしようと思う。
 俺と彼女との出会いは、遡ること八年ほど前のことになる。
 幼稚園年中組の夏休みが終わって割とすぐの、急に秋らしい陽気になった清々しいある日のことだったと記憶している。それまで嫌というほど暑い日が続いていたというのに、台風一過で突然涼しくなってしまったので、散々遊んで回った夏休みの気分を未だ引き摺っているらしい同級生達は朝からどこか寂しそうだった。
 俺はといえば、当時から暑さ寒さに関係なく毎日教室で絵本を読んで過ごしているような子供だったので、そんなテンション低空飛行中の同級生どもに冷めた視線を送りつつ、その日もまた本棚から絵本を取り出して一人、窓辺で広げていた。
 その頃の俺というのが、これがまた人付き合いの極端に嫌いな奴で、面倒くさい同級生達と一緒に大して面白くもない遊びをさせられるくらいだったら一人で本を読んでいた方がよっぽど楽しかったから、当然そんな変わり者と友達になろうなんて酔狂な奴もおらず、俺は常に一人だった。つまりそれは、俺にとっても誰にとっても見慣れたいつもの朝の光景だったってことだ。
 そこへ、担任が転入生を連れてきた――その北九州からやってきた転入生こそ、当時五歳の倉内愛美だったのだ。
「新しくみんなのお友達になる倉内愛美ちゃんです。仲良くしてあげてね」
 と担任が倉内を紹介した時、クラスの半分はそんな新しいお友達に見蕩れていて、残りの半分はそんなもう半分に対して少々イラッとしていた。このハーフアンドハーフの違いは何かといえば、単純に男女の違いである。
 何せ倉内はその年にして、人間ではなく突然変異によって生じた何か別の生命体なんじゃないかというくらいずば抜けた美人だった――年齢を考慮すれば可愛らしかったというべきか。
 だから、当時「ひとをすきになること」を知り始めた、男子からは一目惚れに近い情を抱かれ、そうして男どもの視線を独り占めしたため女子からは嫉妬めいたものが湧いて出た。つまり倉内は、転入初日にしてクラス中の好意と敵意を、ただ一人分を除いて全て受けることになったのである。
 その一人とは誰か――俺だった。ませていて達観者じみていた、あるいは逆に子供で恋愛ごとにまだ興味がなかった俺は、倉内の異常なまでの美貌に圧倒されるでもなく、新しい友達がクラスに加わることになりました、ふぅんそうですか、くらいの感想しか持っていなかった。いや、お人形さんみたいで随分と可愛い子だなぁくらいは思ったけれど、でもその程度である。そんな可愛い子がクラスの中でも一際地味で浮いている俺なんかに目を向ける訳がないとも思ったし、先生からの紹介を聞いた後はいつも通り読書の世界へと戻った。
 が、しかし。
「……」
 気がつくと、本棚の前に出した椅子に座って空想世界を広げていた俺に向かって一つの影が落ちている。それは人の形をしていて、すなわち誰かが絵本を読んでいる俺を覗き込んでいるということであり、何事かと俺は顔を上げた。
 そうしてそこに立っていたのは、もちろん倉内愛美だった。
 彼女はどこか冷めた風のある――それがどことなく魅力的ではあったのだけれど――目で不思議そうに、絵本を広げた俺を見下ろしてこう言った。
「一人で絵本読んでて、つまらなくないの?」
 それが、倉内が俺に対して放った第一声だった。
「……ないよ」
「私は嫌いっ!」
 クラスの男子の視線を独占するような可憐な転入生にいきなり話しかけられたことに少々戸惑いながらも俺が答えると、彼女は整った顔を険しく歪めて半ば叫ぶようにそう言った。俺はその声と口調、そして表情に少しの間面食らっていたが、やがて自分の趣味嗜好を思い切り否定されたことに気がついて反論する。
「何でだよ。普通に面白いぞ」
「私は嫌いなのっ。一人でじっと本読んでるなんて、つまんない」
「つまらなくない」
「つまんない!」
「つまらなくない!」
「つまんないつまんないつまんないー!」
 俺達のやり取りがそれこそつまらない口論になりかける。その声に、丁度園庭に出ようとしていた同級生の何人かが振り返ったが、彼女はそれに気がつくことなく強い口調で続けた。
「ママは私に、読みなさいって言うよ。おべんきょーになるんだって。でもわかんない。何が楽しいのかぜんっぜんわかんない」
「じゃあ、」
 と、俺は負けないくらい強い口調で言った。普段あまり声を荒げることのない俺が出したその声に、先生等がぎょっとしたような顔をしていたが構うことはなかった。
「俺が教えてあげる」
「何を?」
「『どくしょ』がすっごく面白いってこと」
 それから俺は、彼女に椅子を持ってくるように指示するとそこに座らせて、読みかけだった絵本を最初に戻って読み聞かせた。俺はその頃既に平仮名・片仮名の読み書きができるようになっており、また読むだけなら漢字もいくつか読めたので、特に難しい漢字には振り仮名も振ってあったことだし、小学二年生レベルの物語までなら難なく読むことができた。だから、絵を見せつつ自分は文章を声に出して読むことなど造作もないことだった。
「……『しあわせにくらしましたとさ』。おしまい」
 多分現在よりも感受性は豊かだったと思われる当時の俺が、感情も込めて一冊の本を読み終えると、振り返った先で彼女は呆けたような顔をしていた。既に同級生のほとんど、というか俺達を除く全員が園庭に出ていってしまった後だったため、教室はとても静かで、その静寂と園庭から聞こえてくる喧騒、そして彼女の熱に浮かされたような表情とのコントラストを、俺は今でもよく覚えている。
「どうだった?」
「……面白かった」
「それ見ろ、面白いじゃんか」
 未熟なことにも少しばかり得意になった俺がそう言って――次の瞬間彼女が返してきた笑顔は、もっと忘れられない。一生忘れることはないだろう。
「うん、すっごく面白かった!」
 酷く魅力的で幸せそうな、明るい表情。人形めいた顔立ち。俺と同じくらいかほんの少し小さいくらいの背格好。腰の辺りまで伸ばされた真っ直ぐな天然色の茶髪。凛とした声。はっきりとした喋り方。
 ――俺に初めて向けられた、裏も表もない、純粋で真っ直ぐで眩しい、笑顔。
「私、倉内愛美っ」
「……知ってるけど」
「君はっ?」

 それが、俺と、彼女・倉内愛美との、出会いだった。

――――――

 文章を悩みながらもそこまで書いたところで、俺は一旦指を止める。たった数十分で凝り固まった肩をぐるぐると回して、ついでに眉間に指を当ててマッサージした。意外と執筆作業って疲れるな。
「おっ?」
 リズミカルにキーを叩くようになった俺の背後からはいつの間にか理音も中津川も消えていて、その代わりといっては何だが振り返ったそこにはミキがいた。興味津々といった様子でパソコン画面を覗き込んでいる目はきらきらと輝いている。うーん、やっぱ可愛いな。ミキとの話を小説に書いた方が良かっただろうか。もちろんミキは男じゃなくて女の子って設定にしてさ。
「やーっと、書き始めたか! 順調に進んでるみたいじゃんっ。これなら明日の締め切りにも間に合うんじゃない?」
「……さてな」
 俺は背後のミキに向かって肩をすくめてみせる。あんまり過度な期待はしないでくれよ。ちゃんと恋愛モノになるかどうかはわかったもんじゃないからな。
 当初の締め切りは明日に迫っている。もちろん最終締め切りである明々後日までに間に合わせればいいのだが、完成は早いに越したことはないだろう。あのムツのことだ、最後に原稿を提出した奴は締め切りに間に合っていようが問答無用で罰ゲームとか、普通に言い出しそうである。
 ミキとの会話もほどほどに、俺は再びパソコンに向かって続きを書き始めた。

――――――

 そんなことをきっかけに俺と倉内は仲良くなった。
 それまでずっと一人だった俺は一人ではなくなり、倉内は俺にとってたった一人の友達らしい友達となり、俺と彼女の奇妙な共同生活は幕を開けた。彼女は名前を聞いて俺に「ユキちゃん」という呼び名をつけ、毎朝幼稚園に到着した俺に向かって「ユキちゃぁぁぁぁぁん!」と叫びつつ地獄の果てまで追い掛け回さん勢いで駆け寄ってくるのがお約束の行事みたいなものになった。そんな倉内のどこかヒステリックにも聞こえる叫び声は正直得意じゃなかったが、それを除けば彼女は基本的にいい奴で、俺も追い払ったりすることはなかったように思う。
 どころか人懐っこくて、それなのに鬱陶しくもない絶妙な距離感を持つ彼女のことを俺は素直に好ましく思っており……うん、そうして彼女に好意的な感情を抱いていたことは否定しない。俺は倉内と一緒に本を読むなどして、互いに親交を深めた。
 しかし、そうして仲良くなっていく俺達のことを快く思わない奴等がいた。
 何を隠そうクラスの連中である。その内の半分、倉内にハートを射抜かれた男子連中は、自分達を差し置いて倉内と一番仲良くなった俺のことを最大限敵視した。まぁ、クラスのアイドル的存在と抜け駆けみたいな感じで仲良くなっちまったんだから、いい気がしないのは何となくわかる。しかしそれを理由に俺を嫌うのは何か違う気がするんだけどな。俺はそういうつもりで倉内と仲良くなったんじゃないし、そもそも俺達二人はそういう色っぽい関係である訳では(幼稚園児なんだから当然ともいえるが)なかったのだから、何を変な勘違いをしていやがるんだこの野郎、なんて思っていた記憶がある。思うだけで何も言わなかったけどな。何を言っても無駄そうだったし。
 倉内も俺と似たり寄ったりで、彼女は残りの半分たる女子連中から猛烈に嫌われていた。その理由が、女子の中でプリンス的存在の俺と云々……だったりしたらいかにもそれっぽい話になったかも知れないが、そんなことは全くなく、単純にクラスのほぼ男子全員から好かれる倉内へのジェラシーというやつだ。また、クラス中の男子から好かれていていい相手を選び放題選り取りみどりなのに、俺みたいな変な奴とつるんでいたのも彼女達の気に障ったらしいが、詳しいことは知らない。知りたいとも思わなかった。もちろん倉内に男子連中を弄んでいた――しかし我ながらすげぇ表現だな――つもりなどなかったが、そんなことはお構いなしに、彼女達はクラスの男子どもマイナス一人の全員に「すきなこはくらうちまなみちゃん」と言わせたことに対するやり場のない怒りと憎悪を倉内にぶつけていた。
 こういうことになると男子よりも女子の方がやることはよっぽど陰湿で、俺から見ても倉内は結構酷い苛めに遭っていたように思う。それでも倉内はへこたれることなく知恵を使って三倍返しにしていたので、俺は気にすることなく倉内と一緒にいられた訳だが……。
 そんな俺ウィズ倉内対クラス全員の情勢が浮き彫りになったのが、年に一度のお遊戯会みたいな行事の時だった。
 俺達のクラスは確か浦島太郎をやることになったんだったと記憶しているが、それで乙姫様に選ばれたのが他でもない倉内だった。「おとひめさまはまなみちゃんがいい」と推薦した男子諸君に対し、当然の如く女子連中は猛反対したのだが、クラスは女子よりも男子の方が僅かに多かったため、最終的には多数決で倉内に決定してしまったのだ。この決定に女子は気に食わないと言わんばかりに複雑な顔をし、男子は誰が倉内からのおもてなしを受けることになるのだろうと皆胸を躍らせていた。
 しかし、それで倉内はとんでもない発言をしたのである。
「ユキちゃんが浦島太郎じゃないなら、やらない」。
 倉内がそう宣言した時点で、浦島太郎役は男子の中でもクラスのリーダー格だった奴に決まっていたのだが、そこへ相手役(?)たる倉内がそんなとんでもないことを言い出したので、クラスは荒れに荒れ、倉内はクラスの全員から反感を買った。あんないい相手を宛がわれて何が不満なんだという具合である。
 俺もこの時ばかりは何てことを言い出すんだと思った。我侭娘・倉内の一言で浦島太郎が俺に代わったりする訳はなく、そのままだと発表当日になって倉内がボイコットというのもまるでありえない話ではなかったので(倉内を説き伏せたつもりでいた先生達はそう思っていなかったようだが、その考えは甘いとしか言いようがなかった。倉内なら冗談でなくマジでやる)、俺は一人で倉内を説得する羽目になってしまった。
「どうしてあんなこと言ったんだよ、愛美」
 半ば咎めるつもりで俺が言うと、倉内はどうして自分が咎められなければならないのかと言いたげな不満そうな表情になった。
「だって私、浦島太郎の役、やる子? 何くんだっけ……知らないけど、そんなこと一緒にやるのなんて嫌だもん。ユキちゃんがいい」
 クラスで一番人気のある、同時に一番疎まれる程の可愛い女の子にそう言われたら普通は喜ぶべきなんだろうが、俺はそんなことより倉内を何とかして説き伏せようと必死だった。
「何が嫌なんだかわかんねぇよ。いいじゃん、やれって」
「……ユキちゃんはそれでもいいの?」
「いいよ」
「……わかった」
 倉内は不満そうだったが、最終的には俺の説得に応じ、クラスの何某君を相手に乙姫様の役をやった。俺は何の役をやったんだかもう忘れてしまったが、劇の最中倉内が常に絵に描いたような仏頂面をしていたことだけは印象に残っている。
 が、そうして役に応じたとはいえど、それがしぶしぶだったこともあり――倉内とクラス全員との間に生じた深い溝が埋まることはなかった。その倉内の隣には俺の名前も連記されていたようなのだけれど、それについては未だもって甚だ遺憾である。倉内の当日ボイコットを阻止した分、俺は感謝されてもいいと思うのだが。
 まぁ、そんなわだかまりは俺の中に残ったけど、それを期に俺がクラス全員の側につくこともなく、相変わらず倉内とは仲がいいままだった。
 そうして、俺と倉内はクラス全体から疎外され、卒園の時を迎えるまで、ずっと二人きりだった。

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