* * *

 やめろ、と俺が止める間もなく、ムツは無駄に素早い動きで原稿を手に取った。つかつかと自分の定席まで早足に歩いていくと、腰を下ろして長い脚を優雅に組み、赤ペンを握って編集長気取りで目を通し始める。
 最初の内はおどおどとしていた俺だったが、やがて諦めてため息をついた。何を言われるかわかったもんじゃないが、どっちみち最終的にはこいつに読ませなきゃ終われないことだった訳だし仕方ない。あの最後の数行を読まれずに済むだけ御の字だ。
 さっさと隠しておいて良かった……。
 冷や冷やするやらほっとするやらの俺の目の前で、ムツはにやにやとやたらムカつく笑みを浮かべて恋愛小説モドキを読み進めていたが、ページが進むごとにその笑みは引いていき、やがて無表情になり、最後には眉根を寄せた真剣な表情になった。
 ……何かまずいことを書いただろうか?
「……」
 再び冷や汗をかき始めた俺の原稿を最後のページまで読み終えると、ムツは眉根を寄せた難しそうな表情のまま首をかしげる。奴の頭の上に巨大なクエスチョンマークが浮かんでいるCGが見えたような気がした。
「……これで終わりか? そんな訳ないだろ。オチがないぞ、オチが」
 どうやら俺の原稿の最後が不自然な終わり方をしていることに気がついたらしい。そりゃそうだ、オチに当たる部分は丸ごと欠損しているんだからな。
 けれど、そのオチの部分を見せる気がない俺としてはこれで終わりだと言うより他にない。俺は無言のままできる限りの神妙な顔をしてうなずき、ムツが納得してくれるように仕向ける。
 するとムツは大げさにため息をつき、束ねた俺の原稿をばさばさと振って更に眉を顰めた。
「こんな終わり方じゃ読者は納得しねーぞ。この倉内愛美って子、この後どうなったんだよ? まさかそのまま何事もなく北九州に転校しました、とか言うんじゃねぇだろうな」
 ええと、そう言うつもりだったのだが、何かいけなかったか?
「しらばっくれんな! それだと読者が納得したところで俺が納得しねぇ!」
 ムツはきりきりと眉を吊り上げた。目が逆三角形みたいな形になっているが、これはひょっとして怒っているのだろうか。
「大体な、これじゃ恋愛小説になってねぇだろうが! このままだとただ主人公の読書好きな地味で平凡で特徴に欠けた影薄い少年がクラスで一番キュートな女の子に気に入られたっていう、それだけの話じゃないかよ。これのどこに恋愛要素があるって言うんだ!」
 おい待て、俺は主人公で語り部の少年についてそこまでメタクソな説明をしていないぞ。
「それについてもとぼけるつもりか? 俺を馬鹿にするのもいい加減にするんだな、ユキ」
 ムツの眉間に刻まれた縦皺がますます深くなる。
「お前みたいなのが丸っきりフィクションのオリジナル小説を書けるなんてな、俺ぁ最初っからこれっぽっちも思ってねぇんだよ。せいぜい既存の恋愛小説からストーリーをパクってくるとか、人から聞いた話や自分の経験を元ネタにするとかが関の山だ。……思うにこの語り部の少年は幼少期のお前だろ? え、何とか言ってみやがれ」
 やけに鋭い。こういう時、ムツの異常なまでの勘の鋭さは厄介だ。
 一応反論を試みる。
「俺じゃない。語り部の少年も、倉内愛美も、どっちも俺が作ったキャラだよ。フィクションなんだって。この小説の『俺』は俺じゃなくて、そう、一人称小説の単なる語り部に過ぎない」
「そんな安っちい嘘が俺様に通じると思ってんじゃねぇぞ。……お前な、ヒロインに語り部少年を『ユキちゃん』なんて呼ばせておいて、なのにこの話がお前の過去に基づいたノンフィクションじゃないなんてな、信じる方がおかしいだろうが!」
 しまった、墓穴を掘ったかも知れん。
 確かにそうだよな……くそ、変えておくべきはオチだけじゃなく主人公の呼び名もだった。
「で? この後お前と倉内愛美ちゃんはどうなったんだ? ……ここまでの展開で恋愛要素がないのにこの話を恋愛小説にしようとしたってことは、欠損してるラストの部分にきっちり恋愛要素があるってことだろ。それを出さないで終わろうなんざ、俺の目が黒い内は許すことはできねぇな」
「……お前の目って茶色いじゃねぇか。もうとっくに許してくれてるってことだろ?」
「喧嘩売ってんのか、てめぇ? ……目が黒いってのは物の例えだろうが。人の揚げ足とって気ぃ逸らせようとしてんじゃねぇぞ、こら」
 な、何で気を逸らせようとしているとわかったんだ?
 ムツの目が逆三角を通り越してだんだんと細くなっていく。
「それに、そんな可愛い女の子とよろしくやっていた過去がお前にあるとなったら、同じ男としては詳しい話を聞かない限り絶対に見逃せねぇ。……で、この倉内愛美って子、誰なんだ? お前の何? この後お前等はどうなった訳?」
「えー……」
 あからさまに言い渋る俺に痺れを切らしたのか、ムツは原稿を机の上に放り出すとがたりとパイプ椅子を鳴らして立ち上がった。一気に距離を詰めてきたかと思うと俺のワイシャツの襟元を掴んで締め上げ……ぐえっ、苦しい。
「で?」
 淡々と尋ねるムツの声色は、夫の浮気を問いただす妻そのものだ。あまりの息苦しさに俺はついに観念して白状した。
「く、倉内は……昔の俺の友達で……」
「そんなんは読みゃあわかるんだよ。馬鹿にしてんのか? ぁあ?」
 野瀬睦、ヤンキーモードだ。
 鋭い眼光が俺を射る。
「……その後すぐに北九州に転校したよ。それっきりだ。最初の内は手紙のやり取りくらいしてたけど、もうずっと会ってないし、さ、最後に連絡取ったのはいつだったかなぁ……確か塾に通い始める前に年賀状を送ったのが最後じゃ、」
「で?」
 で、っつったって、他に何を白状すればいいんだよ。
「この話のオチは? 転校する直前、お前等は一体どうなったんだよ」
 反射的に胸のところを押さえてしまった俺は本当は馬鹿がつく正直者なのだと思う。
 ムツの目がきらーんと光った。
「はっはー……なるほどな。そこに最後のページを隠している、と」
 言うが早いか俺を本棚に力強く押しつけ、何の躊躇いもなく俺のブレザーの胸元に手を伸ばす。ダブルブレザーのボタンに手がかけられたところで我に返った。こいつ、まさかだけど脱がすつもりか?
「ばっ、馬鹿っ、何しやがる! 変態っ!」
「編集長命令だ、よこせっ!」
 慌ててその手を掴み抵抗する俺の手をいとも簡単に振り払うと、ムツは俺のワイシャツの襟元を更に強い力で締め上げろくな抵抗ができないようにしてしまう。本格的に窒息死の危機が目前に迫ってきた。どうにかして魔の手から逃れようと俺が暴れれば、ブレザーどころかネクタイとワイシャツが乱れていく。
「抵抗すんな! よこせったらよこせ、俺に隠し立てをしようなんざ百億光年早ぇんだよッ!」
「抵抗するだろ、普通! ついでに百億光年は時間じゃなくて距離だっ!」
 言ってもう片方の手をブレザーの内側に突っ込もうとしてきたムツに、俺はたまらず悲鳴を上げる。ブレザーとワイシャツの間でごそごそと這い回るムツの手が気持ち悪くてたまらない。夜道で襲われ強姦されそうになっている女子高生の気分というのを、この時俺は人生で初めて味わった。できれば一生味わいたくなかった気分だ。もう二度とレイプ系のエロビなんか見るもんか、例え従兄弟の兄ちゃんの誘いでも。
 その時である。
「おはよう、遅くなってごめん! いやぁ、うちの両親が朝から一悶着やらかしてね――」
 がちゃりとムツの向こうに見えるドアが音を立てたかと思うと、そこからそんなことを言いつつ笑顔で入ってきたのはメグだった。何というタイミングの悪さ、否、良さだ。助けてくれ!
「って、へ……えぇっ!?」
 メグは制服の乱れた状態で本棚に押し付けられ息を荒くしている俺と、俺を本棚に押し付けて制服を脱がそうとしているムツを見て一体何を思ったか、ぎょっと目を見開いて顔を紅潮させ、次の瞬間さっと青ざめたかと思うと再び真っ赤になった。
 そして五秒ほどの時を経て、
「わっ――わぁっ、ご、ごめん邪魔してっ! 何も見てないよ! うん大丈夫、僕は見てないからねっ!?」



「わっ――わぁっ、ご、ごめん邪魔してっ!」


 何か見当違いなことを叫びつつばたんと不躾な音を立ててドアを勢いよく閉め、鞄も置かずにどこかへ行ってしまった。……どんな勘違いをしたのか何となくわかるだけにとてもいたたまれない。メグ、邪魔なんかじゃ全然ねぇよ。助けろよ。
「さてと。……これで邪魔者はいなくなったな。協力者もいなくなったけど」
 珍しくこういう状況下でにこりともしていないムツが怖すぎる。
 ブレザーの中でセクハラを敢行するムツの手を必死に布の上から押さえつけつつ、俺は自販に行ったミキがここへ戻ってきてくれるのを心の底から願っていた。
 頼む、ミキ。今戻ってきてくれたら一生分の午後ティーを奢ってやるから、だから早く帰ってきてくれ。こうなったらもうお前だけが頼りなんだ。

 そうまでしてムツに奪われたくなかった最後のページに書かれていた、俺作の恋愛小説モドキのラストシーンは、以下のような内容である。

――――――

 そして、俺は、倉内の細い肩を抱き寄せると、何の躊躇いもなくその愛らしい桜色の唇に自分の唇を押しつけた。人生初の口付け。
 以前月曜日午後九時枠でやっていた恋愛ドラマでのその手のシーンに則り目を閉じる直前、倉内が驚いたように目を見開いたのが視界に映ったが、この際構いやしなかった。
 さらば俺の初恋の人。
 俺が特定の人間にここまでの執着を覚え、手放したくないと願った――これは最初で最後の記憶である。

 ※注意。ほぼ実話ですが一部フィクションです。

――――――


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