* * *

 そこまでを書いたところでその日の活動は終了となり、俺が続きを書く機会を得たのは翌日の締め切りを迎えてからだ。
 いつの間にやら美術部と漫研同好会に部誌の表紙と小説の挿絵を発注していたらしいムツは、朝から足に特殊なブースターがついているんじゃないかと思うほどの猛烈な勢いで図書館書庫を出ていった。何故か俺に対する昨日の不機嫌もすっかり直っており、ほっとするやら鬱陶しいやらだが、そんなことよりもあいつは今日が当初の締め切りであることを覚えているのだろうか。奴も俺と同じで原稿を仕上げていなかったはずで、他の部にちょっかいを出しに余裕があるとはとても思えない。
 ちなみに、この当初締め切りの時点でムツと俺以外の原稿は揃ってしまっている。別に最終締め切りである明後日に間に合わせればいいのだが、メグとカナとアキは当初の締め切りにきっちりと間に合わせてきた。この三人は真面目っ子の代表格みたいな性格をしているからな。アキは最後まで原稿を出すのを渋っていたが、今朝書庫に連れてこられてカナに「……」と無言の抗議を叩きつけられ、しぶしぶといった様子でポエム数点を提出していた。
 戦隊モノパロディを書いたミキはとっくだし、文芸部代表たる神川は俺達に協力を仰ぐ前に自分の分の原稿は当に仕上げている。理音と中津川の文化部連合二人組に至っては昨日の通りだ。原稿が書き上がっていないのはムツと俺だけである。
 ムツは今日が当初の締め切りだったことを忘れているようだし、明後日までに書き上げればいいのだろうが、完成は早いに越したことはない。うん、そうだ。さっさと書き上げてしまおう。
 ということで、俺は学校に着いて早々にフロッピーディスクを差し込んだパソコンに向かった。
 どこまで書いたんだっけな? ああ、お遊戯会が終わった辺りか。
 では、続きを書き始めるとしよう。

――――――

 卒園するまでの一年半、俺達は本を読んだり自分達でオリジナルの物語を作ったりしてそれなりに楽しく過ごした。
 最初は読書の世界を激しく否定した倉内も、俺と一緒に過ごす内にその魅力にどんどん嵌っていき、元々頭が良かったのもあって卒園する頃には一人で平仮名・片仮名・漢字交じりの本を読めるようになっていて、俺は結構悪くない気分だったのを覚えている。幼稚園から帰った後や休日も一緒に過ごすくらいには、俺達はそれなりに仲良くなっていた。
 思い返せばその一年半の間、俺の隣に倉内の姿がなかったことはない。彼女は転入してきた当初から、そこがずっと前から自分の指定席だったかのように極自然にいつも俺の傍にいた。
 だから、そうして幼稚園を卒園し、学区割で同じ小学校に振りわけられ、同じクラスに配属されて更には席が隣同士だった時も、俺はそう大して驚かなかった。
 小学生になってからも彼女が俺の一番長く時間を共にする友人であることには変化がなく、俺の隣にはいつだって倉内がおり……そして俺はそんな日々がずっと続くものだと思っていた。小学校を卒業し、近所の公立中学校に進学するまで――まさかその頃の俺は自分が私立の中学校を受験することになるとは思ってもいなかったのである――俺達はずっと一緒にいるような、そんな気がしていた。
 小学生になって一年が経とうとしていた、春休み直前のあの日を迎えるまでは。
「私ね、転校するの」
 と、倉内は言った。
 日差しだけが春めいてきていて、空気はまだ肌寒い、そんな陽気の三月下旬のある日のこと。
 いつものように「一緒に帰ろう」と倉内に声をかけられ、その道中立ち寄った公園でブランコを揺らしながらのことである。あまりに唐突過ぎて一体何を言われたのか一瞬では理解できず、俺は「え?」と聞き返した。
「だからね、私、転校するの」
「転校?」
「そう。引っ越しちゃうんだよ」
「……いつ?」
「明日」
 倉内から突然に聞かされた別離宣言に、俺は柄にもなく驚いてしまった。そんな話は聞いていない。時に修了式の日まであと二日もないというのに、担任の先生だって一言もそんなことは言っていなかった。多分俺と同じようにクラスの他の連中も知らないはずだ。
 本当なのか、嘘じゃないのか。そう尋ねた俺に、倉内は俺を見ないまま浅くうなずいた。
「ほんとだよ。先生にはね、みんなには修了式の日に言ってって頼んであるの。だからユキちゃんの言う通り、まだみんなこのことは知らないの」
 どこへ? どうして? 聞きたいことは次々と俺の口から零れた。
「北九州ってところ。幼稚園の時、私、途中から引っ越してきたでしょ? こっちに来る前は、私はそこに住んでたの。……ユキちゃん知ってる? 北九州」
「知らない」
「そっか。結構遠いところだよ。飛行機で行くの。……私のパパ、またテンキンになったんだって」
 倉内はそう言ったきり黙ってブランコを揺らした。俺は何も言えなくなって、沈黙したまま正面の、俺達のランドセルとその他の荷物が放り出されたボロけたベンチを眺めていた。
「だからね。ユキちゃんとはもう、一緒に遊べなくなる」
 やがて倉内は言った。
「寂しいな」
「……うん」
 わずかに俯いて、俺もそっとブランコを揺らす。ふと見上げた空は必要以上に青い色をしていて、どうしてこんなにも今日の空は青い色をしているんだろうなんて、酷く場違いなことを考えた。
 倉内と出会って二年半、俺の隣にはずっと彼女がいた。その彼女が俺の日常からいなくなる――否、俺のあの時の感覚を正確に言い表せば、「消える」というのは、どこか信じられなかった。
「それでね、今日はね。少し早いけど、ユキちゃんにお別れを言おうと思ったの」
 修了式の日は、学校から帰ったら引越しの準備をしなきゃいけなくて、会えないから。
 倉内はわざと明るく振る舞うように最後、勢いよくブランコを揺らすと、そこから飛び降りて俺を振り返らないままにそう言った。俺と大して変わらない大きさのはずの背中が、やけに小さく見える。
 それからベンチに置いてあった自分の赤いランドセルのところへ走っていくと、倉内はそこから何かを取り出して戻ってきた。
「これは、ユキちゃんにあげる」
 そう言って倉内が渡してきたそれは――俺達がまだ幼稚園を卒園する前、二人で作ったオリジナルの絵本だった。絵の得意な倉内が絵を描き、字の書ける俺が文章を書いた、ホッチキス止めの簡単な冊子。
「私が持っててもしょうがないから。これはユキちゃんのもの」
 倉内が黙ったままの俺に無理矢理それを押し付けながら言った言葉の意味が、やっぱり俺にはよくわからなかった。俺は何とも答えることができず、やっとのことで出てきた言葉は、
「……もう会えなくなるのか?」
 というものだった。
 あの日倉内が本を読んでいた俺を覗き込んできた時から、俺の日常の中に倉内の姿がなかったことは一度もない。それが数日後には突然、彼女は遠くへ引っ越して俺の目の前から消えるという。妙に哀しくて切なくて、形容しがたい複雑な心境の中、それだけを尋ねるのが精一杯だった。
 無性に苛々した。
 何故自分が、こんなにも寂しい思いをしているのかが、わからなかった。
 高が自分の周囲から見知った人間が一人、消えるだけじゃないか。
 なのに、どうして、俺は、こんなにも。
「うん、しばらくの間はね。……でも、またいつかきっと会えるよ。私はそう思う」
 半ば独り言のように尋ねた俺のことをきょとんとした顔で見ていた倉内は、やがていつものように微笑んで答えた。
「……愛美」
「私は絶対、ここへ戻ってくる。ユキちゃんのところへ戻ってくる。それまで、手紙も欲しいし、電話も欲しいな。……でもそうやっていつかは、またここに戻ってくるから。そうしたらまた、二人で一緒に遊ぼう?」
 無駄に自信たっぷりに言って、倉内はいつものように笑う。
 やたらと悔しかった。
 俺がこんなにも複雑な心境に陥っているというのに、まるで普段と変わらず明るく笑っている倉内が腹立たしかった。こいつは本当に自分の言っていることの意味がわかっているのだろうか。わかっていて、こうしてへらへらと笑っているのだろうか。
 違う。そうじゃない。そうじゃなくて――
 どうして、倉内の表情の一つ一つにまで、俺の胸は締め付けられたように痛むのか。
「その時まで、元気でね。約束だよ、ユキちゃん」
 俺を正面から見据えた彼女が向けてきた笑顔は、俺のよく知る――裏も表もない、純粋で真っ直ぐで眩しい、笑顔だった。
 そして、俺は、

――――――

「っんー……」
 何とか最後まで原稿を書き上げ、俺はキーボードから離した手を天井に向かって差し出し、背筋を伸ばした。ずっと同じような姿勢で作業を続けていたせいか、身体の節々が痛い。いつの間にやら神川が用意してくれていたらしい紅茶IN紙コップを一口口に含んで一服した。
 見直しもそこそこに、俺は文芸部印のノートパソコンにプリントアウトの指示を出す。ケーブルで接続しておいたプリンターが順々に吐き出していった用紙を手に取って、再度目を通した。恋愛小説には程遠い作品に仕上がっているような気がしなくもないが、まぁ仕方あるまい。さっと誤字脱字だけ確認して提出してしまうこととしよう。
 と思いながら読み進めていったのだが……途中からやけに恥ずかしくなってきた。実話を元に小説を書くにしろ、このことを題材に選ぶなんてどうかしていたとしか思えない。俺は何てことを書いているんだ、気は確かか? 特に最後の数行だ。こんなのを誰か第三者に読ませるだなんて拷問に等しい、むしろ刑罰といった方が適切かも知れない。
「……どうすっかな」
 本当は全文を削除したいくらいだったが、生憎時間がそれを許してくれない。だったらせめて小恥ずかしい最後の数行だけを誰の目にも触れない内に書き換えてしまおうか。
 そう考えて、俺は手にしていた最後の一枚を丁寧に折りたたむとブレザーの内ポケットにしまい込んだ。ここのごみ箱に捨ててしまってもいいのだが、そうすると誰かに見つかって読まれてしまう可能性がある。後でごみ集積場に捨てに行こう。そう、自分の没原稿を大量に捨てにいっていたアキのようにな。
「……さて、と」
 幸い、空気のひんやりとした図書館書庫内には俺以外の人間はいない。ムツは美術部と漫研にチャチャを入れにいったまままだ帰ってきておらず、カナとアキなら今朝原稿を出してすぐに部活に行ってしまった。ミキは丁度自販に行っていて、メグは理由は知らんがまだ学校に来ていない。神川は印刷の日程を顧問と打ち合わせにさっき職員室へ出かけていった。
 書き換えるなら今の内だ。特にムツの目に留まらぬ内に――
 残りの原稿は机の上においたそのままに、フロッピーディスクに保存してある原稿を上書き保存してから最後の数行を削除、いざ書き換えようと俺がキーボードに手を掛けた、その時だった。
「たっだいまー! 美術部に頼んでおいた表紙絵と漫研に頼んでおいた挿絵、受け取ってきましたー!」
 どばん、と勢いよくドアが開かれたかと思うと、そこからムツが意気揚々と乗り込んできた。
 俺の背筋が一瞬で凍る。
「おっ? ……この原稿は?」
 美術部と漫研から受け取ってきた絵をムツが鼻歌混じりに置いたのと同じ机の上には、印刷してそのまま放り出しておいた俺の原稿が乗っている。
 ムツは当然のように、明朝体の文字が躍る紙の束に目を留めた。


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